日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

紅く燃ゆるは追慕のこゝろ、水面に乱れる鮮血華。
巾着田01

埼玉県日高市大字高麗本郷の曼珠沙華群生地、巾着田
昨日の記事に、9月末頃の自身の日記を引用しておりますが、その中で
めちゃくちゃ生えまくっている曼珠沙華畑へ行きたい
と書いていた私…。
これは、つまり巾着田へ行きたいという意味だったので御座いました。
ただ…9月後半から今月にかけて、自分でも有り得ないよ…と凹みそうになるスケジュールで御座いまして(涙)
去年、巾着田の存在を知ってから、ずっと今年の この季節を待っていたのに、また私は見送ってしまうのかと思うと、居ても立ってもいられず……ある日の夕方、唐突に仕事を早退して埼玉へと向かっておりました。

巾着田02

巾着田は、日高市内を流れる高麗川の蛇行によって形成された巾着形の平地。
直径約500メートル、面積約22ヘクタールの川に囲まれた広大な敷地に、100万本以上もの曼珠沙華群が紅の絨毯のように一面に咲き乱れるという事で、その開花期間には毎年数多くの方々が遠方より足を運ばれているそうで御座います。

手前の駅までは然程、曼珠沙華の映えている光景を見る事は無かったのですが、電車が高麗駅に近付くと、車窓から ちらほらと賑やかな紅色を見付ける事が出来ました。

高麗駅から巾着田までは、徒歩で15〜20分程度。
途中の道々にも、沢山の曼珠沙華、秋桜を見る事が出来ました。
道脇や川辺は勿論、民家の御庭先にも、普通に沢山の曼珠沙華が植えられているのには驚きました。
本当に、曼珠沙華の郷なので御座いますね〜。

巾着田へ向かうまでには、曼珠沙華を取り扱った売店も御座いました。
なんと、そこには黄色い曼珠沙華も並んでおりまして…!
売り物で御座いましたので写真を撮る事は出来ませんでしたが、生まれて初めて見たなぁと密かに感動致しました。
何と無く、菊の御花にも似た印象を抱きました。

巾着田03

紅い色に導かれるように進み、橋を渡って川を越え、河原沿いに曼珠沙華を追い掛けている内に、気が付けば巾着田の曼珠沙華群生地へと辿り着いておりました。

群生地は、開花期間中は有料で御座います。
時刻は午後4時をまわった頃…急がなくては、日が暮れてしまうと、焦って入場口へ向かいましたが、何故だか そこに係の方はどなたもいらっしゃらず…。
どうしようかと悩んでおりましたら、帰り際に通り掛った巾着田の方が、
どうぞどうぞ、御ゆっくり楽しんで行って下さい〜
と仰って下さり、なんと無料で入れていただいてしまいました///
基本的には午後5時までが管理時間という事のようですが、日暮時には係の方々は撤収されてしまうようで、それ以降は自由に入退場しても良いのだそうで御座います。
私は、てっきり5時になったら出なくてはいけないのだと思い込んでおりましたので、とても慌てていたのですが、夜間でも自由に散策が出来るという事には感動で御座いました!
有難い事で御座います。

巾着田04

私が訪れたのは、開花期の終息間際…早咲き地点では、既に このような状態で、御花は枯れてしまっておりました。
濃厚な紅色が朽ちると、今度は それを支えていた茎の緑の鮮やかさが引立つように思います。
私の周囲で散策されていらっしゃった方々は、枯れた御花には余り興味が無い御様子で奥へ奥へと進まれて行かれましたけれど、私は満開を終えた御花も また美しいものだと思っております。
見事に咲き切った御姿は何にも増して堂々と見え、色褪せる風合いに次の季節への希望を感じさせられます。

先程、巾着田の公式サイト様にて確認致しましたところ、今年の曼珠沙華の見頃は終了してしまったという事で御座いました。
今年は各群生地の開花時期に大きな差が無く、全体的に例年よりも短い曼珠沙華の季節であったようで御座います。
丁度、私が訪れた日がギリギリ満開が楽しめる最後の日であったようで…無理を押し切ってまで強行して良かったな、と思っております。

