
□ 梶原景時(かじわらのかげとき) □
生 年:保延6(1140)年?
没年月日:正治2年1月20日(1200年2月6日)
父 :梶原景清
母 :横山孝兼女
兄 弟:朝景、友景、景道
妻 :横山孝兼三女、狩野尼
子 :景季、景高、景茂、景国、景義、景宗、景則、景連、女(武藤資頼妻)
戒 名:龍泉院梶勝源公
通 称:平三
梶原景時様といえば、鎌倉幕府の有力御家人。
諸説御座いますが、梶原氏は桓武平氏 平良文様の御子孫で、鎌倉党 坂東八平氏に数えられる一族といわれます。
本領は、相模国梶原郷。
元々は源氏に仕える御家系で御座いましたが、平治の乱の後は平家方として存続されておりました。
文武両道に長けた御方として知られておりますが、判官贔屓な近代においては、義経様を悲劇の結末へと導いた張本人として悪者的な扱いをされる事も多いですね…;
治承4(1180)年、源頼朝様が挙兵なさると、景時様は大庭景親様と共に頼朝様の討伐に向かわれました。
石橋山合戦にて頼朝様の軍に勝利され、景時様は山中へと潜まれた頼朝様を探し発見されますが、ここで頼朝様の事を見逃されております。
大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。
佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。
景時哀に見奉りて、
「暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へ」
と申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。
景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。
佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。
後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。
平三伏木の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、
「此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へ」
とぞ下知しける。
大場見遣て、
「彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べし」
と云ひけるが、
「其も時刻を移すべし、よしよし景親入て捜てみん」
とて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、
「やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさん」
と宣はば、
「我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は」
と云ければ、大場もさすが不入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からりからりと二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。
深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はたはたと羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。 (源平盛衰記による)
この場面は、矢張り源平盛衰記に語られるイメージが強いですね。
景親様が怪しまれる臥木の洞窟に入られた景時様は頼朝様を見付けられますが、その時に自害なさろうとした頼朝様を制止し、貴殿が戦に勝った際には御忘れにならぬようにと告げると、体を張って庇っておられます。
この出逢いが後の運命を大きく変える事を、景時様は本能的に悟られておられたのかもしれません。
鎌倉へと入られた頼朝様は、同年10月(1180年11月)の富士川合戦にて平維盛様率いる平家軍に勝利。
大庭景親様は捕えられた後に処刑されておりますが、2ヵ月後に土肥実平様経由で降伏した影時様は、養和元(1181)年のはじめに頼朝様と対面を果たされ、頼朝様の厚い信任を得、鎌倉御家人に列せられる事となりました。
侍所所司に任命された他、鶴岡八幡宮若宮造営や御台所 政子様の出産奉行等、重要な役割を担っておられます。
寿永2年12月(1184年2月)、景時様は頼朝様の命により上総広常様を殺害致します。
後に誤解であった事が判明するようで御座いますが、頼朝様は東国で大きな勢力を有していた広常様が謀反を企てられているという噂に不安を抱かれたので御座いましょうか…景時様は、広常様と双六を楽しんでいた最中、隙をついて御首をとられたので御座いました。
寿永3(1184)年には、御嫡男 景季様と共に宇治川合戦、続いて一ノ谷合戦に参戦。
一ノ谷合戦において、景時様は当初 義経様の侍大将で御座いましたが、義経様とは余り御気が合わなかったようで範頼様率いる大手軍へと変わっておられます。
景時様は、景季様、景高様と、生田口の平知盛様率いる軍勢と交戦されました。
この時、私党の方々が先陣を争って抜駆けをされておりますが、家人が少ない河原兄弟は2人共に死を決して平家陣へと矢を放ち、平家方の真名辺四郎様、五郎様兄弟に討たれ亡くなりました。
これを知った景時様は、それぞれが自分勝手に功名を求めた結果が軍全体にどれだけの損害を与えるのか考えられないのかと、大変御怒りになっておられます。
其時下人ども、
「河原殿おととい、只今城の内へまさきかけて討たれ給ひぬるぞや」
とよばはりければ、梶原是をきき、
「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟をばうたせたれ。今は時よくなりぬ。よせよや」
とて、時をどとつくる。
やがてつづひて五万余騎一度に時をぞつくりける。
足がる共にさかも木取のけさせ、梶原五百余騎おめひてかく。
