
京の奥嵯峨、小倉山麓には かつて往生院という寺院が御座いました。
念仏道場として栄えた往生院には数多くの坊や庵が存在していたと伝えられており、その内の1つに滝口寺さんの前身の庵が御座いました。
そして、その御隣に位置しておりますのが祇王寺さん――滝口寺さんと同じく、平家物語に描かれる悲恋に縁する御寺さんで御座います。
どちらも、明治期に1度廃寺となっておりますが、その後に再建されて、現在に至っております。

“祇王寺”という名称からも分かりますが、こちらに伝えられているのは 平家全盛期に清盛様に寵愛を受けたとされる白拍子 祇王様、祇女様 御姉妹と母 刀自様、そして仏様にまつわる物語。
清盛様に親子姉妹纏めて寵愛されていた祇王様で御座いましたが、ある時 西八条殿を訪ねて来た、若い白拍子 仏様が清盛様に歌舞を見ていただきたいと申し出られます。
清盛様は追い返そうとされますが、祇王様の助言により、御目通りが叶う事となりました。
然し、仏様の謡い舞われる御姿に魅せられてしまった清盛様は、祇王様を御邸から追い出されてしまわれます。
西八条殿を去った祇王様で御座いましたが、その後、清盛様は再び祇王様を召し出され、今度は 仏様を慰める為に舞えと仰られたので御座いました。
既に捨てられた立場でありながら、次に寵愛されている…しかも、自らと同じく白拍子である女性に、舞を見せろとは……随分と強引かつ冷酷な仕打ちで御座います。。
祇王様は不本意ながらも、泣く泣く清盛様のもとへと参じられました。
其後入道、ぎわうが心のうちをばしり給はず、
「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、いまやうひとつうたへかし」
との給へば、祇王、まいる程では、ともかうも入道殿の仰をば背まじとおもひければ、
おつるなみだをおさへて、今やうひとつぞうたふたる。
仏もむかしは ぼんぶなり 我等も終には 仏なり
いづれも仏性 具せる身を へだつるのみこそ かなしけれ
と、なくなく二返うたふたりければ、其座にいくらもなみゐたまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、皆感涙をぞながされける。
“仏様(御釈迦様)も、もともと昔は普通の人間…そして、私達も終いには仏となるので御座います――仏御前とて然り。
いずれも、いつかは仏となる身……それを、このように隔てられるだなんて…悲しい事で御座います”
必死で涙を堪えて謡われた仏様の御心が、周囲の方々に伝わったので御座いましょう…同席させておられた平家御一門の方々をはじめとする様々な御方が、涙を流して感動されたようで御座います。
然し…清盛様は、今後も常に参って仏様を慰めよと命じられます。
御母様の説得に従って辛い御気持ちを押し切って参上なさった祇王様は、2度も このような想いをした苦しみと悲しみから、自害したいと訴えられます。
祇王様と一緒に居られた祇女様も、姉が身を投げるならば自分も…と仰られました。
それを聞いて悲しみにくれる刀自様の御言葉で、祇王様は自害を思い留まられますが、もう2度と同じ目には遭いたく無い一心で都を出、尼となられたので御座いました。
祇王なみだをおさへて、
「げにもさやうにさぶらはば、五逆罪うたがひなし。さらば自害はおもひとどまりさぶらひぬ。かくて都にあるならば、又うきめをもみむずらん。いまはただ都の外へ出ん」
とて、祇王廿一にて尼になり、嵯峨の奧なる山里に、柴の庵をひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。
いもうとのぎによも、
「あね身をなげば、我もともに身をなげんとこそ契しか。まして世をいとはむに誰かはをとるべき」
とて、十九にてさまをかへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞあはれなる。
母とぢ是を見て、
「わかきむすめどもだにさまをかふる世中に、年老をとろへたる母、しらがをつけてもなににかはせむ」
とて、四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、いつかうせんじゆに念仏して、ひとへに後世をぞねがひける。
この時、祇王様は21歳、祇女様は19歳、刀自様は45歳での御出家で御座いました。
何処までも運命を共にしようとなさる親姉妹の深い愛と絆を感じます。
祇王様は悲恋の御方といわれますが、独りぽっちでは無かったのですもの…辛い経験、悲しい日々を送られた事は確かだったので御座いましょうが、全てを失った孤独の中で その後を過ごされた訳では御座いません。
後々の清盛様、御一門の行末を思えば、私は この時期に辛い想いをなさっていて正解だったのでは無いかとも思えるので御座います。
往生院にて御出家なさった祇王様は、奥嵯峨の山里に庵を結ばれて念仏を唱えられました。
こうして春が過ぎ、夏が終わって秋になる日の夕方の事。
