
和歌山県田辺市龍神村から護摩檀山を越えて、高野龍神スカイラインを高野山方面へ向かって行きますと、途中で奈良県吉野郡野迫川村中心部への分岐が右手に見えて参ります。
道標に従って右折致しますと、直ぐに“平家の里”と書かれて道標が設置されておりました。
ここから、車で更に40〜60分程度進んだ場所に、野迫川村の施設 平維盛歴史の里が御座います。

熊野落ちの後、高野山で御出家の後に熊野三山を詣で、那智沖にで入水されたという平維盛様――然し、平家物語に語られる その結末の続きとも解釈出来るような…そんな維盛様にまつわる落人伝承が紀伊山地の各地に伝えられております。
これまでにも、色川郷や十津川郷、龍神村、湯の峰…等、少しずつでは御座いますが、その足跡を辿らせていただいて参りました。
この野迫川の地は、その最終地点と語り継がれる伝承地のひとつで御座います。
平維盛歴史の里
伝説のロマン漂う
平維盛は熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。
歴史資料館では数々の資料を展示・保存すると同時に、維盛にまつわる多くの伝承を映像・ジオラマ・レプリカなどを駆使して再現しています。
また、野迫川村の自然が生かされた敷地内には、維盛塚を中心に花鳥風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台などが整備されています。
伝説のロマンに思いを馳せ、心和む散策のひとときをお過ごしください。
( 「野迫川村ガイドマップ」 奈良県野迫川村地域振興課 発行による)
また、野迫川村役場方面へ向かう分岐手前辺りの龍神スカイライン沿いには、鶴姫公園というのが御座います。
こちらも野迫川村内で、平家伝承に関連する場所でも御座います…が、龍神村の伝承地同様に個人的な心残りが御座いますので(苦笑)、今秋以降に再び訪れて、その後に記事に纏めたいと思っております。

野迫川に向かうに当たり、事前に野迫川村役場さんに維盛様の歴史の里について御伺い致しました。
とても御親切に対応いただきまして、維盛様の里、野迫川までの地図をFAX、郵便で送って下さいました。
地図には龍神からの経路が蛍光ペンでなぞってあり、付箋に説明を記してあり、大変嬉しかったです。
出掛ける直前に里に開館の確認の御電話をしたところ、どなたも御出になられませんでしたので、不安に思って役場に問い合わせをさせていただいたので御座いますが、その時にも
「近くの方が朝鍵を開けに来られますが、基本的には無人なんですよ」
と教えていただきまして。
御陰様で、無事に行って勉強させていただく事が出来ました。
本当に、有難う御座います。
落人伝説
平 維盛 歴史の里
平維盛―これほど伝説のベールに包まれた人物はいない。
太政大臣平清盛の孫として、また「桜梅少将」と世上にその名を知られた当代随一の美男、など伝説的要素にこと欠かない。
『平家物語』によると、屋島における平家一門の滅亡を前に熊野に逃れ、やがて那智浦で入水したと伝えられている。
しかし、一方では援軍を熊野別当湛増に依頼するため秘かに上陸し、平家狩りの追討を避け、熊野山中を転々としてその生涯を終えたという伝承もある。
そのいずれが真実であるかどうかは別として、熊野・吉野地方の各地に伝わる“維盛伝説”は、輻輳する現代社会に生きる私たちにロマンの香を感じさせてくれることは確かである。
いま、本村ではそうした伝承にもとづいて「平維盛歴史の里(花鳥風月―平安の里)」を創設しました。
現代人が忘れかけたロマンや夢をすこしでも、取り戻したいという願いのもとに施設の整備を行ない、ジオラマ・レプリカ、映像などを駆使し、伝承の再現に努めました。
ここの「平維盛歴史の里」にはいくつもの関連施設があり、それぞれ展示をはじめ、多目的利用を目的としています。
維盛塚を中心に、花鳥風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台など本村の自然を存分にいかしたこの「平維盛歴史の里」は、広く人びとの心に語りかけ、こころ和むひとときを過ごすことができると思います。
奥高野の一角に、こうした施設が完成し、訪れる人びとを悠久の昔に誘うことでしょう。
歴史の里が御座いますのは、野迫川の平。
ここで維盛様が没されたという伝承を基に、夢のある街づくりを展開しようとなさっている村の方々の御気持ちが原動力となって誕生した里なのだそうで御座います。
とても素敵な事で御座いますね〜!
野迫川には、全国平家会の会員の方もいらっしゃるとの事。
平家会発行の平家伝承地総覧にも、“ここでは春秋二度、平維盛歴史の里大祭が執り行われており、緑麗しい野迫川村のあちこちに平家の赤旗がはためき、平家一色の村となる”と記されており、祭礼の御様子が写真付きで掲載されております。
個人的には、野迫川村のサイトの 春の大祭頁に載っていた、皆のアイドル“これもりくん”の存在が、秘かに気になっております…(笑)

