
その紅い紅い華は、常世に広がる現世の記憶ようで。
いつか、私も この紅に染まる日が来るとしたら。
…いつになれば、私はこの紅に沈む事が出来るのかしらと縋るような想いさえ、何処か懐かしく感じられて。
有毒が故に、死に花、地獄花 等と称される、忌花――それが持つ毒の事実を知りつつも、鮮やかで美しい花弁の紅に魅入られたからには、ただ只管に近付きたくて、恋しくて…許されたいと願ってしまうので御座います。
一体、何が そうさせてしまうので御座いましょう。

冒頭からホラーちっくな画像で申し訳御座いません…危ない人で御座いますね、私;
先月下旬、昨年同様に埼玉県の巾着田へ曼珠沙華を見に行ってまいりました。
“曼珠沙華群の中に佇む少女”……私のイメージでは、もっと幻想的かつ果敢無げな世界観が広がっていたので御座いますが…いや、これはモデルが悪すぎで御座いますね!存在そのものが恐しゅう御座います!!そもそも“少女”って誰の事……あぁ御免なさい御免なさい…凹。。
昨年は夕暮時に1人で訪れた巾着田で御座いましたが、今年はしんやさんを半ば強引に御誘いして、朝イチで行く事に致しました。
東京を午前3時頃に出発して、しんやさんの運転する車で連れて来ていただいたので御座いますが、私は巾着田に到着するまで爆睡しておりました(最低)…も、申し訳…御座いませ…;
1枚目の写真も、私がしんやさんにカメラを預けてシャッターを切っていただいたものなので御座いますが、あわわ…さぞや恐怖体験だった事で御座いましょう;;
来年こそは、私の想像…いえ、妄想の世界に似合う女の子を見付け出して連行したいもので御座います(笑)

曼珠沙華の開花情報は公式サイト様で ちょくちょく拝見しておりましたが、何と無く予定が空いている日に思いつきで予定を入れてしまいまして。
もしかして見頃を過ぎてしまったかしらと心配だったので御座いますけれど、見事に ほぼ満開で御座いました!
部分的に早咲きのエリアでは既に開花が終了していたりも致しましたが、全体的には殆どが綺麗に咲き誇っており、とても圧巻で御座いました。

明け方の時間帯を狙って向かったのは、仄暗さの中に生きる色を印象強く写したかったからなので御座いますが、同時に そこが無人の空間であるように演出したかったからという理由も御座いました。
この日は休日で御座いましたので、時間が経過するにつれて人の数も多くなっていきました。
静かな雰囲気も素敵で御座いましたが、沢山の方々が綺麗ねと語り合いながら散策されている姿や記念撮影を楽しまれている様子もまた、素晴らしい光景だなと感じました。
公園内では“曼珠沙華まつり”も開催されており、段々と賑やかになっていく会場に色々な御店がテント出店されていて楽しかったです。

去年 曼珠沙華について書いた記事に、万葉集に柿本人麻呂様が詠まれた壱師(恐らく曼珠沙華)の御歌について記しておりましたが、巾着田には この御歌とは別の万葉歌碑が御座いました!
場所は、私達が利用させていただいた駐車場の直ぐ傍。
電車で訪れた去年は気付けませんでしたので、今年は車で連れて行っていただけた事を本当に感謝しております。有難う御座います。
こちらの歌碑は巻第14の高麗錦を詠んだ御歌のもので御座いました。
原文は、“巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓 安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎”
高麗錦 紐解きさけて 寝るがへに
あどせろとかも あやにかなしき
“高麗錦の紐を解き放って寝たというのに、その上 どうしたら良いというので御座いましょう…どうしようも無く、可愛く思えてならないのです”
何というか、とても甘酸っぱ〜い御歌で御座います(笑)
一線を越えた事で心も体も満たされたというのに、収まるどころか高ぶる気持ちを素直に詠まれたものなので御座いましょう。
高麗錦の万葉歌碑
所在地 日高市大字高麗本郷十七番地
建立日 平成二年十一月十日
巨麻尓思吉 比毛登伎佐氣弖 奴流我倍尓
安杼世呂登可母 安夜尓可奈之伎
高麗錦 紐解き放けて 寝るが上に
何と為ろとかも あやに愛しき
(万葉集巻第十四、三四六五)
この歌は万葉集の東歌の一首で
「高麗錦の紐をといて共寝もしたのに、まだ恋しさが増す。この上、一体何をすればよいのか。ふしぎなほどに愛らしいことよ」
という意味である。
どんなに愛しても際限がない愛の歓びと切なさを大らかに歌い上げた秀歌である。
高麗錦とは大陸から伝えられた技術による高級な錦織りのことで、当時この地は、高麗郷と称し、大陸からの渡来者が高度な文明を周辺諸国に伝えていたから、ここで錦が織られたとする学説がある。
日高市はこの当時をしのび、郷土の歴史を誇りをもって後世に伝えるために、万葉学者文学博士・中西進先生の揮毫による歌碑を建立した。
市民文化の向上と郷土愛育成の一助となることを念願するものである。
平成二年十一月 日高市教育委員会

