日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

栄螺の御堂。
さざえ堂01

少し前まで、JRの駅等に貼られていた このポスター。
ひと目見た時から、
うわぁ…私、ここに行きたい!
と思っておりました。
ポスターに夢中になるが余り、電車に乗り遅れた事も御座います(それはどうだろう…)
然し、それ程 夢中になっていたに関わらず、私は これが何処の何という場所なのか調べもしておりませんでした;
今にして思えば、私は こちらの場所に惹かれていたのでは無く、この写真自体に強く興味を抱いていたのだなぁとも思います。
が…!まさか、ここが飯盛山の山中だったなんて………という素敵な遭遇を、させていただいてしまったりなんかして?(笑)

さざえ堂02

……飯盛山、白虎隊士の御墓戸ノ口堰洞穴や厳島神社の丁度中間辺りに位置しているのが、こちら――“栄螺堂”こと、円通三匝堂で御座います。

栄螺堂は、かつて飯盛山に存在した正宗寺という御寺さんの御仏堂であったもの。
寛政8(1796)年、正宗寺住職 郁堂様によって立案、建立されたものと伝えられます。
御本尊は阿弥陀如来、斜路には三十三観音像が安置されていたといわれますが、明治期の廃仏毀釈に際して正宗寺は廃寺となり、堂内の御本尊をはじめとする御仏像等は撤去されてしまわれたそうで御座います。

栄螺堂は その呼び名の通り、栄螺のような不思議な構造から成る御仏像。
高さ16.5メートル、平面六角三層の御堂で、堂内には階段等が無く全て回廊となっており、同じ道を2度通る事無く巡礼が出来、出入口も別々の場所に設けられております。
とても珍しい例である事から、国の重要文化財の指定を受けておられます。

さざえ堂03

拝観受付を済ませ、御堂内へと立ち入らせていただきます。
世界にも例を見ない珍しい構造という事で、まるで迷路にでも入るようなワクワク感を抱きながらの拝観で御座いました。

さざえ堂04

平面六角の御堂内部は、只管 一方通行の坂道。
中央の柱を中心に厨子が並べられており、その中には会津藩の道徳教科書として使用された松平容敬様編纂の皇朝二十四孝の絵額が掲げられておりました。
元々、この中には三十三観音像が安置されてありました。
廃仏毀釈にて取り外された後、明治23年には白虎隊十九士の御霊像が安置されていたという事で御座います。

↓皇朝二十四孝の絵額には、私の興味をひく内容のものが幾つか御座いました。
特に、白拍子の絵にはがっつくように食らい付いてしまいましたね…。

   微妙

微妙はもと根さし賤しからぬひとの子也、
落ぶれて鎌倉に沈めりし比、源頼家朝臣比企能員が家に行て盃酌せられけるに、酣なるころ、微妙をめしいでゝ、うたひまはしめられけるに、いみじう舞たりければ、みるひと感嘆せざるはなし、
時に能員頼家朝臣に申けるは此舞女はもと京師のひとなりしが君に見え奉り請申さむ事の侍るを、いかで聞かせ給へといひけるを、さらは其よし承らむとありけるに、微妙せきあへず落る涙をおしのさひ申けるは、今は昔建久年中父右兵衛尉為成人の讒言によりて蝦夷に流され侍り其時妾はとし僅に七歳なりしを、ほどなく母も、はかなくなりしかは親戚のよるへさへなかりき、齢やうやう人となるまゝにみだりに恋慕へとも父のおとづれ聞へきよすがたになかりし故にせんかたなく、かゝる賤しきわざをなしつゝ君に見え奉りぬ、
いかでおのが志を憐み父に逢しめ給へといへば頼家朝臣いと哀とおぼしありと、あるひと涙にむせびけり、
さて頼家朝臣の母なる政子情あるひとにて其孝心を感し陸奥に使を遣してたづね求めしめらるゝに使帰りて既にはかなくなりしといへば微妙此よしを聞て泣悲む事かぎりなく、やがて、かざりおろしてあまとなり名をば持蓮とぞいひける、
政子いとほしがりて家などあたへて、さまざまに憐みめぐまれけり