これから冬に向かって、曼珠沙華は葉が成長を始めるそうで御座います。
紅い絨毯が、今度は緑の絨毯になるのだとか…。
是非、また近い内に訪れてみたいと思います。

巾着田05

更に進んで遅咲き地点に到達すると、そこは最早この世のものとは思えぬ、曼珠沙華の林で御座いました。
御昼過ぎまで降った雨の露を残した花弁や、紅と緑の合間に生える白い曼珠沙華の存在感、何処からともなく聞こえて来る秋の音色。
何と無く…その雰囲気に呑まれていたくて、暫しの間 呆然と立ち尽くして御花の囁きに耳を傾けておりました。

巾着田06

稀で御座いましたが、蕾の御花も見る事が出来ました。
あぁ、これから花弁を広げて天を仰ぐのだなぁと思うと、堪らなく愛おしく……縋り寄りたい衝動に駆られました。

魅惑的な御花には、毒なり刺なり あるもので御座います。
何処か妖艶めいた雰囲気で私を誘う曼珠沙華にとって、私が役に立つ獲物であったら素敵なのに、と意味不明な事まで考えてしまいたくなるのは…私がドMだからかもしれません(笑)

巾着田07

巾着田では、9月30日まで東側駐車場にて曼珠沙華まつりが開催されておりました。
仮設売店に並ぶ郷土物産品や御土産は、私が通り掛った時には片付けを始められておりましたが、ステージのような場所の跡も伺え、ここで色々と賑やかなイベント等が行われたのだろうなぁと想像致しました。

御天気の優れぬ夕方からの散策で御座いましたので、あっという間に日が暮れ、辺りは真っ暗に…;
実は私、こちらを訪れる数日前に一眼レフカメラを新調していたのですけれど、何故か この日持ち出したのは以前から使っているカメラの方で御座いました。
新しいカメラならば、きっと月明かり程度の灯りでも撮影が出来たのだろうなぁ…と微妙に反省をしつつも、これはこれで楽しませていただいたので良かったなと思います。
唯一、心残りを挙げるとするならば……人物が欲しかったな、という事で。
私の心象風景を、いつか1枚の写真に切り取れるように、次の御彼岸を迎えるまでに もっと腕を上げておかねばいけないなと思いました。

巾着田08

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華に喩へるなら、
曼珠沙華

私の好きな御花は、椿薔薇
――なりたいのは、曼珠沙華

曼珠沙華は、一般的には“彼岸花”と呼ばれる事の多い御花。
別名の多い御花で、凡そ400もの御名を持つそうで御座いますが…私の知り得る限りでは、“死に花”や“毒花”“地獄花”“家焼き花”等、非常に不吉な意味合いを持たせた通称ばかり。
全国各地で方言として数多くの別名があるという事で御座いますが、矢張り どの地方でも共通して、不吉であったり意味不明な呼名のようで。
また、彼岸花を持ち帰ると家が火事になるという言伝えや、彼岸花が咲くと死人が出る等といった迷信も、幼い頃より屡々耳に致しました。
こんなにも忌み嫌われる御花が、他に御座いましょうか…。

毎年、秋の御彼岸の頃に開花するから、彼岸花。
曼珠沙華と呼ばれるのは、仏教梵語の“マンジュサカ”から、天上に咲く御花の御名に由来するというもの。
法華経が説かれる時に現れるという6つの瑞相 法華六瑞の1つとして降臨する天界の四華の御名を曼荼羅華、摩訶曼荼羅華、曼珠沙華、摩訶曼珠沙華…と呼び、それぞれを白、青、紅、黄の色によって呼び分けているという事で御座います。
この説によると、曼珠沙華というのは赤い御花のみを指す呼名であったという事になりますね。

『ピーの想い出と、曼珠沙華の畑への憧れ。』

もう、お彼岸も終わってしまいますね。

先々週に千葉で赤い曼珠沙華(ヒガンバナの事よ)を見て、
先週は鎌倉の極楽寺で白い曼珠沙華を見ましたが、
もっと…こう、めちゃくちゃ生えまくっている曼珠沙華畑へ行きたいのです。

