日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

最期まで、平家の公達として。
野迫川 維盛様歴史の里 資料室01

奈良県吉野郡野迫川村、平維盛歴史の里の資料展示室。
こちらでは、平維盛様の麗しき舞姿が拝めるという事で、張り切って拝観させていただきました〜!

館内は無人の為、入室の際には自分で電気を付けて見学させていただきます。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室02

資料室に入ると、先ず目に飛び込んで参りましたのが、この舞台!
安元2年3月4日(1176年4月14日)から6日(1176年4月16日)にかけて行われたという、後白河院の50歳の御賀にて、維盛様が舞われた青海波の場面を再現されているようで御座いますね。

那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく見しり奉つたるとおぼしくて、同行にかたり
けるは、
「ここなる修行者をいかなる人やらむと思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿の未四位少将と聞え給ひし安元の春の比、法住寺殿にて五十御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大将にてまします、伯父宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せられたり。其外三位中将知盛・頭中将重衡以下一門の人々、けふを晴とときめき給ひて、垣代に立給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざして青海波を舞うて出られたりしかば、露に媚たる花の御姿、風に翻る舞の袖地をてらし天もかかやくばかり也。女院より関白殿を御使にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立、是を給はて右の肩にかけ、院を拝し奉り給ふ。面目たぐひすくなうぞ見えし。かたへの殿上人、いかばかりうら山しう思はれけむ。内裏の女房達の中には、“深山木のなかの桜梅とこそおぼゆれ”などいはれ給ひし人ぞかし。唯今大臣の大将待かけ給へる人とこそ見奉りしに、けふはかくやつれはて給へる御ありさま、予ては思ひもよらざしをや。うつればかはる世のならひとはいひながら、哀なる御事哉」
とて、袖をかほにおしあててさめざめと泣ければ、いくらもなみゐたりける那知籠の僧共も、みなうち衣の袖をぞぬらしける。


以上は、平家物語の記述によるもの。
御一門の中でも、いちばんの美青年であられたと噂される維盛様は、冠に桜枝を挿して青海波を舞われ、その余りにも美しい御姿に“深山木のなかの桜梅”と内裏の女房達から羨望の眼差しで見詰められたようで御座います。
この事から、維盛様は桜梅少将様とも呼ばれるようになられます。

青海波は二人舞で御座いますのに、維盛様のみが素晴らしく評価されるというのは凄い事で御座いますね。
平家の御嫡男であられるという事実以上に、見る者を惹き付ける魅力を醸し出されておられたが故の事と思います。
それが また、源氏物語光源氏像と ぴったり重なるような印象を与えられていたので御座いましょう。

建礼門院右京太夫様も、維盛様が熊野にて入水なさったという事を聞いて、この時の事を思い出して“光源氏のためしも思ひ出でらるゝ”と語っておられます。

又、維盛の三位中将、熊野にて身を投げてとて、人のいひあはれがりし。
いづれも、いまのちをみきくにも、げにすぐれたりしなど思ひいでらるゝあたりなれど、きはことにありがたかりしかたちようゐ、まことに昔今みる中に、ためしもなかりしぞかし。
さればをりをりには、めでぬ人やはありし。
法住寺殿の御賀に、青海波舞ひてのをりなどは、光源氏のためしも思ひいでらるゝなどこそ、人々いひしか。
花のにほひもげにけをされぬべくなど、きこえしぞかし。

そのおもかげはさることにて、みなれしあはれ、いづれかといひながら、なほことにおぼゆ。
「おなじことゝ思へ」
と、をりをりはいはれしを、
「さこそ」
といらへしかば、
「されど、さやはある」
といはれし事など、かずかずかなしともいふばかりなし。

   春の花の 色によそへし おもかげの
     むなしき波の したにくちぬる


   かなしくも かゝるうきめを み熊野ゝ
     浦わの波に 身をしづめける

       (建礼門院右京大夫集による)


   “桜梅将軍” 維盛

後白河法皇50歳の祝いに、
桜の花をかざして、
「青海波」を舞う維盛。
その舞いと容姿の美麗さから
“桜梅将軍”と称えられた。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室03

