
福島県会津若松市。
東山温泉の手前、天寧寺さんという御寺さんに、新選組局長 近藤勇さんの御墓があるという事で、どうしても御参りをさせていただきたく思い、行って参りました。
私は上京前に数年間、関西で生活をしていた事があるのですが…初めて広島を出て、見知らぬ土地で独り暮らしを始めた頃は、自分でも信じられない位に寂しい思いを致しました。
最初の1ヶ月は、周りの友人達の宥めの声も届かない程に毎日毎日泣き暮らしたりしておりまして;
幼かった事もありますが、このままでは広島を出た意味が無いと思いつつも中々立ち直る事が出来ず……そんな孤独な日々を救ってくれたのが、日本史と その史跡で御座いました。
元々、歴史マニアな私らしい現実逃避の方法で御座いますが(笑)とにかく、他の事を何も考えられない位に歴史関連の本を読み漁り、時間を見付けては毎日のように京都で史跡を巡っておりました。
源平史跡は勿論なのですが、意外にも私が1番最初に訪れた場所は、壬生――新選組縁の地で御座いました。
その他にも、京都の新選組関連地には殆ど足を運んでおり、精神的に随分救われたと今でも心から感謝致しております。
会津旅行が決まった時、会津藩や白虎隊に関する事を現地で学びたいと思いましたが、同時に新選組縁の地と局長の御墓には どうしても訪れて御挨拶をしたいと予てより願っておりましたので、念願叶っての参拝で御座いました。

天寧寺さんへの参拝は、実は2日掛かりで御座いました;
会津に入って2日目の日に、若松市内をぐるりと1周するような感じで幕末の史跡巡りと観光をさせていただいたので御座いますが、さぁ いよいよ天寧寺さんを!という時になって、地図を見た母が
「これって、もしかして結構な山の中なんじゃないん?
行ったら飯盛山行かれんかもしれんよ」
と言い出しまして。
天寧寺さんに行かれないのは困りますが、かといって飯盛山を諦める事も出来ず…。
丁度、天寧寺さん麓の道路沿いにある御蕎麦屋さんで御昼御飯をいただいている時で御座いましたので、御店の方に近藤さんの墓所について御伺いしてみたのです。
そうしましたら、山の中なので行くのは結構大変ですよという事で御座いましたので、
「この後にも飯盛山で史料館巡るんなら、あんまり時間も無いし、ここは やっぱりやめといた方がいいんじゃないん?」
と言うので……その日は、渋々諦める事に致しました…。
が。
諦めの悪い私は、翌日の朝に東山温泉を散策した後に、
「未だ ちょっと時間に余裕もありますし…矢張り、近藤さんの御墓には御参りして行きたいのです」
と駅へ向かうバスを降り、再び天寧寺さんを目指す事に致しました。
最終日で重い荷物を所持していた母は、やや困った顔をしておりましたが、
「まぁいいや、折角だし。
行くんなら、早よ行こうや!」
とアッサリ気持ちを切り替えて、歩き出してくれました。

如郎ヶ前のバス停、案内板から、天寧寺さんの入口までは、徒歩7分程度だったで御座いましょうか。
思ったよりは全然近いな〜と思いつつ、石段を上って天寧寺さんの境内に入ります。
母は、重いカートを抱えて石段を上り下りするのは無理なので、ここで待っていて貰う事になり、私は ひとりで天寧寺さんと近藤さんの墓所へ向かいました。

□ 天寧寺(てんねいじ) □
所在地:福島県会津若松市東山町石山天寧
御創建:文安4(1447)年
御開基:蘆名盛信
御開山:傑堂能勝
山 号:萬松山
宗 派:曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
天寧寺さんは、文安4(1447)年 蘆名盛信様が大瞞行果禅師 南英謙宗様の為に建立されたという御寺さん。
蘆名氏の菩提寺として栄え、会津曹洞宗の僧録司として、最盛期には33ヶ寺と12の僧堂を数える大寺院で御座いました。
天正14(1586)年 蘆名氏の血統が廃絶すると、佐竹義広様が跡を継がれます。
義広様は はじめ、白河結城氏を継いで“白河義広”“結城義広”と称されておりましたが、天正15(1587)年、蘆名盛隆様の娘と結婚して“蘆名義広”と名乗られるようになります。
然し、2年後の天正17(1589)年、摺上原合戦に敗れた義広様は伊達政宗様に追われ、この時に天寧寺さんも焼失致しました。
現在、御本堂の礎石のみが、当時の面影を偲ばせているそうで御座います。
蘆名氏の後を継ぐ方はいらっしゃなかったようで御座いますが、周囲の方々によって天寧寺さんは維持、存続され、現在に至っているようで御座います。