個人的に、曼珠沙華には特別な思い入れというか…ちょっと、不思議な経験がありまして。
あれって、球根で育つ植物らしいので、植えない限りは自生しないものらしいですね。
種で生えたりはしないんだそうで。
小さい頃、可愛がっていた小鳥が、私の所為で死んでしまって…。
父(←当時は居た)や母に、死体は山に埋めに行けと言われたけれど…私は、どうしても自分のすぐ傍に置いておきたくて、庭の木の根元に埋めたのです。
怒られたけど、私が頑固として鳥の御墓を泣きながら護ったよ。
その年のお彼岸の頃、何故か そこに赤い曼珠沙華の花が咲きました。
それまで、その場所は 大木1本の為に誂えられた石垣に囲われていたので、他の草花等は植えてもおらず…家族全員が、
「なんで、彼岸花が…?」
と驚きました。
よく、ヒガンバナを持って帰ると家が火事になるって言うでしょう?
毒があって“死に花”とも呼ばれているから、みんな気味悪がって、抜いてしまえだの棄ててしまえだの、酷い事を言ったのだけど、私はピー(死んだ鳥の名前)が私に もう成仏したから泣くなと教える為に曼珠沙華になって生えてきてくれたんだと信じたんだよ。
それから、曼珠沙華は とても素敵なお花に思えて大好きなのです。

       (以下略 / 2008年9月26日 私の日記より)


以上は、気紛れに付けている私のオンライン日記より抜粋したもので御座います。
友人限定で公開しておりますので、かなり適当に書いておりますが…まぁ、それは良しとして;
こういう不思議な経験をしている事も、大きな理由のひとつになっているのですけれど、私にとって曼珠沙華は、本当に特別な御花。
もしも、私に曼珠沙華の別名を考える事が許されるのであれば、私は きっと導き花…“導華”と名付ける事で御座いましょう。

私は良く、椿のように生きたいと語っておりますが、もしも自分が御花になれるのであれば、紅い曼珠沙華になりたいと強く思っております。
毒があるから触るな、不吉だから近付くな、と教えられて育ちながらも尚、この御花に惹かれる この想いとは一体何なので御座いましょうか。
正直、少し怖いと思う気持ちは御座います。
でも、それと同時に近寄りたい、触れたいと願う気持ちも昂って…。
禁じられるものに対して生じる興味とは また別の感覚で、自分でも不思議で仕方が無いのですけれど、もしかすると 私は潜在意識下において、この凛とした絶対的な御姿に憧れを抱いているのかもしれません。

曼珠沙華

古典文学に伺える、この御花の初登場は万葉集…かもしれません。。
断定が出来ないのは、現在使われている呼び名で呼ばれていない為、果たして それが本当に曼珠沙華を指している言葉なのか否か、確かでは無いからで御座います。

万葉集に見られる、曼珠沙華らしき御花の呼称は“壱師”と書いて“いちし”と読みます。
壱師が何を指す単語なのか伝えられていない為、はっきりとした事は何も分かっておりませんが、現時点での最も有力な説として挙げられているのが、曼珠沙華という事で御座います。
その他にも、羊蹄、虎杖、斉墩果、苺 等の候補が考えられているようで御座います。

壱師を詠んだ御歌は、万葉集には巻第11に1首のみ収録されております。
作者は、柿本人麻呂様。
原文は“路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀”ですが、<或本歌曰 灼然 人知尓家里 継而之念者>とあり、ある本の御歌では“いちしろく 人知りにけり 継ぎてし 思へば”となっているようで御座います。

   道の辺の いちしの花の いちしろく
     人皆知りぬ 我が恋妻は


“鮮やかな壱師の御花道辺に咲くように、私の恋しい妻の事を人が皆 知ってしまいました”

“いちし”と“いちしろく”が掛詞になっておりますね。
言葉の響きから、何と無く白い御花を想像したい気も致しますが…この点も、未だ深い謎に包まれているところで御座います。

曼珠沙華

曼珠沙華が広まった由来にも、様々な説が御座います。
通説になっているのは、稲作に伴って伝播した史前帰化植物であるとされる説。
その他、仏教伝来時に大陸から伝わったという渡来説等もあるようで御座いますが、どれにせよ、人の手によって植えられ繁殖されてきた植物であるだけに、元々日本に自生していたとは考えられていないようで御座いますね。
現在は田畑の畦や、川辺、墓地等に良く見掛ける事が出来ますが、これは曼珠沙華の毒性を利用して農作等に害を為す動物の侵入を防いだり、その根が地の補強や土止めになるという事による光景のようで御座います。

毒草としての印象が強い曼珠沙華で御座いますが、古くから薬草としても用いられておりました。
薬となるのは、鱗茎部分。
勿論、全体的に毒素を持つ曼珠沙華で御座いますので、鱗茎にも有毒な成分が含まれているのですが、解毒剤、催吐剤として服用したり、また薬腫れ物や疥癬等の塗布薬として使用されたりもしていたそうで御座います。