滅多に人も訪れ無いような山里の庵を訪ねて来た御方が居られました。
これは、祇王様にとっては誰の訪問よりも驚かれた事で御座いましょう。
やって来られたのは、尼姿となった仏様で御座いました。
祇王
「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かやうつつか」
といひければ、仏御前涙をおさへて、
「か様の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、はじめよりして申なり。もとよりわらはは推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、祇王御前の申やうによつてこそめしかへされてもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心にまかせずして、おしとどめられまいらせし事、心ううこそさぶらひしか。いつぞや又めされまいらせて、いまやううたひ給ひしにも、思しられてこそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思ひしかば、嬉しとはさらに思はず。障子に又“いづれか秋にあはではつべき”と書置給ひし筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其後はざいしよを焉ともしりまいらせざりつるに、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつてのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。つくづく物を案ずるに、娑婆の栄花は夢のゆめ、楽みさかえて何かせむ。人身は請がたく、仏教にはあひがたし。比度ないりにしづみなば、たしやうくはうごうをばへだつとも、うかびあがらん事かたし。年のわかきをたのむべきにあらず、老少不定のさかいなり。出るいきのいるをもまつべからず、かげろふいなづまよりなをはかなし。一旦の楽みにほこつて、後生をしらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かくなつてこそまいりたれ」
とて、かづきたるきぬをうちのけたるをみれば、あまになつてぞ出来る。
「かやうに様をかへてまいりたれば、日比の科をばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共に念仏して、ひとつはちすの身とならん。それになを心ゆかずは、是よりいづちへもまよひゆき、いかならん苔のむしろ、松がねにもたほれふし、命のあらんかぎり念仏して、往生のそくはいをとげんとおもふなり」
と小雨小雨とかきくどきければ、祇王なみだをおさへて、
「誠にわごぜの是ほどに思給けるとは夢にだにしらず。うき世中のさがなれば、身のうきとこそおもふべきに、ともすればわごぜの事のみうらめしくて、往生のそくはいをとげん事かなふべしともおぼえず。今生も後生も、なまじゐにしそんじたる心ちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比のとがは露ちりほどものこらず。いまは往生うたがひなし。比度そくはいをとげんこそ、何よりも又うれしけれ。我等が尼になりしをこそ、世にためしなき事のやうに人もいひ、我身にも又思しか、さまをかふるもことはりなり。いまわごぜの出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜはうらみもなし、なげきもなし。ことしは纔に十七にこそなる人の、かやうにえどをいとひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、まことの大だうしんとはおぼえたれ。うれしかりけるぜんぢしきかな。いざもろともにねがはん」
とて、四人一所にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそありけれ、四人のあまども皆往生のそくはいをとげけるとぞ聞えし。
されば後白河の法皇のちやうがうだうのくはこちやうにも、祇王、祇女、ほとけ、とぢらが尊霊と、四人一所に入られけり。
あはれなりし事どもなり。 (平家物語 高野本による)
仏様は、元々 清盛様を訪ねたのは自分の舞を認めてもらいたかったからで、それが不本意ながらも祇王様を追い出してしまう事になった事が悔やまれて仕方無かったのですと言われ、尼となった御姿を祇王様に見せられました。
この時、仏様は17歳という御若さ。
御自分の妹よりも若い女性が、これだけの決意をして この庵を訪れた事に心を打たれた祇王様は仏様を迎え入れられ、その後は4人一緒に過ごされたという事で御座います。
朝夕に仏前へ御花、御香を御供えし、念仏を欠かす事無く毎日を送られた4人の御方は、やがて往生されると同じ所に眠られる事となりました。