ちなみに…高麗錦を詠まれた御歌は、この御歌の他にも万葉集に あと6首程 御座います。
巾着田には来年も訪れたいと思っておりますし、その際には高麗神社や高麗氏 縁の地へも足を運んでみたいと思います。
歴史深い高麗の郷をもっと知りたいという気持ちが御座いますので、いずれ 他の御歌についても触れてみたいと考えております。
歌碑の隣には、曼珠沙華の俳句を募集する投句箱が設けられておりました。
この周辺を歩いていると、一般的に この御花に植え付けられている忌まわしい印象というものが随分と疎遠のものであるかのように感じさせられます。
私の地元では、“気持ちが悪い”“縁起が悪いから抜いて燃やせ”と言われて…それでも、どうしても護りたかった…私にとっては特別な御花。
それが、この地域では普通に“美しい御花”として愛でられている事実……付近の御家庭では、庭先にも秋桜 等と共に、普通に曼珠沙華が風に揺れておりました。

巾着田で曼珠沙華と同時に満開の時を迎えていたのは、秋桜。
畑の中に綺麗に植えられておりましたが、自由に傍に寄って触れる事が出来ました。
春の桜は中々手が届かなくて見上げてばかりで御座いますが、秋の桜は私の背丈と同じ位。
「綺麗に咲きましたね」
そんな風に、つい話し掛けて花弁に手を添えてしまうのは、色とりどりの御花が楽しそうに体を揺らして誘っているように感じるから…なのかもしれません。
自分で思っている以上に、私は乙女ちっくな思考の持主なので御座いましょうか。




こちらは山口県下関市豊北町角島に御座います、角島小学校。
角島唯一の小学校で御座います。
ひとつ前の記事で、長門国 角島が奈良時代から わかめの産地として知られ、都とも深く関わっていた事に触れました。
古くから知られる角島の名は、“都濃嶋”とも表記されていたようで御座います。
平城京跡から発見された木簡には“長門国豊浦郡都濃嶋出稚海藻 天平十八年三月廿九日”と記されており、また この記述から 角島の わかめが税として朝廷に毎年納められていた事が分かっております。
現在も、角島ではわかめが海産物として有名なのだそうで、沢山のわかめがとられているという事で御座いました。
そんな 歴史深い角島と、角島の わかめを詠まれた御歌が、万葉集にも1首御座います。
↓角島に渡った時、公園入口に案内地図が設置されており、そこに万葉歌碑の存在と場所が紹介されておりました。

この案内板を見るまで、角島が歌枕であった事に全く気付いてもいなかった私で御座いますが、見つけてしまったからには行くしか御座いませんよねっ!!…という事で、行って参りました。
思いっきり“角島小グラウンド東に建っています”と書いてありますが、愚かにも私はこの記述を見落としてしまっておりまして……地図的に、多分 小学校の直ぐ近くの筈だという事で、小学校を目指しました。