曼珠沙華中毒になると、吐気や嘔吐、下痢、頻脈、中枢神経麻痺等の症状を引き起こし、場合によっては死に至る可能性もあるそうで御座います。
先週、代々木公園を歩いていた時に、3人の子供達が何処からか摘み取った曼珠沙華を片手に駆け回っておりましたので、思わず呼び止めて
この御花は奇麗だけど毒があるから、この後で何か食べる前には、ちゃんと手を洗ってね
と言うと、
え…、毒!??
と、酷く驚いた様子で御座いました。
私も私で、この子達は そうと知っていて摘んで来たのでは無いのだという事に気付き、都会の子供達は彼岸花を知らないのだろうか…と内心とても驚いてしまったのですけれど(苦笑)
気をつけます、有難う御座います
と礼儀正しく立ち去って行った子供達で御座いましたが、私から離れて10秒後位には草叢に手折った御花を捨てておりました……;
まぁ…迷信とはいえ、火事を呼ぶという謂れを持つ御花でも御座いますので、持って帰ったら御母さんに怒られるかもしれないですよね…(私の実家ならば確実に、山へ捨てて来いと怒られる事で御座いましょう…)

毒、毒と連呼しておりますけれど、曼珠沙華は上手に利用すれば食用にする事も可能で御座います。
実際に戦時中等、食糧難に陥った時分には、屡々食べられていたようで御座います。
そのまま食べると確実に中毒を招きますが、澱粉を多く含んだ球根は、潰して何度も水に晒し、毒素を取り除けば、人体に悪影響は無いのだとか。
ただし、毒素が完全に抜け切っていないものを食用して死亡する方も多かったようで御座いますので、現代を生きる方々は間違っても試みないでいただきたいところで御座います。
命懸けで曼珠沙華を食べる必要の無くなった、今の日本に生きていられる事の有難さを痛感させられますね。

曼珠沙華

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木漏日のおつる合間に苔蒸すは、光滴る ゆやの御社。
天寧寺前の熊野社01

新選組局長 近藤勇さんの御墓と 副長 土方歳三さんの供養塔のある、会津若松市の天寧寺さん。
その御参道である石段から細い道路を挟んだ向かい側に御座いましたのが、こちらの御社――熊野神社で御座いました。

“熊野神社”という御名の神社には、御挨拶もせず通り過ぎる事の出来ない私。
天寧寺さんを訪ねている間、石段下で待たせていた母に、
こちらの神社にも、ちょっとだけ御挨拶をして来ます…!
 あと3分だけ、待ってて下さいー

と告げて、意気揚々と鳥居を潜って石段を上りました。

天寧寺前の熊野社02

□ 熊野神社(くまのじんじゃ)

所在地:福島県会津若松市東山町石山
御創祀:不詳
御祭神:不詳


現地で詳しい事を調べる為の時間も無く、御由緒や御祭神について等 殆ど何も分からなかったので御座いますけれど、この辺りの産土神様なのかもしれませんね。
または…天寧寺さんと至近距離である事から、もしかすると 明治期の神仏分離以前までは、天寧寺さんの鎮守社として御祀りされていた神社だったのでは無いかなぁとも考えられるような気が致します。

何も分からない場合は分からないで、境内や御社の雰囲気に集中出来るのが良いですね。
住宅街から少しだけ上った こちらは、とても静かで穏やかな空気の流れる神聖な場所で御座いました。
石段の苔蒸した感じとか、木々のざわめき、小鳥のさえずり…短い参拝時間の中で、色々なものを感じさせていただきました。

天寧寺前の熊野社03

境内には、未だ紫陽花の御花が咲いておりました。
そういえば、この4日前に訪れた日光の地でも、紫陽花が見掛けられましたね〜。
数年前の初秋、平泉の高館を最初に訪れた時にも紫陽花が咲いておりました。
今年も梅雨の頃に、紫陽花の季節が終わちゃう〜;;と焦りながら、鎌倉の長谷寺さんを訪ねたり、偶然?那智山の満開な紫陽花を楽しんだり致しましたが、そういえば3月に免許取得の為に山形滞在していた時にも、関東以西よりも開花時期が随分とズレた御花を見る事が出来ましたっけ…。
よし、今度から うっかり鑑賞したい御花を見逃してしまったら、少し遅れて東北へ行けば良いんだ!……等と、考え始めたりする私は 実に単純な思考の持主で御座います;
良く考えれば、全然そういう問題では御座いませんでした…(反省)