雰囲気にちょっとした違和感は御座いますが、逆に この距離感がアットホームな感じで素敵だなぁとも感じます。
個人的には、維盛様の舞装束が、特に気になるところで御座いました。
源氏絵に見られる源氏物語の青海波の場面等、史料に伺える装束とは御色とか模様とか違う部分も多かったように思います。
青海波の装束は、縹色に青海波文様の地紋で、五彩の様々な千鳥の刺繍が施されている装束で御座いますが…というか…普通に考えて、青海波の装束というのは 他の装束と比べても かなり高価なもので御座いますので……流石に、現代で実際に使用されている本物の装束を用意するのは大変な事で御座いますよね;
ただ、平安期の青海波の舞装束は現代のものとは異なった柄のものであったようで御座います。
平安末期の頃は、どのような装束を着られたので御座いましょう。
栄華を誇る平家嫡流の御曹司で御座いますので、さぞや御立派な衣装を用意なされた事が想像されますね〜…何だか雲の上の世界で御座います。。

   <青海波>

右大将重盛、青海波の装束見に、一家の人びと、中納言宗盛、別当時忠、右兵衛督頼盛、平宰相教盛、三位中将知盛、頭中将重衡、左少将資盛、新中納言清経、兵衛佐忠房、権少将通盛、是等を引き具して向かふ。
その勢人にこと也。
又、蔵人、管弦の具を楽屋へ持て行く。
内大臣師、琵琶をしらむ。
 (中略)
輪台はてて青海波出で替りて舞ふ。
権亮少将惟盛、右少将成宗、ともに右の肩を脱ぐ。
あをうちの半臂海浦の文、螺鈿の細太刀、紺地の水の文の平緒、桜萌黄の衣、山吹の下重、胡簶をときて、老懸をかく。
山の端近き入日のかげに御前の庭の砂子ども白くきよげなる上に、花の白雪空に知られて散りまがふ程、物の音もてはやされたるに、青海波の花やかに舞ひ出でたるさま、惟盛朝臣の足踏み袖振る程、世のけいき、入日のかげにもてはやされたるかたち、似る物なくきよらなり。
同じ舞なれど目なれぬさまなるを、内、院を始めたてまつり、いみじくめでさせ給ふ。
父おとゞこと忌みえし給はず、をしのごひ給ふ、ことわりと見ゆ。
見る人涙を流す。
片手は源氏の頭中将ばかりだになければ、中々にかたはらいたくなん覚えけるとぞ。
舞ひをはりて、はじめのごとく連なり楽屋へ入る。
たゞし輪台の舞人は立ち加はらず。
 (平家公達草子による)


維盛様も大変麗しかったのですが、実は私は 向かって右奥に座っていらっしゃった童子姿の彼にメロメロで御座いました…好みがバレバレで御座います;///

野迫川 維盛様歴史の里 資料室04

資料室内には、“維盛の生涯”というタイトルで、維盛様が熊野に至った経緯から 野迫川での終焉までをジオラマと共に紹介されておりました。
順を追って見て参ります。

先ずは、史実にも伺える源平合戦の様子。
一ノ谷合戦に大敗し、屋島へと陣営を移した平家軍は、熊野水軍に協力を要請する為に維盛様を熊野別当であり熊野水軍の頭領である湛増様の元へと送られる事を決められたといいます。

   維盛の生涯

1. 合戦
 治承4年(1180)源頼朝追討軍の大将に任ぜられた平維盛は、その年の「富士川の合戦」・寿永2年(1183)の「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家一門は都落ちしていく。
更に翌年「一の谷の合戦」でも惨敗し、遂に瀬戸内海を渡り屋島へと陣を移す。
総大将宗盛は四国各地に水軍を求めるが、その効も無く再三再四にわたる群議の末、維盛を軍使として田辺湛増のもとへ派遣することとなった。



私は 以前からこの説を存じておりますが、正直に とても好きな解釈で御座います。
宗盛様の命であったか否か、実際に熊野水軍に交渉されたかという事は別問題と致しまして…単純に、もしそうであったなら平家軍における維盛様の御立場や内面も、また違った角度で考えられるのでは無いかな、という気が致しまして……。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室05

そして、屋島を出立。
イメージ的に、もっと小さな御舟で…という絵が私の中には御座いましたが、宗盛様に見送られての秘かなる旅立ちであれば、これ程の御船でも納得がいきますね。

2. 屋島より援軍を求めて

 源氏側の動向が刻一刻と伝えられる中、平家側にあっては、もはや予断の許されぬ事態となっていた。
この形勢の中、平家側総大将の宗盛にとって頼る者はただ一人。
旧縁旧恩のある熊野別当田辺湛増以外に無いと判断し、親書を維盛に託す。
命を受けた維盛はその重責を全うするため、数人の重臣を従え密かに屋島を出立。
讃岐、阿波の陸路を経て阿波国牟岐浦へと到着する。
そして、一路紀伊水道を横断し田辺浦へと向うのであった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室06

