
和歌山県田辺市中辺路町近露――熊野古道中辺路上の王子社の1つに、近露王子が御座います。
近露王子は、九十九王子の中でも特に早期から存在していたといわれる王子社のひとつ。
近露は熊野詣の宿場郷として賑わったといわれますが、近露王子は その近露の産土神としても信仰されていた事が伝えられております。
直ぐ傍を流れる日置川は禊の清流として、参詣者の穢れを祓う役割を担っておられたようで御座います。
近露王子は、藤原定家様の熊野御幸記にも伺える王子社。
建仁元(1201)年に熊野を参詣された後鳥羽上皇は、この近露王子で歌会を開かれたようで御座いますね。
建仁元年十月十四日
十四日 天晴
天明出山中宿、參重點王子、次參大坂本王子、次超山了入近露宿所<予時日出後也>
自瀧尻至[于]此所崔嵬陂池目眩轉魂恍々。
昨日渡河足聊損。
仍偏乘輿。
此宿近御所隔田午終時許御幸歩訖。
即給題。
又二首
峰月照松
さしのぼるきみをちとせとみやまより
まつをそ月の色にいてける
濱月似雪
くもきゆるちさとのはまの月かけは
そらにしくれてふらぬしらゆき
只今披講長房朝臣注進之驚即持參僻事也。
供御之間云々。
即退出。
秉燭以後又參上。
講際阿闍梨依召參蔀外讀経<讀上退出>
良久有召參御前、又讀上了退出、即干時亥刻乘輿出道渡河、即參近露王子。
次ヒソ原、次継櫻、次中の河、次イハ神云々
夜中着湯河宿所<路間崔嵬夜行甚有恐>
寒風無爲方、有非時水。
定家様は、近露に入られる前日に川を渡っていて足を挫かれてしまったようで御座います。
そこからは輿に乗ってこられたようで御座いますが、滝尻から近露の行程が実に険しかった事をしみじみと語られております。
そうですね〜…確かに、この辺りの古道は ちょっと厳しい部分が御座いますね。
近露王子周辺は割と賑やかな印象が御座いますけれど…。
ひとりで黙々と歩いていると心細さを感じさせられる事も多いですが、定家様のように主従関係な御一行で進んで行くのも、精神的に疲れてしまいそうだなぁと思ってしまったり(苦笑)
京の貴族の御方には、心身共に かなりの苦難を伴う旅路であられたのでは無いかと想像致します。

近露にて定家様が詠まれたという御歌に、以下の2首が伝えられております。
先ず1首は、“峰月照松”…峯の松を照らす月を詠まれたもの。
さしのぼる きみをちとせと みやまより
松をぞ月の いろにいでける
“差し昇る貴方様は、まるで千歳に輝き続ける あの月のようです。
御山より眺める松が、月の色に良く映えておりますね”
それから、“濱月似雪”
くもきゆる ちさとのはまの 月かげは
そらにしられて ふらぬしらゆき
“雲に消えた千里の浜の月影が、空に広がって白雪のように降っております”
そして、再び近露の宿所に到着されたのが、1週間後の事。
その間に御一行は熊野本宮大社へ参拝されておられます。
ちなみに当時の本宮は、現在の熊野本宮大社の場所では無く、大斎原に御座いました。
二十一日 天晴
天明參御所出御之間前行參寶前、御拜了、入御禮殿又可有御加持云々。
此間退出、先陣馳奔<還御事>湯河、晝食了。
着近露宿所。
二十二日 天晴
拂暁出近露下瀧尻マナコ小家晝食了。
末一點許着田邊宿所、日入了之後、出此宿所過切部入イロ。
明日可超三宿、遠路稠人無術之間、今夜如此迷惑。
鷄鳴之程入此宿所一寝。 (熊野御幸記による)
近露王子跡
永保元年(一〇八一)十月、熊野に参詣した藤原為房は、川水を浴びた後、「近露」の湯屋に宿泊しています。
王子社の初見はm、藤原宗忠の日記、天仁二年(一一〇九)十月二十四日条で、宗忠は川で禊をした後、「近津湯王子」に奉弊しています。
このように、古くは「近湯」「近津湯」とありますが、承安四年(一一七四)に参詣した藤原経房の日記以降は「近露」と書くようになります。
建仁元年(一二〇一)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行われています。
定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は西岸にあったようです。
承元四年(一二一〇)、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記でも同様で、女院は四月二十九日に宿所に着いて、「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。
このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。
江戸時代には、若一王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。
明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。
なお、跡地の碑の文字は、大本教主出口王仁三郎の筆によるものです。
田辺市教育委員会