海岸沿いの道から続く短い坂を登ると入口があり、校舎に向かって右手前の校庭隅に万葉歌碑が案内板と共に建立されておりました。
一応、どなたかに御声を掛けたほうが良いかしらと思ったので御座いますが、夏休みという事もあって校内には人気も御座いませんでしたので、ささっと歌碑だけ拝見させていただいて立ち去る事に致しました。

ようやっと見付けた歌碑は、とても御立派なもので、
“角島の 瀬戸門のわかめは 人のむた 荒かりしかと わがむたは にぎめ”と力強い筆跡で刻まれておりました。
角島の 迫門の若布は 人のむた
荒かりしかと わがむたは和布
万葉集巻第16に収録されるこの御歌は、防人の御歌。
巻第16は主に伝説歌や滑稽歌 等を集めた由縁ある雑歌として纏められているようで御座います。
原文は“角嶋之迫門乃稚海藻者人之共荒有乃可杼吾共者和海藻”
“角島の乙女は、他人と一緒では荒かったものですが、私と一緒にいる時は和らいだ様子になるのです。
あの海峡の若布のように……”
綺麗な海に浮かぶ小さな離島に生きる女性を、名産の若布に喩えて詠まれた御歌。
己の前でのみ、心を開いて打ち解けてくれた…そんな女性の柔らかい微笑が目に浮かぶようで御座います。
平城・平安京時代の角島
角島の迫門の若布は人のむた
荒かりしかと わがむたは 和布
万葉集巻十六 読人知らず
角島の瀬戸のわかめは、他人には荒々しくて なびかなかったが、私には優しく素直であった。
角島の純情な乙女を、九州西岸の防備に当たるため中央の軍団から派遣された防人がわかめになぞらえて詠んだものである。
角島は古来良質のわかめの産地であったことは、奈良平城京跡から出土した
「長門国豊浦郡都濃嶋所出□海藻天平十八年三月二十九日」と書かれた木簡によっても分かる。
朝廷に献上されたわかめは、天皇の食膳に供されたもので、戸(村)の責任において献上された。
選ばれた角島の若者が、国司に引率されて都に運んだ。
往復一ヶ月、下りは上りの二分の一を要した。
干しわかめとともに生のわかめも運ばれ、鮮度を落とさぬための工夫がなされた。
木簡の文字は、優れた筆跡であり、角島の文化を物語るものである。
これはまた、既に中央の文化が角島に吸収されていたことの実証であり、これが永く平城京・平安時代に続く。

誰も居ない校庭に佇む遊具達も、今は暫しの夏休み…。
小さな頃、よく遊びに行っていた瀬戸内の離島にあった小学校も、夏休みはこういう感じだったなぁと、何だか懐かしく感じました。
先日、選挙の為に東京都内の小学校の校庭に入らせていただきましたが、土色では無いグラウンドには矢張り不自然なものを感じさせられてしまいます。
都会とはいえ、感受性豊かな年頃には、もっと大地との対話をさせてあげられる環境が好ましいのでは無いかなぁと…田舎者としては思ってしまいますね。




静岡県静岡市清水区真砂町、JR清水駅。
昨年秋に鉄舟寺さんにて行われた源義経様縁の薄墨の笛 演奏会へ訪れた際、清水駅近くのホテルに宿をとった私は、先ず清水駅前にあるという万葉歌碑を目指しました。
駅西口に向かって右側の歩道沿いを歩いていると、実に呆気無く発見する事が出来たので御座いますが…写真を撮るのには随分と苦労してしまいました(苦笑)
撮ろうと思ってカメラを構えた途端、歌碑の真ん前に大きな荷物を置かれてしまったり、真後ろに路上駐車をされてしまったり……いえ、別に全く撮れないという事も無かったので御座いますけれど、何だか残念で。。
短い清水滞在中に3〜4回 足を運び、発つ日の早朝に ようやっと正面から撮影する事が出来ました…ホッ。