田辺浦に上陸された維盛様は、湛増様との対面を果たされます。

維盛様の祖父 清盛様の異母弟である忠度様は、熊野出身であるともいわれております。
その出生地と伝わる音川には、忠度様の御生母は湛増様の父 堪快様の娘 浜の女房と呼ばれる女性との事。
その他にも湛増様は平家に旧恩があり、大変縁の深い御方で御座いました。

然し…湛増様の妻の御母様は源氏方の御方。
湛増様御自身も源氏の方々と親戚関係にあられたといわれておりますし、義経様の郎党である武蔵坊弁慶様の御父様であるという伝承も有名で御座います。

つまり、湛増様は源平両氏、それぞれと深い繋がりを持っていらっしゃったという事になります。

3. 田辺湛増との出会い
 田辺浦に上陸した維盛は、一早く湛増と対面する。
湛増にとって平家は一門の宗家にあたり、密接不可分の関係にあった。
そして今、この若き維盛の勇姿を眼前にして心から満足気であった。
しかし、維盛から屋島陣営の状況を聞くにおよび、天下の情勢はすでに源氏方にあることを知り、苦悩はつのるばかりであった。
湛増は平家重代の恩恵を承知しつつも、熊野一国の将来の安泰を考慮し、万やむを得ず源氏従軍の意を打ち明けたのだった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室07

熊野水軍が源平どちらに味方するかを定めたとされる、新熊野での鶏合。

熊野別当湛増は、平家へやまいるべき、源氏へやまいるべきとて、田辺の新熊野にて御神楽奏して、権現に祈誓し奉る。
白旗につけと御詫宣有けるを、猶うたがひをなして、白鶏七赤き鶏七つ、これをもて権現の御まへにて勝負をせさす。
赤きとり一もかたず。
みな負けてにげにけり。
さてこそ源氏へまいらんと思ひさだめけれ。
 (平家物語 高野本による)


4. 闘鶏
 この頃、別当湛増のもとには源氏方からも熊野水軍加勢の要請使者が幾度となく訪れていた。
湛増は熟考に熟考を重ねたが時迫り、1つの判断をする。
それは、熊野権現の神託に称して紅白の軍鶏による闘鶏占いを演じることであった。
そのことにより家臣の統制と源氏、平家双方に対する公然たる理由づけとして湛増自身の対面も保つことができるからであった。



成程、湛増様の御心は元より定まっておられ、その裏付けの為に行われた闘鶏であったという事で御座いますね。
この時代、寝返りは割と当然の事のようで御座いましたので、然程大事のようにも感じませんでしたが、矢張り人間対人間の問題である限りは、両氏に血縁や御恩がある場合は深刻な決断になりますよね。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室08

熊野が源氏に与する事となり、維盛様は紀伊国内に潜伏される事となったようで御座います。
ここで疑問に思うのは、何故 平家軍に戻られる道を選ばれなかったのか、という事で御座います。
維盛様は以後暫くは湛増様の庇護下で生活なさったようで御座いますが…隠棲を考えられるよりも、この時点ならば 陣に戻って御一門と運命を共になさるという選択も可能だったのでは無いかと思われます。
妻子は京に残してこられたとはいえ、未だ異母弟の資盛様や有盛様もいらっしゃっいましたのに。
それを選ばれなかったのは、湛増様に引き留められたからかもしれませんし、維盛様が自ら望まれた結果だったのかもしれません。
それが何を意味するのかは知る由も御座いませんが…平家物語に語られる、高野山での御出家や熊野三山詣の後の入水とは違う道を歩まれておられるようで御座います。

5. 紀伊潜伏
 闘鶏の結果、源氏側に加勢することとなった湛増は自分の娘(玉乃恵)を維盛に娶らせ舅婿の契りを結ぶ。
そして平維盛を芦部湛之尉と変名させ逃亡の援助を図る。
更に人馬も通わぬ芦山に要害を築き維盛を住まわせたのであった。
一方「屋島の合戦」では平家側が大敗し、その1ヶ月後の寿永4年(1184)天下分け目の一大決戦(壇ノ浦の合戦)が繰り広げられた。
そして安徳幼帝以下平家の主だった人々は、海の藻屑と消えたのであった。