天寧寺前の熊野社04

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天寧寺さんに眠る、新選組のツートップ。
天寧寺さん01

福島県会津若松市。
東山温泉の手前、天寧寺さんという御寺さんに、新選組局長 近藤勇さんの御墓があるという事で、どうしても御参りをさせていただきたく思い、行って参りました。

私は上京前に数年間、関西で生活をしていた事があるのですが…初めて広島を出て、見知らぬ土地で独り暮らしを始めた頃は、自分でも信じられない位に寂しい思いを致しました。
最初の1ヶ月は、周りの友人達の宥めの声も届かない程に毎日毎日泣き暮らしたりしておりまして;
幼かった事もありますが、このままでは広島を出た意味が無いと思いつつも中々立ち直る事が出来ず……そんな孤独な日々を救ってくれたのが、日本史と その史跡で御座いました。
元々、歴史マニアな私らしい現実逃避の方法で御座いますが(笑)とにかく、他の事を何も考えられない位に歴史関連の本を読み漁り、時間を見付けては毎日のように京都で史跡を巡っておりました。
源平史跡は勿論なのですが、意外にも私が1番最初に訪れた場所は、壬生――新選組縁の地で御座いました。
その他にも、京都の新選組関連地には殆ど足を運んでおり、精神的に随分救われたと今でも心から感謝致しております。
会津旅行が決まった時、会津藩や白虎隊に関する事を現地で学びたいと思いましたが、同時に新選組縁の地と局長の御墓には どうしても訪れて御挨拶をしたいと予てより願っておりましたので、念願叶っての参拝で御座いました。

天寧寺さん02

天寧寺さんへの参拝は、実は2日掛かりで御座いました;
会津に入って2日目の日に、若松市内をぐるりと1周するような感じで幕末の史跡巡りと観光をさせていただいたので御座いますが、さぁ いよいよ天寧寺さんを!という時になって、地図を見た母が
これって、もしかして結構な山の中なんじゃないん?
 行ったら飯盛山行かれんかもしれんよ

と言い出しまして。
天寧寺さんに行かれないのは困りますが、かといって飯盛山を諦める事も出来ず…。
丁度、天寧寺さん麓の道路沿いにある御蕎麦屋さんで御昼御飯をいただいている時で御座いましたので、御店の方に近藤さんの墓所について御伺いしてみたのです。
そうしましたら、山の中なので行くのは結構大変ですよという事で御座いましたので、
この後にも飯盛山で史料館巡るんなら、あんまり時間も無いし、ここは やっぱりやめといた方がいいんじゃないん?
と言うので……その日は、渋々諦める事に致しました…。

が。
諦めの悪い私は、翌日の朝に東山温泉を散策した後に、
未だ ちょっと時間に余裕もありますし…矢張り、近藤さんの御墓には御参りして行きたいのです
と駅へ向かうバスを降り、再び天寧寺さんを目指す事に致しました。
最終日で重い荷物を所持していた母は、やや困った顔をしておりましたが、
まぁいいや、折角だし。
 行くんなら、早よ行こうや!

とアッサリ気持ちを切り替えて、歩き出してくれました。

天寧寺さん03

如郎ヶ前のバス停、案内板から、天寧寺さんの入口までは、徒歩7分程度だったで御座いましょうか。
思ったよりは全然近いな〜と思いつつ、石段を上って天寧寺さんの境内に入ります。

母は、重いカートを抱えて石段を上り下りするのは無理なので、ここで待っていて貰う事になり、私は ひとりで天寧寺さんと近藤さんの墓所へ向かいました。

天寧寺さん04

□ 天寧寺(てんねいじ)

所在地:福島県会津若松市東山町石山天寧
御創建:文安4(1447)年
御開基:蘆名盛信
御開山:傑堂能勝
山 号:萬松山
宗 派:曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏


天寧寺さんは、文安4(1447)年 蘆名盛信様が大瞞行果禅師 南英謙宗様の為に建立されたという御寺さん。
蘆名氏の菩提寺として栄え、会津曹洞宗の僧録司として、最盛期には33ヶ寺と12の僧堂を数える大寺院で御座いました。