“たちばなの みおりの里に 父をおきて 道のながては 行きかてぬかも”
清水駅前の万葉歌碑に刻まれているのは、巻第20より丈部足麿(丈部足麻呂)様の御歌で御座います。
巻第20といえば、最も多くの防人の歌が収録されている巻で御座いますね。
丈部足麿様も国守りの防人の御ひとりとして遠い西の地へと旅立たれる際に、故郷へ大切な御父様を残されて行かれたようで御座います。
原文は“多知波奈能 美袁利乃佐刀尓 父乎於伎弖 道乃長道波 由伎加弖努加毛”
橘の みをりの里に 父を置きて
道の長道は 行きがてぬかも
“みをりの村に父を残して、長い道中を行くのは遣り切れないものです…”

丈部足麿様が御父様を残された故郷、“みをりの里”とは一体どの辺りの事を指すので御座いましょうか。
清水駅前に歌碑がある事から、静岡市清水区内の何処かに、そんな風に呼ばれた里が存在していたのでは無いかなと想像されますね。
“橘の、みをり”――清水区には、“たちばな”という地名が使われている場所が御座います。
興津の港から上流へと幅を狭めて続いている興津川と平行して、52号線を進んだ先にある“立花”地区。
ここが、防人 丈部足麿様の故郷であると考えられているそうで御座います。
防人の歌…というと、矢張り大切な方々との別れを悲しむ御歌が浮かびますね。
現代サラリーマンの出張等とは全然違う保証の無い旅立ちは、今生の別れも同然の事で御座いました。
任期中の食糧や武器等は全て自分で賄わなくてはならず、任期が終わった後の復路も自力で帰る他に手段が無かったといわれております。
任期は3年間が基本であったようで御座いますが延長される事も珍しく無く、東国から旅立った内のどれだけの方々が無事に故郷に辿り着く事が出来たかと思うと……詠まれた御歌が家族や想い人への気持ちで溢れている理由等、考えるまでも御座いませんね…。
故郷を後にされる足麿様が、何よりも気掛かりになさっておられたのは、御父様の事。
御母様は既に居らず、妻子は未だいらっしゃらなかったのかもしれません。
御父様をひとり残して行かなくてはならない苦しみを1首の和歌に託して旅立った足麿様が、無事に再び故郷の土を踏めたか否かは知る由も御座いません。
が、それが今に歌い継がれているという事実から感じられる事は、本当に数え切れない程で…。
何より、とても幸せだと思いますね。

こちらの歌碑は、平成2年に建立されたものなのだそうで御座います。
歌碑の裏側にも由来記が御座いましたが、下記の石碑傍に建てられた案内文と内容は ほぼ同様のもので御座いました。
JR清水駅前の二つの石碑の由来
一、右側の万葉の歌碑について
たちばなのみおりの里に父をおきて
道のながては行きかてぬかも
丈部足麻呂(はせつかべのたりまろ)
この歌は、万葉集に収められた防人(さきもり)の歌の一首で「たちばなのみおりの里」とは、清水市立花の地と言われ、国の守りのために遠く九州の地に向かう駿河の防人丈部足麻呂が故郷へ残した父を思いやって詠んだ歌です。
この父子の心情を思い、また世界平和を願い平成二年に建立したものです。
(中略)
清水北ロータリークラブ



こちらはJR東日本 仙石線上に御座います、本塩釜駅。
塩釜神社、志波彦神社へは、本塩釜駅と東北本線の塩釜駅、どちらからでも行く事が出来ます。
どちらから行こうかと悩んでおりましたら、仙台駅の駅員さんが本塩釜駅からの方が道が分かりやすいと教えて下さいましたので、本塩釜駅から歩いて往復する事に致しました。

本塩釜駅前からは、塩釜神社への御参道が綺麗に整備されておりました。
“伊達なしおがま、ダテじゃない!”
おぉ〜…そうか、そうで御座いますね、塩釜も伊達な土地なので御座いますよね!!
そんなダテじゃない伊達ロ〜ド上には、なんとも素敵な事に、歌碑や文学碑がズラリと設置されておりました。