野迫川 維盛様歴史の里 資料室09

御一門の御最期を知らされた維盛様は、源氏の追手から逃れる為、紀伊山地を奥へ奥へと落ちて行かれます。
その流浪期間は、なんと10年間という事で……維盛様にとって、その10年は どれだけの時間に感じられた事で御座いましょう。

6. 野迫川村へ

 平家が屋島及び壇ノ浦の戦に敗れた情報は、維盛にも早々に伝えられ頼朝による平家狩りが一段と厳しさを増したことを知る。
湛増の隠匿策も限界となり、維盛も遂に覚悟の思いを妻に告げ芦山を後に流浪の旅へと向う。
それから十年間熊野地方に潜伏し、その後日高・有田・十津川等各地へ逃亡していく。
いつしか年老いた維盛は、京に残した妻子を慕い北へ北へと向う。
そしてようやく安住の地、野迫川に辿り着いたのであった。



野迫川に至った維盛様御一行は、ここを安住の地と定められ、この地にて御子孫を遺される事で その生涯を全うなさったと伝えられます。
平家再興を考えられた時期も長かった事と思われますが、護摩檀山での占い結果を受け入れてからは、ただ穏やかに余生を送られるだけの土地を求められて野迫川に入られたのかもしれませんね。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室10

ここまで、どんなに落ちても維盛様は平家の“武士”であられたのだと思います。
終着点と定められた地で、刀よりも大切な道具を得、護るべきものを育んでいかれたのでは無いでしょうか。
それでも、御自身が“平家”の御出自である事だけは、きっと誇りを持たれていたので御座いましょう。
だから今、ここに“平家の里”が存在しているので御座いますよね。

   野迫川と維盛

 平維盛は、「平家物語」で語られているように那智の浦で入水したのではなく、生きのびて平家再興を願い続けていたという伝承が紀伊半島の各地に残っています。
このような貴人伝説は全国にあり、人々は尊い人の子孫であることを誇りに生きてきました。
 野迫川村には、「維盛塚」の他、維盛が平家再興を占ったという護摩壇山や、家来のものと伝えられる墓があり、現在に至るまで村の人々によって大切に守られ語りつがれてきました。



↑この文章を読んで、私は とても嬉しくなりました。
本当に、その通りだと思うので御座います。
伝承地を巡る上で大切なのは、真偽とは別のところに感じる意義であると、私は平素より思っております。
押し付けるでも無く、疑うでも無く…ただ、これまで語り継がれてきた土地の歴史、伝承を受け継いで伝えていかれているという――それだけの事なのですが、たった それだけの事が現代に至って沢山失われてしまっているのも残念ながら事実で御座いますので…。
これも、ひとつの“地元愛”の表現なのだなぁと思うと、力強いものを感じます。

野迫川 維盛様歴史の里 資料室11

維盛様の歩まれた経路、伝承地が示された地図と映像のコーナーでは、未だ見ぬ伝承地等の情報を得る事が出来、今後の目標を大きく広げる事が出来ました。
既に訪れた場所の映像を見ていて、こういう五輪塔、私は見なかったな;と凹まされたりも致しました(苦笑)

資料室は1室のみで、余り興味の無い方等は 入られても3分位で出て行かれておりましたが、私にとっては全てが興味深く…2時間位 入り浸って勉強させていただきました。
とても充実した、有意義な時間を過ごす事が出来て、幸せに思っております〜。

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野迫川町01

……はい、維盛様の里からの帰り道、何故か道路上で御馬さんの群れと遭遇致しました(笑)
近くに付き添われる人等は見当りませんでしたので、一瞬、野迫川には野生の御馬さんがいらっしゃるのかと本気で慌てました…攻撃されるのかと思ったのです;;(熊じゃあるまいし…)

野迫川町02

こちらがビビって、超徐行運転でノロノロと近付いて行きましたら、なんと御馬さんの方から私に興味を示して下さいまして…!
特に、子馬さんが
なになに〜?遊ぶ〜??
とばかりに、フレンドリィな接近をして下さいました///
車を降りて触りたいなぁと思ったのですけれど、良く良く見れば、矢張り何処かの牧場所属の御馬さんである御様子…。
余所者の私に突然馴れ馴れしくされては、きっと御馬さんにも牧場の方にも御迷惑であろうと思い、車の中から観察させていただきました。

御馬さんエリアを突破し、再び車をスイスイ走らせて行きましたら、少しして体験農家?のような施設が道路沿いに御座いまして…そこの牧場の飼育小屋を掃除している方々の姿が見えましたので、あぁ こちらの御馬さんが御掃除の間に御散歩に出掛けておられたのね〜と、ちょっと安心致しました。
まさか、群ごと逃亡中なのでは?!とも思っておりましたので…(苦笑)