   鎌倉孝子

北條時頼朝臣の臣、何がし老たる母を持たりけるが其母わが子の我をうちとして、おほやけに訴へ出しかは其子をめして問はるゝに、實にしかなん侍るとぞいひける、
かくて其子を罪せらるべきに及びて、母また訴えけるは我もと、はかなき事をとがめて、わが子をうたむとせしを、つまづきて倒れしかは腹たゞしきあま訴へ出しにて實は我子の、うちしにさむらはずとなん、いひける是によりて再び子をめして尋ねらるゝに母のいひしに露違はさりければ時頼朝臣母をうつの罪は軽からず汝いかでか打しとは、いふぞと問はれけるに其子□へけるは、われもし有のまゝに答へなば母は官司をあざむくの罪思かるべし、
されば我身罪□□へらんとて、□□□□侍らめといへば時頼朝臣其答を聞て感歎斜ならず其孝心を称して禄など、ましたまはりけり



これまた鎌倉期の例が挙げられているというだけの理由で、この記事も福島の源平史跡に強引に分類で御座います……源頼家様も北条時頼様のも源平合戦期よりは後の時代の御方で御座いますが…余り深く追及しないでやって下さいませ(苦笑)

その他、仁明天皇、兄媛、藤原吉野郷、役小角様の事 等々…私も、会津藩にて学んでみたかったなぁと思わされます。

栄螺堂の最上部分には、突然 小さな太鼓橋が架けられておりました。
螺旋状に上って来た坂道が、上り坂から下り坂へと下る場所で御座いますね。
太鼓橋を上って下りると、そのまま下りの参拝路に繋がっていて…面白いなと感じました。

さざえ堂05

御堂内には、至る所に年季の入った千社札が。
どうやって、あんな高い所に貼付けたのかしら?と思わされるような場所にも、沢山貼られておりました。
こちらが、真の御仏堂として使用されていた頃に貼られた千社札は別と致しまして……、気になるのは、落書きの酷さ。
出口の扉にも、落書きは絶対にやめて下さいとの注意書きが貼られておりましたが、その周辺の落書きは本当に酷いもので……どうして、このような事が出来るのだろうかと悲しく思えてなりません。
最近、歴史的遺産や景勝地等への落書きが問題視されるようになっておりますが、そのような事をマスコミが取り上げるようになったという時点で、マナーの悪さと申しましょうか…マナー以前の問題で御座いますよね…心底、ガッカリで御座います。
先日も、和歌山県白浜町の千畳敷の落書き問題と その対策について取り上げられている番組を拝見致しましたが、実際に私も千畳敷で落書きをしている方を何人か目撃した事が御座います。
さも当然かのようにガリガリやっておられたので、注意しようと思って近寄ると、逃げるように立ち去って行ってしまいましたが……いい歳をした大人が、恥ずかしい事で御座いますね。

さざえ堂06

こちらは栄螺堂の直ぐ近くに御座います、宇賀神堂
寛文年間(1661〜1677年)に、厳島神社の傍社として建立されたそうで御座います。
宇賀神は弁天様と習合しており、五穀豊穣の神様として信仰されておりました。

御堂の中には、明治23年に作られたという仏蘭西流の洋服姿の白虎隊十九士の御霊像が安置されています。
恐らく、以前 栄螺堂内に安置されていたという白虎隊十九士の御霊像が、こちらなので御座いましょう。

さざえ堂07

そして、こちらにも白虎隊士の自刃の絵が掲げられておりました。
既に息絶えた方もいらっしゃれば、今まさに自刃なさろうとされている御方、仲間と同時に刺し違えて果てようとされる御方、御城を見詰められる御方……。

自刃なさった白虎隊士の方々から学ぶ事は、本当に多く御座います。
これを、単に歴史の1頁と解釈するか否かは人それぞれで御座いましょうが、尊ぶべき事だけでは無い哀しい過去の事実を、人の命というものを、もっと重く考えていきたいと私は考えております。