真っ先に私の目に飛び込んで参りましたのは、藤原定家様の御名前と御歌が刻まれた歌碑。
夫木和歌抄より前中納言定家卿の和歌として。
さとわかす もろこしまでの 月はあれど
秋のなかばの しほがまのうら
“秋の半ばの塩釜の浦に、里と唐土までを分ける月が浮かんでおります”
***
歌碑は見当たりませんでしたが(もしかしたら、何処かにあるのかなぁと思いつつ…画像の歌碑とは無関係で申し訳御座いません;;)、塩釜といえば平家の公達方の和歌集にも、その歌枕を見る事が出来ますので、定家様の御歌に続けて2首程 挙げておきたいかなと思います。
先ずは、平敦盛様の御兄様 経正様が治承三十六人歌合で詠まれた御歌。
塩がまの 浦吹く風も 打ちなびき
のぼる霞や 煙なるらん
“塩釜の浦に吹く風が打ち靡いて霞が立ち昇り、煙となっております”
***
もう御1方は、清盛様の異母弟 忠度様の家集より。
しほがまの むかしのあとは あれはてて
あさぢが原に うづらなくなり
“塩釜の昔の跡は荒れ果てて、浅茅が原に寂しく鶉が鳴いております”
経正様も忠度様も、実際に塩釜を訪れられた訳では無いので御座いましょうけれど、歌枕に思い浮かべた情景を重ねられていらっしゃるので御座いますね。
***
それから、源平合戦期よりは少しだけ後の御方になりますけれど、定家様繋がりで源氏の御方も。
鎌倉幕府3代将軍 源実朝様も、金槐和歌集に塩釜を歌枕に用いられた御歌を詠まれておられます。
塩がまの うらふく風に 秋たけて
まがきの島に 月かたぶきぬ
“まがきのしま”とは“籬の島”…塩竈の海岸近くにある小島で、歌枕となっております。
“塩釜の浦に吹く風に秋長けて、籬の島に月が傾いております”
実朝様は、この他にも“塩がまの 浦の松風 霞むなり 八十島かけて 春やたつらむ”と詠まれていらっしゃいますね〜。

この道沿いの歌碑は、もしかして全部で百首分あるのでは…?という気が致しますが、流石に全て挙げてしまうと長〜い記事になってしまいますので(苦笑)、個人的に気になる御方の歌碑に刻まれた御歌を幾つか記しておきたいと思います。
塩がまの うらなれぬらん あまもかく
わがごとからき ものはおもはじ
こちらは、和泉式部続集より、和泉式部様の御歌。
“塩釜の浦で濡れてしまった海女も、私のように切なく涙を流したりはしないのでしょうね…”
同じような御歌は沢山御座いますが、それでも矢張り これは和泉式部様らしいなぁと感じさせられるような気が致します。

みし人の 煙になりし 夕よりな
ぞむつまじき しほがまの浦
こちらは新古今和歌集に収録されている、藤式部(紫式部)様が塩釜を詠まれた御歌。
“死んでしまったあの方の火葬の煙が、塩釜の浦の夕方に靡いているようで、なつかしく感じさせられます”
藤式部様が詠まれると、不思議と その背景に描かれた物語が浮かんでくるようで御座います。
…先入観とは、実に恐しいもので御座いますね(笑)

そして、続後拾遺和歌集より在原業平様。
塩がまに いつか来にけん 朝なぎに
つりする船は ここによらなん
“いつの間にか私は塩釜に来ていたようです。
風の収まる明け方に釣りをする船は、ここへ寄って欲しいものです”
ファンタジックなロマンチスト業平様らしい御歌…等と申しては失礼で御座いましょうか

私は、この御歌程“歌枕”としての塩釜を感じられるものは無いと思うのです。
写真、絵画や音楽と同様に、和歌の世界も表現された感性に人を惹き込む魅力が御座います。
それを、ありありと感じさせられて…あぁ素敵だなって、私は思うので御座います。




