日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

田辺と出雲のゆかりにて、母となりしは遠いえん。
出雲地方に伝えられる、武蔵坊弁慶様の生誕伝説。
一般的には、紀州田辺に語り継がれる弁慶様出生地伝説の方が有名で通説に近いという印象が御座いますが、この他にも紀州熊野地方周辺には幾つかの出生地説が伝わる土地が御座います。

昨日は、出雲で生まれ育たれた弁慶様が3年間修行をなさり、一ノ谷合戦の前年と壇ノ浦合戦の後にも再び訪れられたといわれる鰐淵寺さんという推古2(592)年御創建の御寺さんについて記しました。
出雲大社の背後から日本海沿いの経路で鰐淵寺さんを訪ね、そこから平田町方面へ抜けて一畑電車北松江線に平行走行しながら川跡駅を目指しました。

弁吉女様墓所01

川跡駅近くにある田圃の畦道に、弁慶様の御母様と伝わる御方の御墓がある…そんなアバウトな情報を元に車を走らせてしまいましたが、何故だか私には絶対に見付けられるという根拠の無い自信が御座いまして。
そろそろ川跡駅が近いかな、という頃に ふと左側の車窓に目をやった瞬間、
あ、あれだ
と、本当に直感で発見してしまいました。
車道からは線路を挟んで少し離れた場所で御座いましたので、ずっと外を見ていた私の母は全く気が付かなかったと言っておりましたが…流石に、自分でも ちょっと凄いかも?等と己惚れてしまいました。
…目敏過ぎ、私(笑)

弁吉女様墓所02

流石に、車道の途中で停車する訳には参りませんので、一先ず 川跡駅まで向かう事に。
駅前に車を停め、母を留守番をさせて、私は ひとりで御墓まで歩いて行く事に致しました。
駅前に観光案内板が御座いましたので、何か載っているかな〜と思いましたが、弁慶様にまつわる伝承や史跡については一切触れられておりませんでした。
という事は、矢張り地元でもマイナーなので御座いましょうか;

弁吉女様墓所03

出雲の弁慶様伝説は出雲市から安来市の辺りまで広く伝承地が点在しており、それらは それぞれが繋がりを持って纏まった形を成している為、田辺のものよりも真実味があるといわれているようで御座いますが…出雲に語られる弁慶様の御母様は田辺の御出身という事で御座いますし、熊野信仰の起源に出雲の地が関わっているとされる考えも御座いますので、個人的には出雲と田辺の伝承には何処か共通したものを感じておりますので、伝説の真偽云々よりも その背景に在る何かの方が気になって仕方が御座いません。

弁吉女様墓所04

□ 弁吉(べんきち)

生 年:不詳
没 年:不詳
 父 :誕象
 母 :不詳
 夫 :男(山伏)?、天狗?、弁斎(熊野大社別当)?
 子 :武蔵坊弁慶
通 称:弁吉女


弁吉女様は、出雲地方の伝説上で 弁慶様の御母様と伝えられる御方で御座います。
御出身は、紀州田辺。
御父様の誕象様が、熊野権現に祈願して授かった娘様であられたという事で御座います……田辺の、“たんぞう”様で御座いますか…。

20歳になっても良縁に恵まれず、嫁き遅れていた事から、御両親に薦められて 良縁祈願の為に出雲国を目指されました。
これは、熊野権現の御神託によるものともいわれておりますが…熊野の神様が、出雲へ行けと……うぅん。。

出雲に入られた弁吉女様は、出雲路幸神社に7日7夜の良縁祈願の末、枕木山の長海村に7年住むべしという御告げを受けられます、
これに従った弁吉女様の前に、ある時 ひとりの男性が姿を現され、出雲神に与えられた御縁により この御方と夫婦になられました。

そして、授かった御子様が 弁慶様。
義経記に語られる弁慶様の御両親とは、矢張り 別人のようで御座いますね…。

義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。
俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。
彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。
年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。
天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。
 (義経記による)


義経記では、弁慶様の御父様は熊野別当 弁証様。
弁慶物語では熊野別当 良心様、橋弁慶や田辺の伝承では熊野別当 湛増様という事になっておりますが、出雲の伝説で弁吉女様と結ばれた御方は熊野別当職に就かれている御方では御座いません。
ただ、出雲国 熊野大社の別当 弁斎様とされる説もあるようで……矢張り、出雲と熊野との因縁を感じられる様な気が致します。

仁平元年3月3日(1151年3月22日)、弁吉女様は弁慶様を御出産なさいました。
義経記と共通しているのは、産まれた御子様が異端児であった事。
生まれながらに弁慶様には歯が生え揃っており、髪は長く、左肩に“摩利支天”、右肩に“大天狗”という文字が刻まれておりました。
弁吉女様は妊娠中に鉄を食べておられたといわれ、その為に 産まれた赤子は色黒い鉄色をしていたといわれます。
弁吉女様は弁慶様を“弁太”と名付け、育てられておりました。

…が、弁慶様は相当な悪戯っ子だったようで、村の方々に酷く迷惑を掛けたとして、弁吉女様は 弁慶様を小島に捨ててしまわれました;
その小島で実父様に巡り逢われた弁慶様は、島を脱出。
“鬼若”と改名し、枕木山の華蔵寺、福原の澄水寺、そして出雲の鰐淵寺にて修行を積み、再び弁吉女様の元へと帰られました。
“鬼若”と名乗られた事にも疑問を感じるのですが、それよりも気になるのは、御2人が この再会を どのような心持ちでなさったのかという事。
子が親を求めるのは当然の事で御座いますが、1度捨てた子供との再会…弁吉女様にとっては、どういう意義のものであったので御座いましょう。

名を“弁慶”と改められた後、それから暫くは母と子の生活が続いたようで御座います。
弁吉女様は、その死に際に弁慶様を枕元へ呼び、菩提を弔うのであれば紀州の誕象様を訪ね、武士になる事を望むのであれば田辺に行き、法師になるのならば“武蔵坊”を名乗れと遺言なさったといわれます。
弁慶様が上洛し、遮那王様に巡り逢われるのは、その後の御話――という事で。

弁吉女様墓所05

□ 弁吉女の墓(べんきちめのはか)

所在地:島根県出雲市武志町
御創祀:不詳


弁吉女様の御墓は、個人の方が管理される田畑の中に御座います。
十数年前に、耕地を整理している際に現在地に移されたという事で御座います。
直ぐ傍に立派な墓地が併設されておりますが、そちらは恐らく無関係なのでは無いかと。

建立年代は不詳で、以前は五輪塔であった…という事で御座いますが………、現在の御姿を見る限りでは、何処にも その特徴を伺う事が出来ない為、どうしても五輪塔であったというのは考え辛いかなー;という気が致します。

   弁吉女の墓

 雲陽誌の中に、弁慶の母親の墓と伝えられるとある。
山の向うの鰐淵寺で若い弁慶は修行したと伝えられることと、何か関係がありそうである。
墓の元の位置は、ここの北東約二〇Mのよころで、耕地整理の際ここに移された。
     川跡地区明るい街づくり推進実行委員会



弁吉女様墓所06

長閑な風景…。
もしかすると、この斐伊川の畔は 弁吉女様が、鼻高山の向こうの鰐淵寺で修行する我が子に想いを馳せた場所なのかもしれません。

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