   会津白虎隊精神の基礎「忠孝両全」碑

 会津藩祖保科正之公は徳川三代将軍家光公の弟にて格別の信頼を受け、信州高遠より山形を経て寛永二十年(一六四三)奥羽の要として会津二十三万石に封ぜられたが、生涯を幕政の内奥に参画し、四代家綱将軍の後見人となり徳川三百年の太平確立に尽瘁した。
依て徳川宗家に対する「絶対忠節」と、学問を重んじ武道を尚ぶ「文武両道」と、自ら吉田流神道奥義を極めての「尊皇愛国」を藩の伝統精神とした。
第三代正容公より松平姓となり地積を上げたが、下って文化五年(一八〇八)露国の南侵に対し宗谷、利尻、樺太に二年間千六百名を、続いて欧米諸国の江戸侵航に対し文化七年より黒船来航を含み安政六年(一八五九)までの間、三浦半島警備十年及び江戸湾警備十二年夫々約千四百名を派兵して海防に当り、軍紀厳正、士気旺盛、各駐留地にて会津様と尊敬され、功績抜群であった。
時に国内情勢不穏となり幕閣より都の警護と治安維持に全権を有する京都守護職の内示を受けたが、
「公武の政争に巻込まれて傷付く以外に効無し」
と説得強要せられるに至った。
   ○松平容保公(当時二〇才)その苦哀を実父に述べたる問答歌
  行くは憂し行かぬもつらし如何にせむ 君と親とを思うこころは
   ○実父美濃高須藩主松平義建公の返歌
  親の名はよし立たずとも君のため いさお現はせ九重のうち
 ここに容保公意を決し、文久二年(一八六二)精鋭千余名を率いて遥々京に上り六年間任務を遂行したが、時の孝明天皇の御親任最も厚く、賜りたる御親書は小竹筒に収め終生肌身より話さず御信頼に応えた。
然るに、天皇の御急逝に続き明治天皇(御年一六才)を擁して王政復古の挙あり、大政奉還した第十五代慶喜将軍と新政府との意見相違して慶応四年(一八六八)一月三日鳥羽伏見の戦いとなり、敗れて会津に帰還した。
この間恭順謝罪文を幾度奉呈するも新政府首脳は仇敵会津を圧殺せずは維新の達成不可能と握り潰し、薩長土肥始め二四個藩の大軍を差向け、終には籠城戦となったが、藩公の下老幼男女一致団結、九月二十二日降伏開城に至るまでその節を貫き徹した。
さらに戦後諸藩に拘禁の後、明治三年(一八七〇)寒冷不毛の地下北斗南藩(三万石実質七千石)に転封され家族とも一万四千名が移住したが、同六年解散まで貧窮飢餓掘立小屋の流民生活を耐え忍んだ。
   ○孝明天皇より御親書とともに賜りたる御製
  武士とこころあはしていわほをも つらぬきてまし世々のおもひで
   ○会津武士の亀鑑野矢常方老(六七才郭門を守り入城の勧めを断って突進戦死)の詠歌
  君のため敗れと教えて己れ先づ 嵐に向かう桜井の里
   ○娘子軍の名を上げた中野竹子女(二二才同輩と入城前混戦に壮烈な戦死妹優子介錯)辞世
  武夫の猛きこころにくらぶれば 数には入らぬわが身ながらも
   ○津川喜代美少年(一六才自刃)門出に当たり父母に捧げし歌
  かねてより親の教えのときは来て 今日の門出ぞわれはうれしき
   ○飯沼貞吉少年(一六才自刃唯一の蘇生者後貞雄と改名)出陣に際し母文子の餞けの歌
  梓弓向う矢先はげしくとも 引きな返しぞもののふの道
 白虎隊二番士中隊(日新館生徒一六・七才三七名)のうち、八月二十三日夜明戸ノ口原の血戦に隊長副隊長と分離した二〇名は、敵の囲みを破り教導篠田儀三郎指揮の下にかねて熟知の飯盛山に辿りついた所、城は火煙に包まれ落城の様相を呈した。
一同は伝統の話合を開き、斬込みか、立籠りか、自決か、を討議した結果、隊長代理決をとり、全員城を枕に討死の武士道に殉じ、
「人生古ヨリ誰カ死無ラン丹心ヲ留取シテ肝青ニ照サン」
の名詩を合吟し、純忠至誠を捨て義を取り、自刃したのである。
   ○容保公白虎隊士の自刃を聴いての弔歌
  千代までと育てし親のこころさえ おしはかられて涙こぼるる
   ○宮中御歌と頃長高崎正風男の弔歌
  大君のみたてと後になりぬべき あたらわかまつ雪の下折れ
   ○皇太子同妃両殿下(昭和天皇同皇后)大正十三年の御親拝に生存者飯沼貞雄感激の歌
  日の御子の御影仰ぎて若桜 散りてののちも春を知るらん
       平成十二年(二〇〇〇)一月 山主 飯盛本家