天寧寺さんの境内には、会津七福神の毘沙門天様や会津二十一地蔵尊の第10番 首無身代り地蔵尊様がいらっしゃいました。
首無身代り地蔵様は、家内安全の御加護の他、病気等の苦難から身代りとなって助けて下さる御地蔵様という事で御座います。
近藤さんの御墓の他、こちらには萱野権兵衛様御夫妻と その御子様の御墓も御座います。
権兵衛様は戊辰戦争の鶴ヶ城開城に際して、藩主 松平容保様と共に降伏文書に署名された御方。
その後、戦争責任追求の会議で首謀者の出頭を命じられた時に自ら名乗り出られ、会津藩における一切の戦争責任を切腹をもって担われたのでございました。
享年は41歳…その権兵衛様も、近藤さんと共に この地に眠られていらっしゃるので御座いますね。

会津若松ライオンズクラブさんが設置なさった道標に従って進んで行きます。
舗装されていない山道に入りますが、これは西軍に見つからないように山中に秘かに御墓を建立した為ともいわれております。
途中、木々の合間から見下ろす若松の町並は壮観で、こういう場所だからこそ、土方さんは 選ばれたのでは無いかなぁと感じました。
こういった道に慣れっこな私は、細かに道標が立てられていた事もあって、想像以上に楽々と墓所に辿り着く事が出来ました。
母は、置いてきて正解だったな…とも思いましたが(苦笑)

こちらが、近藤さんの墓所…並びに、土方さんの慰霊碑で御座います。
向かって左が、土方さん建立の近藤さんの御墓。
慶応4年4月(1868年4月)に悲惨な最期を遂げられた近藤さんの供養を、土方さんが容保様に願出された事により、会津藩の協力を得て墓所造営に至ったようで御座います。
法名は、貫天院殿純忠誠義大居士。
墓碑に“近藤勇”と御名を記されなかったのは、西軍に見付からぬようにとの配慮からという事で御座います。
この御墓には、近藤さんの御首を埋められたという説、遺髪を埋められたという説等があるようで御座いますが、どれも確証のある説では無いそうで御座います。
ちなみに…近藤勇の御墓は、こちらの他に4ヶ所伝えられております。
内、3ヶ所は都内で、もう1ヶ所は愛知県岡崎市の法蔵寺さん。
私は都内在住でありながら、未だ その3ヶ所を御参り出来ずにおります…近場程、訪れが遅れると申しますが……いけませんね、そんないい加減な事では;
そして、右側に建立されているのが、土方さんの慰霊碑。
側面には、土方歳三という俗名や戦死地等が記されておりました。
近藤局長の御傍に、土方副長…どちらも、亡くなられた地は会津では御座いません。
が、旧幕府軍として容保様の元で尽くされた時間は、御2方の御生涯にとって掛け替えの無いものであったのでは無いかと……。

御墓の手前には、近藤さんの辞世の句碑が建立されておりました。
これは、近藤さんが板橋で幽閉された時に詠まれたもので御座います。
“孤軍援絶作俘囚 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 □陽千古是吾儔 靡他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩”
義を取って生を捨てるは吾が尊ぶ所であるのだから、電光三尺の剣を快く受けようと仰り、ただ将に一死をもって、君恩に報いん……そんな想いで迎えられた御最期。
真直ぐな御方であられたのでは無いかと、勝手ながら胸が熱くなるのを感じました。
近藤勇藤原昌宜之墓
天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷土宮川久次郎の三男として生る。
幼名を勝太と謂う、自宅に同情を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七才の時養嗣子として迎える。
元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ、塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。
その後京に上り新選組の母体となった。
新選組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。
中でも最も著名なものは新選組最盛期の池田屋騒動である、長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ちその虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同志が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新選組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
新選組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火気の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成、勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に終結していた。
勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二誌を遺して斬首の刑に処せられた。
会津守護職の直属であった新選組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。
一九七七年十月 会津若松ライオンズクラブ



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