歴史の里に到着して先ず目に入ったのが、緑の芝生が鮮やかな小高い丘。
こんもりと形良く、空の青に映える様子が印象的で御座いました。
こちらが、維盛塚。
維盛様供養の為に築かれた塚なのだと思います。

維盛塚の頂上には、維盛様の顕彰碑が建立されておりました。
梵字も彫られている事から、供養塔を兼ねているのだと思われます。
平 維盛塚由来記
一の谷合戦に敗れた平家は、屋島へと逃げのび、寿永三年(一一八四年)宗盛公の下命により、平維盛公(二十六才)は熊野水軍の援軍を求めるため、熊野別湛増(現在の和歌山県田辺市)のもとへ使者として派遣されたが、天下の情勢はすでに源氏側にあったため、湛増は平家の恩恵は知りつつも、熊野一国の安泰を考慮し、援軍を断った。
湛増は維盛公に姫を娶らせて、自分のもとに匿い、源氏の追討から守った。
しかし源 頼朝は文治五年(一一八九年)維盛逮捕令を発令し、一大平家狩りをおこなった。
湛増は配下豪族に命令し、維盛を守護させながら、奥熊野の山岳地帯に逃した。
建久九年(一一九九年)源頼朝の死により、平家狩りも休止した。
維盛は京の妻子に再会するため、紀伊山岳路を北上、建保四年(一二一六年)維盛(五十八才)主従は、野迫川村平へ到着。
山岳流浪潜伏すること三十余年におよび、源氏追討と山岳突破の疲労により、この地にとどまり承久元年(一二一九年)六十一才で終焉。
里人により手厚く葬られ「平維盛塚」として伝わる。
「嗚呼 小松三位左中将 平朝臣維盛公、終焉の地」

頂上付近には、白い造花が幾本も御供えされておりました。
維盛様の顕彰碑前には、色鮮やかな生花が手向けられており、あぁ愛されていらっしゃるのだなぁと温かく感じました。
維盛塚からは、歴史の里全体と付近の美しい山並みを一望する事が出来ます。

維盛塚を下りながら、周辺を散策していると、維盛様の御家来の御墓への道標が御座いました。
季節的に、草が良く伸びる頃で御座いましたので、途中 ここは通れる道なのだろうかと思われるところも御座いましたが、進める限り歩いて行ってみようと思い、奥に入って行きました。

木々に囲まれた少し暗い場所に、ぽつんと置かれていた小さな石…こちらが、維盛様の御家来の御墓のようで御座います。
維盛様の御家来といわれると、どうしても維盛様の乳母子 与三兵衛重景様…それから石童丸様の事が先ず思い浮かぶのですけれどー…平家物語とは筋書や結末も違うだけに、別の御方である可能性も大きいかとは思われます。

芝生の草が成長して中々気が付かなかったりもしたのですけれど、里内には このような表示を幾つか発見する事が出来ました。

歴史の里は、“花鳥風月―平安の里”とも呼ぶのだそうで…長閑な景色の中、不思議と雅な空間が保たれているのに然程 違和感を感じ無い事が面白いなと思いました。
広い敷地内には幾つかの休憩所が設けられており、観花亭、観鳥亭、観風亭、観月亭…と、それぞれに“花鳥風月”より1字ずつを担った名称が付けられております。
↑あれ?…画像からは観風亭が抜けておりますね……あれれ;(苦笑)
その代わりに入っている左下の画像は、御食事処 笛の茶屋さん。
なんて素敵なネ〜ミング!と興味津々だったので御座いますが、残念ながら休業中のようで御座いました。。

建物の近くを流れる小川には、水車の跡が御座いました。
野迫川村の紹介頁に“季節によっては、アジサイの生茂る中で回る水車にも出会える”と記されておりますので、もしかすると紫陽花の季節にだけ水車が設けられているのかもしれませんね。
この風情ある御庭でなら、曲水の宴が出来そう〜♪と、ひとりでウキウキしながら散策させていただきました。
誰も居ないと思っておりましたが、私が滞在している間に何組かのグループが通り掛かりに立ち寄られていたり、御弁当を広げられていたりされておりました。
こんな憩いの場所が近くにあったら、毎日でも 花林さん(※私の愛笛/龍笛)持参で来るのになぁ〜(笑)

※明日は、里内に御座います資料館について。


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