天正14(1586)年 蘆名氏の血統が廃絶すると、佐竹義広様が跡を継がれます。
義広様は はじめ、白河結城氏を継いで“白河義広”“結城義広”と称されておりましたが、天正15(1587)年、蘆名盛隆様の娘と結婚して“蘆名義広”と名乗られるようになります。
然し、2年後の天正17(1589)年、摺上原合戦に敗れた義広様は伊達政宗様に追われ、この時に天寧寺さんも焼失致しました。
現在、御本堂の礎石のみが、当時の面影を偲ばせているそうで御座います。

蘆名氏の後を継ぐ方はいらっしゃなかったようで御座いますが、周囲の方々によって天寧寺さんは維持、存続され、現在に至っているようで御座います。

天寧寺さん05

天寧寺さんの境内には、会津七福神の毘沙門天様や会津二十一地蔵尊の第10番 首無身代り地蔵尊様がいらっしゃいました。
首無身代り地蔵様は、家内安全の御加護の他、病気等の苦難から身代りとなって助けて下さる御地蔵様という事で御座います。

近藤さんの御墓の他、こちらには萱野権兵衛様御夫妻と その御子様の御墓も御座います。
権兵衛様は戊辰戦争の鶴ヶ城開城に際して、藩主 松平容保様と共に降伏文書に署名された御方。
その後、戦争責任追求の会議で首謀者の出頭を命じられた時に自ら名乗り出られ、会津藩における一切の戦争責任を切腹をもって担われたのでございました。
享年は41歳…その権兵衛様も、近藤さんと共に この地に眠られていらっしゃるので御座いますね。

天寧寺さん06

会津若松ライオンズクラブさんが設置なさった道標に従って進んで行きます。
舗装されていない山道に入りますが、これは西軍に見つからないように山中に秘かに御墓を建立した為ともいわれております。
途中、木々の合間から見下ろす若松の町並は壮観で、こういう場所だからこそ、土方さんは 選ばれたのでは無いかなぁと感じました。

こういった道に慣れっこな私は、細かに道標が立てられていた事もあって、想像以上に楽々と墓所に辿り着く事が出来ました。
母は、置いてきて正解だったな…とも思いましたが(苦笑)

天寧寺さん07

こちらが、近藤さんの墓所…並びに、土方さんの慰霊碑で御座います。

向かって左が、土方さん建立の近藤さんの御墓。
慶応4年4月(1868年4月)に悲惨な最期を遂げられた近藤さんの供養を、土方さんが容保様に願出された事により、会津藩の協力を得て墓所造営に至ったようで御座います。
法名は、貫天院殿純忠誠義大居士
墓碑に“近藤勇”と御名を記されなかったのは、西軍に見付からぬようにとの配慮からという事で御座います。
この御墓には、近藤さんの御首を埋められたという説、遺髪を埋められたという説等があるようで御座いますが、どれも確証のある説では無いそうで御座います。
ちなみに…近藤勇の御墓は、こちらの他に4ヶ所伝えられております。
内、3ヶ所は都内で、もう1ヶ所は愛知県岡崎市の法蔵寺さん。
私は都内在住でありながら、未だ その3ヶ所を御参り出来ずにおります…近場程、訪れが遅れると申しますが……いけませんね、そんないい加減な事では;

そして、右側に建立されているのが、土方さんの慰霊碑。
側面には、土方歳三という俗名や戦死地等が記されておりました。
近藤局長の御傍に、土方副長…どちらも、亡くなられた地は会津では御座いません。
が、旧幕府軍として容保様の元で尽くされた時間は、御2方の御生涯にとって掛け替えの無いものであったのでは無いかと……。

天寧寺さん08

御墓の手前には、近藤さんの辞世の句碑が建立されておりました。
これは、近藤さんが板橋で幽閉された時に詠まれたもので御座います。

孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 □陽千古是吾儔 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩

義を取って生を捨てるは吾が尊ぶ所であるのだから、電光三尺の剣を快く受けようと仰り、ただ将に一死をもって、君恩に報いん……そんな想いで迎えられた御最期。
真直ぐな御方であられたのでは無いかと、勝手ながら胸が熱くなるのを感じました。

   近藤勇藤原昌宜之墓

 天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷土宮川久次郎の三男として生る。
幼名を勝太と謂う、自宅に同情を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
 師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七才の時養嗣子として迎える。
元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ、塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。
その後京に上り新選組の母体となった。
新選組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。
中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である、長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
 新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火気の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成、勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に終結していた。
勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二誌を遺して斬首の刑に処せられた。
 会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。
       一九七七年十月 会津若松ライオンズクラブ



