日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

ささほろや 波のここもと 打ちすぐて 須磨でのむこそ 濁酒なれ
以前記しました大納言典侍の夫であり、昨日記した千手の想い人である、平重衡様。
牡丹の花に例えられる重衡様は、女性を笑わせるのが得意な社交家で、清盛様、時子様にとって最愛の御子様であったと言われます。
雅な御人柄と同時に武勇に秀で、文武を兼ね備えておられたそうで御座います。
頼朝様、梶原景時を感服させ、そして千手……と、誰からも好かれる御人柄だったようで御座いますね。

□ 平 重衡(たいらのしげひら)  

生   年:1157(保元2)年
没年月日:1185年7月21日(文治元年6月23日)
  父  :平清盛
  母  :平時子
  妻  :輔子(大納言典侍/藤原邦綱女)
兄   弟:重盛、宗盛、知盛
通   称:本三位中将
官   暦:1162(応保2)年12月23日、従五位下
       1163(応保3)年1月24日、尾張守
       1166(仁安元)年11月18日、従五位上
       1166(仁安元)年12月30日、左馬頭
       1168(仁安3)年1月6日、正五位下
       1168(仁安3)年8月4日、従四位下
       1171(嘉応3)年1月6日、従四位上
       1172(承安2)年2月10日、中宮亮
       1172(承安2)年2月17日、正四位下
       1178(治承2)年12月15日、春宮亮
       1179(治承3)年1月19日、左近衛権中将
       1180(治承4)年1月28日、蔵人頭
       1180(治承4)年2月21日、春宮亮
       1180(治承4)年5月26日、従三位
       1182(養和2)年3月8日、但馬権守兼任
       1183(寿永2)年1月7日、正三位
       1183(寿永2)年8月6日、解官


1180年の宇治川の戦いでは知盛様、忠度様と共に参戦し、以仁王源頼政様を敗死に追い詰めております。

重衡様といえば、凱旋後の南都焼討で御座いますが…。
周知の通り、これは重衡様にとっては思いもよらない不慮の事故でありました。
知盛様、忠度様と共に、東大寺、興福寺の鎮圧に向かったものの、両寺院の激しい抵抗により制圧は困難だった為、仕方無く火を放った所、運悪く風向きが変わり東大寺の大仏殿まで焼いてしまったという……大仏様の首も焼け落ちてしまいました。
それによって、とりあえず東大寺、興福寺の両勢力を抑えられは致しましたけれど――…然し、南都の僧徒や民にとっては、重衡様、清盛様…いえ平家一門そのものが、仏敵として位置付けされてしまう事となり…。
この焼討の事実を、重衡様はその後も己の責任として罪を感じて生きておられたようです。
鎌倉への護送が決まった頃、出家の希望を申し出られましたが、受け入れられず……その代わりに、予てより親交のあった法然上人との対面は許されまして、その際に
「このような罪深い身の上でも、救われる術があるのでしょうか」と弱音を吐かれ、問われたそうで御座います。
法然上人に「深く信じ、念仏を唱える事です」と説かれ、戒を授かり、重衡様は感涙されたそうです。清盛様が宋帝より賜った愛用の硯「松陰」を御形見として法然様に渡されております。

重衡捕らわれの松1


↑兵庫県神戸市須磨区に御座います、“平重衡とらわれの松跡”で御座います。

都落ちの後、迎えた一ノ谷の戦いは、平家一門にとって絶望的な戦であり、敦盛様、忠度様等多数の公達が戦死なさいました。
そんな最悪な戦局の中、乳母子である後藤兵衛盛長と西へと敗走していた重衡様は、梶原景時(景季とも)の矢に馬が射られ捕らわれてしまいます。
ここで、盛長が重衡様を置いて逃走したという所が良く微妙だと言われておりますよね…;

重衡捕らわれの松2


※タイトルは、須磨の地にて源氏の捕虜となった時、土地の人が哀れんで名物の濁酒を勧めた際に、喜んだ重衡様が詠まれたと伝わる和歌で御座います。

にほんブログ村 歴史ブログへ

Comment

 秘密にする

Track Back
TB*URL

Copyright © ■花林 〜小枝の音色に誘はれて〜. all rights reserved.
ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ 専門学校