□ 祇王寺(ぎおうじ) □
所在地:京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂
御創建:不詳
御開基:念仏房良鎮(※往生院)
山 号:高松山
宗 派:浄土宗→真言宗大覚寺派
御本尊:大日如来
旧 称:不詳
正式称:高松山往生院祇王寺
現在の祇王寺さんは、旧往生院境内に位置しております。
昨日の記事にも記しましたが、往生院は法然様の門弟である良鎮様によって開かれたとされる寺院。
こちらが いつ頃から“祇王寺”と呼ばれるようになったかは定かでは御座いませんが、早くとも鎌倉後期〜室町期辺りからの事では無いかなぁと勝手に想像しております…;
広い寺域を所有されていたそうで御座いますが、いつの間にか荒廃。
また、往生院は応仁の乱で随分な痛手を追われたようで御座います。
そんな中、三宝寺(=現在の滝口寺さん)と祇王寺さんは御無事であったようで、以後は浄土宗の尼寺として存続されました。
明治期には廃寺となってしまいますが、歴史ある貴重な寺院の喪失を惜しまれて再建に至ったようで御座います。
廃寺となっていた間、御墓や木像等は旧地頭であった大覚寺に保管されておりました。
再建に御力を注がれたのは、大覚寺門跡の楠玉諦師様で御座いましたので、再建後は大覚寺派の真言宗寺院として存続されております。
祇王寺さんの御本堂は、苔むす美しい竹藪の中、ひっそりと佇むように建っている萱葺の御堂。
御本堂内の仏間には、御本尊の大日如来像が安置されており、その両脇には 清盛様の御像と、祇王様、祇女様、刀自様、そして仏御前様の御像が並んで御祀りされておりました。
祇王様、祇女様 御姉妹の座像は、共に鎌倉末期の御作と考えられますが、作者は不詳。
瞳が水晶になっており、とても美しい表情をなさっておられます。

境内では、祇王様、祇女様、刀自様の御墓と清盛様の供養塔に御参りする事が出来ます。
………あれ、仏様の御墓…は一体…?という感じなので御座いますが。
残念ながら、こちらには仏様の御墓が現存していないようで御座います。

画像向かって左側が、祇王様、祇女様、刀自様の御墓と伝わる層塔。
右側が、清盛様の供養塔といわれる五輪塔で御座います。
どちらも、鎌倉期の御作。
層塔は宝珠や水煙等の相輪の上部が少し欠けておりますが、状態は良いなと感じました。

祇王寺さんは、嵯峨野で いちばん好きな御寺さんで御座います。
私は余り“悲恋の御寺”としては捉えておりませんので、どちらかといえば家族の絆や、同性の和合のような温かさを感じられる御寺さんだと思っております。
時間を忘れて、ただ ぼんやりと過ごせる隠家のような秘密の境内……そんな印象で御座いましょうか。
今年のはじめ頃、元ルームメイトの ゆりちゃんと一緒に訪れた時に、彼女は
「その祇王さん的には、仏さんが恋敵だったんでしょー…うぅん、昔の人って心が広いね〜」
と しみじみ語っておりましたが、
「ゆりちゃんだって、私と1年半一緒に仲良く生活してたけど、出逢って最初の3年間位は、私の事を ずっと恋敵だと勘違いしてたじゃんー」
と言うと、
「あ、そぅだっけー;
あはは…さっきの無し無し!
女同士だもん、和解しちゃえば仲良く生活出来るよ〜♪」
という結論を出しておりました…ゆりちゃんの旦那は私の義兄なのです(笑)



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