さざえ堂08

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ん〜♪チャンバラごっこをしている子供たち(^ー^)

そんな時代に憧れを持っている一人なんですよね(笑)ボクも子供の頃は良くチャンチャンバラバラやってました♪(時代劇好きなんで(*・∀・))

でも、本当に酷いですよね・・落書き、しかも彫ってるんですか?

良い大人が本当に何を考えているのやら(´・・)

白虎隊の絵はじっと見ていると色々な事を考えますね、どんな思い出仲間の死を見ていたのか、絶望したとはいえ・・その手で仲間を殺めなければならなかったその心中は察しようにも想像し得ないですね。

よくTV等では大人に近い役者さんが演じる事がありますが・・その年齢を考えればどれだけ幼い子達が兵士として戦ったのか。

戦争とはやはり悲しいものですね(´・・)

今も外国では少年兵士が居ると聞きます、幼い子供までを戦いに駆り立てなければいけない大人の都合とは何なんでしょうね・・。
GAN | URL | 2008/10/01/Wed 21:10[EDIT]
>GAN さん
私も小さい頃は、良くチャンバラごっこを致しました。
あ、でも忍者ごっこの方が多かったです(笑)
某作品の影響で、風呂敷をマント代わりに首に括りつけて走り回っておりました///

落書きは、マジック等で書かれているものが多かったです。
学生さんや観光旅行に来られた友人同士やカップル等が、記念にと書き残していったものが目立ちましたが、実に自分勝手な行為だなと悲しく思いました。

白虎隊について感じる事は、その後の大東亜戦や現存する海外の少年兵にも通じるものがあるように思います。
伝えるべきは、若者達が戦に青春をかけたという事実だけでは無く…何故、その命を散らして逝くに至ったかという部分にあるのでは無いかなと思われてなりません。
折角このような場所を訪れたのですから、落書きをなさった方々も、そういった点に先ず心を傾けてみていただきたかったなと…感じます。
どうゝね | URL | 2008/10/03/Fri 12:34[EDIT]
大変珍しい構造のお堂ですね。
なんだか探検ごっこができそう!
しかし、どこにも落書きがされているのですね。
子供ならまだともかく、大人の落書きが目立つというのは
呆れた話ですよね。

私は会津に行ったことがないので
また機会を作って行きたいです!
しずか | URL | 2008/10/03/Fri 18:59[EDIT]
>しずかさん
不思議な構造ですよね〜。
追いかけっこをしても、絶対に鉢合わせにならない造りですね(笑)

本当に…何処も彼処も、落書き問題が深刻とは由々しき事態です。
落書きをしている人が、テレビ番組の取材に応じた時に
「だって記念だし、皆やってるじゃん」
とか
「悪い事だなんて思ってない」
と言っていたのを聞いて、許せない気持ちに更に拍車が掛かりました…。
興味本位で訪れて落書きをして2度と来ない人には、その場所を大切に護っている方々の気持ちや その土地の積み重ねてきた歴史の重みを感じられないのでしょうか…と悲しくなるばかりですよね。。

会津は、素敵な町でした〜。
私もまた、義経様関連で巡りたいと思っております♪
どうゝね | URL | 2008/10/06/Mon 19:11[EDIT]
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