□ 近露王子(ちかつゆおうじ) □ ※廃社
所在地:和歌山県田辺市中辺路町近露字北野
御創祀:不詳(永保元/1081年 以前)
本地仏:精進波羅密菩薩
旧 称:近津湯王子、近湯王子、若一王子権現社、王子神社、上宮
近露王子社の御創祀年代は、不詳で御座います。
記録上の初見は、永保元(1081)年の藤原為房様の為房卿記に記された熊野参詣記。
三日 丙辰
申剋、着近湯之屋、先浴近湯之河水。 (為房卿記による)
この頃には、“近湯”と呼ばれていたらしき事が伺えます。
平家全盛の頃には、どう呼ばれていたか定かでは御座いませんけれど、恐らくは 平家の公達方もこちらを経由されて本宮に至られたので御座いましょう。
天仁2(1109)年の藤原宗忠様の参詣記には、“渡近津湯之川祓、参近津湯之川祓、参近津湯王子奉幣”と記されており、川で禊をなさった後に王子社へ参詣された事が伝えられております。
承元4(1210)年に修明門院様に伴って熊野参詣をされた藤原頼資様の記録にも、こちらの宿所に到着した際に禊を行われ、翌日に王子社に参拝されたとあります。
この王子と傍に流れる清流は、いよいよ熊野本宮へ近付く折の禊所として重要視されていたのかもしれませんね。
仁和寺に所蔵されている熊野縁起にも、近露の水は現世の不浄を祓うと記述されているそうで御座います。
そういった意義もあってか、禊や宿泊が多く行われたこの辺りは、近世に至ると宿場町として栄えていたようで御座います。
漢字での表記は様々で御座いますが、“ちかつゆ”と呼ばれるようになった由来に、花山法皇の熊野参詣での出来事が言い伝えられております。
花山法皇が峠を通り掛られた時に御食事をなさろうと思われましたが、箸が無かったという事で、萱の茎を折って箸にされ、この故事から峠は“箸折峠”と呼ばれるようになったのだとか…その際、箸から赤い汁が滴り落ちたようで、
「これは、血か露か」
と法皇が仰られれ、それ故に この地の地名が“ちかつゆ”になったという事で御座います。
紀伊続風土記によりますと、当時は木製の御神体が安置され“若一王子権現社”と称されていた事が分かります。
明治期には“王子神社”と称され、土地の産土神様として存続されていたようで御座いますが、明治末期の神社合祀令によって廃社となりました。
御霊は金毘羅神社に合祀され、現在は近野神社として御祀りされております。
現在の石碑は、その折に建立されたもの。
十数本在ったという杉の巨木さん達も伐採されてしまい、痛々しい傷跡と かつての面影を今に留めておられます。

近露王子の境内には、王子社として信仰されてきた古くからの記憶が静かに漂っておりました。
事実上は既に神社としての機能は持っておられませんが、ここを訪れる参詣者が持ち込む心や信仰の気持ちは、今も昔も然程変わってはいないのでは無いでしょうか…。
熊野道
熊野路は、浄土への道であった。
熊野の神々にあこがれた人々が、たぎる信仰を胸に、山を越え、海ぞいをよぎって行った。
それは皇族から庶民まで、中世から近代にかけて果てしなく続いた「蟻の熊野詣」であった。
この熊野路の名を高めたものは、平安の中ごろから鎌倉後半にかけての熊野御幸だった。
延喜7年宇多法皇から弘安4年亀山上皇まで実に374年間にわたり、100回以上の御幸であったといわれている。
早朝京都を出発まず淀川を船で大阪府下に下る。
それから陸路南に向い、田辺、中辺路をたどって熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の順に参るのが順路である。
往復の日数は20日から1ヶ月、一行の人数は最大で814人最小の時で49人、平均300人前後にのぼったといわれている。
上皇、法皇は白ずくめの服装に杖という山伏に近い姿、道筋の各所に「熊野九十九王子社」と総称される休憩所がもうけられそのうちわが中辺路町内には滝尻王子より道湯川王子まで13王子を数えるのである。
昭和57年3月 文化庁、中辺路町

“さくら落葉 散りしく 神庭に思ふかな 後鳥羽上皇 ここに宿りしを 花仙”
と記された杖置場。
花仙さんとは、杉中花仙さん…旧近野村の村長さんだった御方で御座いますね。
境内には、他にも
“峠路ゆ 見下ろす村の わが里は 家ごとにして 梨の花さく”
の歌碑が御座いました。
近露の王子碑で御座いますが…これは、出口王仁三郎さんの御筆なのだそうで御座います。
当然、昭和10年の大本教弾圧の際には、取壊しの危機に遭われておりますが、当時の村長さんの機転によって難を逃れ、現在に至っているとの事で御座います。
王子碑の文字について
「近露王子之跡」と書かれた碑の文字は、記名がないけれども大本教主出口王仁三郎の筆跡である。
昭和八年(一九三三)三月二十一日この地に来て休息した際、当時の近野村長横矢球男の依頼で用紙に筆をふるったのである。
翌年一月それを彫りつけた王子碑が建立されたが、二年後の昭和十年十二月大本教は二回目のはげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならぬことになった。
その時横矢は、この文字は筆跡を自分が模写したものであると主張し、保存していた王仁三郎の書を警察に提出した上で、碑面に見られた「王仁」の署名を削り、そこに「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去をまぬがれたという。
出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多く建てられていたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはここだけだとされている。

近露王子の直ぐ近くには、熊野古道なかへち美術館が御座います。
なかへち美術館は、市立美術館。
熊野の参詣道である中辺路の中継点に、こんなにも御洒落で素敵な美術館が建てられている事に最初は驚きましたが、ある意味とても時代に合った方法で昔を今に、今を今に活かされている場所のひとつでもあるのだなぁと感銘を受けております。

↑私が持っているのは、JR西日本の企画“聖なる森 熊野古道を歩く”のキットの一部で御座います。
熊野古道マップは色々なところが出されておりますが、電車を利用させていただく機会も多い私にとっては、こちらのマップが最も分かりやすくて使い勝手が良いなぁと実感致しております。
御朱印帳も兼ねた“御心帳”なるスタンプ帳を持って古道を歩き、コース毎にスタンプが設置されている史跡等を巡り、最後にコース終点付近の施設を訪ねて完歩記念の木札をいただくので御座いますが、これが中々に楽しくって…!
実は昨年のみの企画であったようなのですけれど、好評だったのか今年も継続して行われておられまして〜。
私の熊野参詣の楽しみのひとつにもなっているので御座います♪


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