天寧寺さん09

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あいづみどりの奥座敷、つかれてつかる治癒の御湯。
東山温泉01

福島県会津若松市――東山温泉郷は、会津の奥座敷と呼ばれる自然豊かな温泉地。
…で御座いますが、会津若松市内中心部から然程 距離が離れている訳でも無く、路線バス ハイカラさんに乗車すればアッサリと到着してしまえる素敵な場所で御座いました。

発見は約1300年前、行基様による御開湯という事で御座います。
日本には、全国各地に幾つも行基様発見という伝承の残る温泉が存在しておりますので、こちらも その内の1ヶ所という事になりますね。

東山温泉02

何と無く、川に沿って歩いていると…む!何やら、前方に見える御宿の壁に、土方歳三副長の御顔が!??
土方さんだ、土方さんだー!
と馴れ馴れしく近付いてみると、御宿前に架かる芳袖橋の袂に、土方さん縁の温泉が御座いました。

古くは“猿の湯”と呼ばれた その温泉は、源泉掛け流しで楽しめる硫酸塩泉。
さらさらとした水質で、豊富な湯量が薬湯としても用いられていたので御座いましょう。
戊辰戦争の折、土方さんが宇都宮城の攻防戦で足を負傷し、鶴ヶ城下 七日町の清水屋さんに運び込まれて治療を受けられた事は以前に記しておりますが、どうやら回復に向かわれた土方さんは、東山温泉にも湯治に訪れていらっしゃるようで御座います。
この地には、当時 土方さんが、療養中に岩風呂から川に飛び込まれたという逸話も伝えられているそうで御座います。

東山温泉03

土方さんが傷を癒されたという源泉は、御宿の外側から拝見させていただけるという事で…。
折角で御座いますので、近くまで降りて見せていただきました。

   東山温泉発祥の由来

この源泉は、今から約千三百年前遊行僧 行基上人(奈良時代天平年間・西暦七百二十九年)が 相づち法巡錫の折、川岸に白い湯煙をあげて噴出する霊泉を発見 開湯されたもので、野猿が群れて入浴していたことから「猿湯」と呼ばれておりました。
浴槽は天然の岩の窪み、岩底の割れ目から千年以上もの間絶えることなく温泉が自噴しております。
 当温泉は、天正年間(西暦千五百八十四年)頃は現存する萬松山天寧寺の寺領だったこともあり「天寧寺の湯」とも云われておりました。
「猿湯」は創傷、火傷に浴効あり戊辰戦争(慶應四年西暦千六百六十八年)時は、新選組副長土方歳三が宇都宮城の西軍との攻防戦で受けた右足の銃創をこの「猿湯」で癒したと伝えられております。



東山温泉04

土方さん縁の源泉から川を挟んだ向かい側には、誰でも自由に浸かれる足湯が設けられておりました。

東山温泉へ立ち寄ったのは、旅行の最終日。
会津に入る前、日光で華厳の滝を訪ねて中禅寺温泉へ参りましたが、温泉には入れませんでしたので…せめて、帰る前に足湯にだけでも浸かって行きたいなぁと思いまして、母を誘って東山温泉に向かったので御座いました。

こちらに掲げられた東山温泉足湯の御由来記によりますと、行基様が こちらを訪れられた際、何処からか3本足の不思議な色の羽根を持つ烏さんが現れたそうで御座います。
そして、その烏さんに導かれて湯川沿いを進まれたところ、岩場の間から立ち昇っている湯気を発見なさったという事で……3本足の烏さん…とは、矢張り 八咫烏さんなので御座いましょうか。
古くから傷を癒す当時の御湯であったという この温泉には、烏さんをはじめ、鶴さんや鷺さん等の野鳥も多く飛来し、御湯に足を浸けて怪我を治療したといわれているそうで御座います。

東山温泉05

↑足湯の入口には、このような素敵な“什の掟”…ならぬ、7箇条の訓示が掲示されておりました。
湯っくり、湯ったり、東山流♪
大切に愛し、護られている温泉なのだなぁと感じました。

東山温泉06

足湯に浸かると、丁度 土方さんと御対面出来るような位置なので、ちょっと不思議な雰囲気で御座いましたが、楽しかったです。
目が合ったら照れるなぁ〜とか余計な事を考えていたのですけれど、土方さんは やや斜め下辺りに視線を落としておられたようで…(笑)