日本三景の1つ、宮城県の松島。
平安中期、藤原実方様に随行して陸奥へと下られた源重之様の“松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか”をはじめ、松島を歌枕に詠んだ御歌は平安後期以降 多く作られるようになりました。
本日は、平安末期から鎌倉初期にかけて詠まれた松島の御歌の中から気になるものを幾つか御紹介しておきたいと思います。
先ずは、家集 出観集より覚性法親王様の御歌。
松島や 雄島がおきの はなれじま
島伝ひゆく あきのよのつき
“松島よ、雄島の隠岐の離れ島へ 秋の夜の月が島を伝って行っておりますよ”
覚性法親王様は、鳥羽天皇の皇子。
平経正様が幼少期に仕えておられた仁和寺の第5世門跡で、経正様に琵琶の名器 青山を御与えになられた御方で御座いますね。
***
仁和寺、経正様 繋がりで、もうひと方。
覚性法親王のもとで出家され“北院御室”と呼ばれた、守覚法親王様も、その家集 北院御室集の中で松島の御歌を詠まれております。
ふねむやふ 雄島が磯の かぢ枕
月さへ宿る とまりなりけり
“船が無事に雄島の磯へと入っていきます。
舵を枕に、月さえも宿る泊なので御座いますね”
守覚法親王様は、仁和寺の第6世門跡。
矢張り平家との繋がりは深く、高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)誕生に際しては御祈祷を行われており、経正様が都落ち前に青山を仁和寺に御返しされた際には惜別の和歌を交わされていらっしゃいます。

こちらは、続古今和歌集より藤原俊成様の御歌。
袖ぬらす 雄島がいその とまりかな
松風さぶみ 時雨ふるなり
“あなたを待つ私の袖は雄島の磯の泊のようで御座いますね…。
松風が寒く、時雨が降って濡れてしまっております”
俊成様といえば、平忠度様が都落ちに際して御歌を届けられた場面が特に印象的で御座いますね。
***
御父様である俊成様と並んで、現在でも高い評価と知名度を誇っておられる藤原定家様も松島の御歌を何首か詠まれておりますので、家集 拾遺愚草より1首。
袖ぞ今は 雄島の海士の 漁りせん
干さぬたぐいに 思ひけるかな
“私の袖は、今 雄島の漁師が漁をしているように溢れる涙で濡れております。
あなたもまた、袖の渇かぬ御方だと思っておりましたのに…”
***
続きましては、新古今和歌集より後白河院の皇女で賀茂の斎院を務められた式子内親王様の羇旅歌。
内親王様は俊成様に師事し、和歌を学んでおられます。
松が根の をじまが磯の 小夜枕
いたくな濡れそ あまの袖かは
“雄島の松の根を一夜の枕に、独り寝をしております。
松の根よ、そんなに濡れないで…海女の袖では無いのですから”
***
鎌倉幕府3代目将軍 源実朝様も、金槐和歌集に松島を歌枕に恋の御歌を残されております。
うきなみの をしまの海人の ぬれ衣
ぬるとな言ひそ 朽ちは果つとも
“浮波が雄島の漁師の衣を濡らしているように、濡れているだ等と言わないで下さい。
例え、私が朽ち果てて死んでしまっても…”
とても実朝様らしい御歌で御座いますが…。
松島という歌枕は“待つ”に掛かる事から、女性視点の恋歌として詠まれる事が多かったのでは無いかと思われます。
松島の中の雄島を歌枕としている御歌には、様々なものが御座いますね。
当時の方々は、あくまでも歌枕は歌枕として使われておりますので、直接その地に出向いて詠まれる…という事は、滅多に御座いませんでした。
写真等は無い時代、直接見て来られた方に御話を聞く機会というのも少なかった事で御座いましょう。
それでも、松島、雄島という地名の中に、それぞれの抱く情景を心に重ねて御歌を詠まれていたので御座いますね。
私は思い立ったら行っちゃおう!という性格の人間で御座いますが、それは現代に生きているからこその事。
自分の目で見る事は出来ずとも、各々の中に思い描かれた景色があって、感動があって、御歌が出来て…それを、誰かに送って。
そういうのって、なんか素敵かも…と思う今日この頃の私で御座いました。。






