日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

ひとときの花、ひとさきの花。
先月の今頃、熊野へ行っていたのですが、何だか色々御座いまして(という程何かあった訳でも無いのですが/笑)、今夜から今週末まで再び熊野へ参る事となりましたー。
前回、前々回と似た様な場所を巡るのですけれど、未だ解らない部分も多い秘境ですので、今回も楽しんで勉強して参りたいと思います〜。
熊野の桜はもうとっくに散ってしまったと聞いているので、桜舞う熊野が見られないのは少し残念ですけれど、それは来年の課題と致しまして♪←前向きだなぁ私(笑)
今回こそは、大門坂で壺装束を着れますよーに…。。

例の如く、旅行中も毎日更新致します。
熊野とは全然関係無いのですが、熊野に行っている間は、去年の夏の終わりに「義高様の故郷が見たい!!」と突然思い立って行って参りました木曽の史跡と木曽義仲様関連の内容で更新していきたいと思います〜。

木曾1


長野県木曽郡日義村。
日義村は、明治初期に宮ノ越村と原野村が合併して出来た村で、名称の由来は“朝将軍木曽仲”からきているそうで御座います。

宮ノ越は無人駅で御座いまして、とても長閑な自然の中の駅で御座います。
電車の数も非常に少なく…私のように、行き当たりばったりで突然行ってしまうと、帰りの電車に気を遣わなくては野宿する羽目になりそうですね(苦笑)

駅を出ると、直ぐに地図と史跡の記された看板が御座います。
駅前の道を直進しますと、旧中山道、木曽川を経由しまして、更に少し歩くと義仲館に到着致します。
駅から義仲館までは、私の足で徒歩5〜7分という程度でしょうか…結構、近いです。

木曾2


義仲館は、もう本当に素敵です!!
義仲様ファンには堪らない施設で御座いますよ〜!
こちらの義仲様、巴様、四天王方の凛々しい事、麗しい事といいましたら…っ
館内は全て義仲様義仲様な感じで盛り上がっておりまして、館内ナレーションから説明書から義仲様一色で御座います、わっしょい!!(←?)

こちらで購入出来る書籍等も、かなり御勧めで御座います。
史跡巡りをしていると、現地でしか手に入らない資料等が多いので旅先では良く本等を購入してしまうのですが、こちらでもガッツリ収穫させていただきました(笑)

観光の為では無く、義仲様への愛で運営されている感じで、非常に好感が持てます
何気に、こちらでしか知り得られないのでは…と思われる情報も、幾つか御座いました。

木曾3


□ 木曾義仲(源義仲) □

生   年:1154(久寿元)年
没年月日:1184年3月4日(元暦元年1月20日)
  父  :帯刀先生義賢
  母  :小枝
  兄  :源仲家
  妻  :巴御前、山吹御前、藤原伊子
  子  :義高、義重、義基、義宗 
幼   名:駒王丸
通   称:木曽義仲、木曽次郎、木曽冠者、旭将軍
戒   名:徳音院義山宣公
官   歴:1183(寿永2)年8月11日、従五位下、左馬頭、越後守
       1183(寿永2)年8月16日、伊予守
       1183(寿永2)年10月13日、従五位上
       1184(寿永3)年1月2日、従四位下、昇殿許可
       1184(寿永3)年8月11日、旭将軍(朝日将軍)
       1184(寿永3)年1月10日、征夷大将軍


信濃源氏の義仲様は、清和源氏である河内源氏流に当たります。

2歳の時に父を殺害され、母に連れられて、斉藤別当実盛畠山重能の計らいで、佐久の矢田義清の居城である大崖城に逃れました。
その後は、木曾の中原兼遠の元で養育され、13歳の時に元服し、木曾次郎義仲と名乗ります。
平清盛様が太政大臣となる前の年の事ですね。

1180年、以仁王の令旨を受けて挙兵、京を目指します。
その3年後、新宮十郎行家を匿った事で、従兄弟である鎌倉の頼朝様との折合が悪くなります。
源氏同士の衝突を避ける為、御嫡男の義高様を頼朝様の御長女、大姫様の婿として鎌倉へ送りました。
婿、というのは建て前で、事実上は人質で御座いました…。

1183年5月、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いにて、平維様率いる平家追討軍を破り、平家の都落ちと入れ替わるように上洛します。
8月11日、御白河法皇より特別措置として旭将軍(朝日将軍)の院宣が下されました。
当初は、奢り高ぶる平氏を都から追放してくれた英雄として受け入れられた義仲様で御座いますが、次第に寄せ集めに近かった軍兵の乱暴な言動や田舎育ち故の気質を都人から疎まれるようになります。
知識教養の無さを原因に、後白河法皇からも厭われるようになり、京から厄介払いをするように平家追討の命を受けます。
備中の水島の戦いでは、水軍を持つ平家軍に大敗し、京へ逃げ帰った所へ追い討ちを掛けるように更なる平家追討命令を出された為、法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を五条内裏に幽閉して政権を掌握してしまいました。
藤原基房女、藤原伊子に妻になる事を強要したり、法皇方の公卿49人を解官したり、法皇に源頼朝様の追討院宣を書かせたり…何気に、凄いやり方をなさっております;
そして1184(寿永3)年1月10日、征夷大将軍に任命する事を法皇に強要、念願成就となる訳で御座います……強引ですけれど;;

然し…奢れる者は久しからず――という訳で。
その後、間も無く上洛された源範頼様、源義経様率いる鎌倉の源氏軍によって、義仲様は、宇治川、瀬田の戦いに惨敗する事となるのです。
1184年1月20日、義仲様は宇治川の戦い、近江国粟津河原にて戦死。
享年31歳の御生涯で御座いました。

宮ノ越駅


明日は、徳音寺小枝御前について記したいと思います。
小枝様は、義仲様の母上様で御座いますよ〜。
平敦盛様の笛と同じ名ですが、無関係で御座います(苦笑)

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木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相
木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相

いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉を働いたというのが平家物語その他の書物による通説になっていますが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述出来ない。敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。
1.平家物語や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(北国下向の場面)
2.平家物語延慶本には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(梶原摂津の国勝尾寺焼き払う)
3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
 義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。

つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉を働いていた。平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。

「玉葉」は九条兼実の日記です。
「吉記」は吉田経房の日記です。
「愚管抄」は慈円の歴史書です。
「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。

参照
詳細は「朝日将軍木曽義仲の洛日」
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
http://www.geocities.jp/qyf04331/
http://asahishogun.cocolog-nifty.com/
義仲弁護人 | URL | 2008/03/25/Tue 22:07[EDIT]
>義仲弁護人様
こんにちは、サイト拝見させていただきました。
とても興味深い内容で御座います。

勝てば官軍、負ければ賊軍…これは、何時の世も変わり無き事で御座いますね。
平家物語は史実に基づいているといえ、矢張り物語文学としての要素は強いですし、年代が下るに従って諸本毎に大きく特色が分かれてもおりますので、元々では無い部分もかなり脚色されている事であろうと思います。

私にとっての歴史は真実の追究が目的では御座いませんので、何が事実で何が虚構であるのかという事は個人的には余り重点では無いのですが、色々な見方で角度を変えて史実を考える事は何よりも勉強になります。
貴重な情報、有難う御座いました。
どうゝね | URL | 2008/03/26/Wed 02:13[EDIT]
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