足湯内には交流ノートも置いてあり、これまでに来られた色々な方の感想等を拝見する事が出来ました。
素敵なコミュニケーションの場になっているので御座いますね。
足湯は無料で利用出来ますが、直ぐ近くの道路沿いには足湯専用の無料駐車場も完備されており、至れり尽くせりなスポットだなぁと感動致しました。

東山温泉07

私が足湯を楽しんでいる傍らで、何故か突然 飯盛山で御土産に買ったという(いつの間に…)御饅頭を開ける母…。
早よ食べんとねぇ、固ぅなるんよ
……足湯には、浸からないのですか?と問うと、
ストッキング脱ぐんは大変じゃけぇ、ひろちゃんが入っとるの見て楽しむ
だそうで御座います……えぇ;
そ、それで良いのならば…何も申しませんが…。

土方さんが湯治を行われたと伝えられる温泉。
行基様によって発見された歴史ある御湯ならば、もしかして平安の頃にもどなたか御来訪なさっておられるかも〜!と思いまして、ちょっと調べてみたのですけれどー…残念な事に、私のセンサーにヒットするような時代の御方についての伝承等は残っていないようで御座いました(苦笑)
ちなみに、戦国以後の方々で有名な来訪者に豊臣秀吉様や伊達政宗様、加藤嘉明様 等がいらっしゃるようで御座います。
それから、幕末には吉田松陰先生も!
更に下れば、伊藤博文氏や犬養毅氏、横山大観氏、与謝野晶子さん、竹久夢二さん、野口英世さん 等々……著名な方がが多く訪れていらっしゃいますね。

東山温泉08

足湯から上がって、バスの時間までは未だ余裕がありましたので、少し周辺を散策してみようという事になって、川沿いを上流に向かって進んで行きました。

温泉場の町並は、昭和な香り漂うレトロさが魅力的で御座いました。
射的場も御座いました。
旅先の温泉街で時折見掛ける事は御座いますけれど、1度も入った事の無い射的場…良く、映画等で見掛ける場面を想像すると、ちょっと覗いてみたくなってしまいます。

東山温泉09

こちらは、道路脇にいらっしゃいました 夜泣き地蔵様。
子供を連れて御参りをすると夜泣きが止むといわれており、古くから町の人々に親しまれているのだそうで御座います。
何というか、独特な表情をなさっておられるのが印象的で御座いました。

東山温泉10

尼渕と呼ばれる こちらは、葦名家の重臣 大町左京盛胤様の娘 千穂姫様にまつわる伝承の地。

千穂姫様には、領主 葦名直盛様の小姓である簗田衛門様という許嫁がいらっしゃいましたが、美しい姫君であるという評判を聞いた直盛様は千穂姫様に結婚を迫ってこられるようになりました。
その申し入れを拒み続けた千穂姫様で御座いましたが、ある時 御父様の盛胤様が御留守である時に領主直々の召出状が出されてしまい…、受け入れる事の出来ない千穂姫様は途方に暮れた末、自殺を決意なさったので御座いました。
湯川渕にて御身を清め、湯上羽黒山三社権現の奥の院に21日間の祈願をなさり、そして満願の その日、夢枕に立たれた神仏から仏門へ入るようにと告げられますが、簗田衛門様を諦められなかった千穂姫様は、渕へ投身。
姫様を助けられたのは、軍茶利様、妙見様、観音様の御三尊であったといわれ、それを見ていた別当 東光寺行智上人の勧めにより、千穂姫様は仏門に入られました。
そして、名を“智尚尼”と改められたという事で御座います。

千穂姫様が御身を投げられた渕は、以後“尼渕”と呼ばれるようになったそうで、今も こちらには石碑が建立されております。
純愛を貫き通そうとした結果、死ぬ事も許されず、生きていても決して結ばれる事が許されず…千穂姫様の嘆きは、どのような形に変わっていったのだろうかと考えさせられます。

東山温泉11

尼渕の手前には、竹久夢二さんの碑“まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ”が御座いました。
元々は別の場所に建立されていたものであったようで御座います。

東山温泉が大の御気に入りだったという夢二さんは、この地に長く逗留されており、とんぼさんという東山芸妓の絵も描かれているそうで御座います。
その絵は、現在 御宿のロビーに展示されているそうで、宿泊客の方々に公開されているという事で御座います。

東山温泉12

今回は時間の都合で行けませんでしたが、この近くには 旧会津藩の歴代藩主墓地も御座います。
松平容保様の御墓には、いつか御参りさせていただきたいと思っております。

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