野迫川町03

御馬さんに遭遇する手前には、↑こんな案内板とトイレも設置してありました。
維盛様歴史の里の遊歩道は結構長距離なのだなぁと知ると、歩いてみたくなってしまいます。

トイレの表示には、何やら公達と姫君の可愛らしいイラストが…。
織姫と彦星?とも思いましたが、いえいえ、これは きっと維盛様に違いないわ!と勝手に盛り上がっておりました。

野迫川町04

野迫川村内には、熊野古道小辺路や蛍の郷等、散策をしてみたいなぁと思わされる素敵な見所が沢山御座います。
落石の跡とかに出遭ってしまうとギョッと致しますが(苦笑)、また近い内に訪れてみたいなぁと思っております♪

Comment

 秘密にする

ここも気になっているところの一つです。
維盛歴史の里という響きがまず良いですよね〜
資料室は写真OKなのですね。
なかなか見応えがありそう!

義経さま同様、維盛さまがどんな美男子だったのか
ぜひともタイムスリップしてお顔をのぞいて見たいです!(笑)
しずか | URL | 2008/08/27/Wed 11:06[EDIT]
拍手喝采!
相変わらずの「愛と根性」溢れるひろこさんの『花林』に敬服!すばらしいですね。
山口に行ってきました。広島停車時には、先述通り車両内で合掌し祈りを奉げさせていただきました。
山口市内の用事を済ませてから知人と別れ、一日延長することにして(ひろこさんの源平魂のお蔭で出発前から決めてたんです^^;;)、下関の『馬関まつり』を初めて楽しみました。翌日は十数年ぶり三度目の下関歴史散策をすることができました。過去の訪問時は「宮本武蔵」の比重が大でしたが、今回は「源平」一辺倒でした。特に平家の盛者必衰の理を感じるひとり旅となりました。
帰りの新幹線内で、特に広島を過ぎるころから、吉川英治『新平家物語』における楽人安部麻鳥夫婦が源平合戦の理不尽な余波を被っても、ささやかでも幸せな暮らしを手にすることができ、夫婦で吉野山の花見をしながら、権力を求めて争うことの愚かさを語り合い、ささやかな幸せを喜び合う場面が思い出されちゃった。
それにしても……三種の神器は?…なんて考えたりもしちゃったけどね;;…野暮かな!
ひろこさん仰せの「伝承地を巡る上で大切なのは、真偽とは別のところに感じる意義であると、平素より思っております。押し付けるでも無く、疑うでも無く…」は、ホントそうだね!←拍手喝采〜(^^)/
ULTRA007 | URL | 2008/08/27/Wed 23:47[EDIT]
>しずかさん
私も、数年前から こちらがずーっと気になっていて。
とにかく交通の便が悪い場所なので……熊野から野迫川を巡りたいが為に運転免許を取得したと言ってしまっても過言では無いような(笑)
廻りの景色がとても綺麗で長閑で…御勧めです〜。
私も、まだ野迫川には行く用事が御座いますので、また訪れたいなと思っております。

資料室は1部屋で大きなものでは無いのですが、じっくり見るには丁度良い量だったようにも思います。
テンションが上がって大変でした///

光源氏ばりであられたという維盛様の御顔…気になりますよね〜!
御父様の重盛様には肖像画が残されておりますのに(実際は、もっと後の時代に描かれたもので重盛様では無いそうですが;)、維盛様に関しては文献の記述しか伝えられていないのが、ニクい演出?で御座いますねー(笑)
どうゝね | URL | 2008/08/29/Fri 02:14[EDIT]
>ULTRA007さん
御帰りなさいませ〜。
広島停車時に車内から合掌なさったという事で…ヒロシマの人間として、とても嬉しく感じます。

下関、楽しまれたようで何よりです♪
源平史跡を巡られたのですね〜!
赤間神宮を参拝した時は、私も三種の神器について考えてしまいます。
伊勢神宮参詣時や愛知の熱田神宮に御参りした時も然りでは御座いますが…(苦笑)
いずれも御神体として御祀りされている実物を拝見する事は絶対に有り得ない事で御座いますので、想像する事位しか出来ませんが、色々と考察して考えを巡らせるのは楽しい事で御座いますよね。
考え過ぎて、もどかしくなって事も屡々で御座いますが…;
どうゝね | URL | 2008/08/29/Fri 02:22[EDIT]
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