次男平次景高、余にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者をたてて、
「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」
といひければ、平次しばしひかへて
「“もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは”と申させ給へ」
とて、おめいてかく。
「平次うたすな、つづけやものども、景高うたすな、つづけやものども」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。
梶原五百余騎、大勢のなかへかけいり、散々にたたかひ、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひいてぞ出たりける。
いかがしたりけん、其なかに景季はみえざりけり。
「いかに源太は、郎等ども」
ととひければ、
「ふかいりしてうたれさせ給ひて候ごさめれ」
と申。梶原平三是をきき、
「世にあらんと思ふも子共がため、源太うたせて命いきても何かはせん、かへせや」
とてとてかへす。
梶原大音声をあげて名乗りけるは、
「昔八幡殿、後三年の御たたかひに、出羽国千福金沢の城を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさきかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にいつけられながら、当の矢をいて其敵をいおとし、後代に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我と思はん人々は、景時うて見参に入れよや」
とて、おめいてかく。
新中納言
「梶原は東国にきこえたる兵ぞ。あますな、もらすな、うてや」
とて、大勢のなかに取こめて攻給へば、梶原まづ我身のうへをば知らずして、
「源太はいづくにあるやらん」
とて、数万騎の大勢のなかを、たてさま、よこさま、蛛手、十文字にかけわりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲にたたかいなて、馬をもいさせ、かち立になり、二丈計ありける岸をうしろにあて、敵五人がなかに取籠られ、郎等二人左右に立てて、面もふらず、命も惜しまず、ここを最後とふせきたたかふ。
梶原是を見つけて、
「いまだうたれざりけり」
と、いそぎ馬よりとんでおり、
「景時ここにあり。いかに源太、しぬるとも敵にうしろをみすな」
とて、親子して五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ、
「弓矢とりはかくるもひくも折にこそよれ、いざうれ、源太」
とて、かい具してぞ出たりける。
梶原が二度のかけとは是なり。
ここは、景時様に関する御話の中で私がいちばん好きな件で御座います。
合戦が始まると、景時様は御次男の景高様が先駆けをされようとするのを諫める為に使者を送られておりますが、それに対して景高様は
もののふの とりつたへたる あづさ弓
ひいては人の かへすものかは
“武士が、先祖代々伝えられてきた梓弓を引いてしまったのです。
1度引いた弓は、元には戻りません”
と景時様に御歌を伝えられ、再び進んで行かれました。
景時様は、予想外な息子の反応に驚かれた部分もあったので御座いましょう…平次を討たせるな、景高を討たせるなと、景季様、御三男 景家様を従えて駆け出されました。
梶原500騎は本隊から離れてしまいますが、ここで歩を緩める事は武名に関わるとして、そのまま平家の軍勢の中へと突進されていきました。
大軍を有す平家の中で景時様の軍勢は僅か50騎となり、敵陣を退かれたので御座いますが、退陣してみると、景季様の御姿が何処にも見えない事に気が付かれます。
所在を尋ねると、もしや深入りなさって討たれたのかもしれない…等と、ひとりの郎等が発言しました。
景時様も、人の親で御座います。
「この世に行き留まろうと思うのも、子供達の為…源太を敵に討たせて、自分の命が助かったとして、一体それが何になろう!引き返す!」
と敵陣に舞い戻り、そこで勢い良く名乗りを上げられました。
「昔、八幡太郎義家殿が後三年合戦で、出羽国千福の金沢城を攻められた時、生年16歳にして先陣を駆け、左眼を射貫かれながらも、その矢を引き抜き相手を射殺したと、後代にまで名を挙げられた鎌倉権五郎景正の末裔、梶原平三景時、一騎当千の強者である。
我と思わん者は、この景時を討ち取って、そちらの大将軍の元へ差し出すが良い!」
これを見た知盛様は、梶原は東国に聞こえる強者であるとして、士気を高められました。
激しい戦乱の中、景時様は ようやっと地面で戦う景季様を発見されますが、そんな景季様に死んでも敵に背を向けるような事はするなと励ましておられます。
「弓矢を取る者は、進むも引くも機を見て行わねばならぬ。さあ源太、続け!」
ここで先程の御歌に対する御返事で御座いますかー!と、思わず余裕なのでは無いかと思わせられるような発言で御座いますが…こういう所も、平家物語の魅力の1つで御座いますね。
ここで景時様は景季様を抱えて馬に飛び乗り、敵陣を突破。
2度も敵陣へ飛び込んだ景時様の事を“梶原の二度駆け”と呼ばれ、誰もが讃えられたといわれます。
合戦後、景時様は播磨、備前、美作、備中、備後の5ヶ国守護を命じられております。
そして一ノ谷で捕虜となった平重衡様を鎌倉へと護送する為に上洛されると、平家の所有していた領地を没収なさいました。
さて…一ノ谷合戦で戦功をあげられた人物として、特に有名なのは義経様で御座いますね。
然し、合戦後の小除目に際して、義経様には任官がなされませんでした。
その後、義経様は頼朝様の許可無く、後白河法皇より従五位下に叙せられ、左衛門少尉、検非違使少尉に任官して、院への昇殿を許されました。
この辺りから、掛け違い始めた釦と釦穴のように、頼朝様と義経様の御関係の雲行きが怪しくなってくるので御座います。
元暦元(1185)年のはじめ、一ノ谷に続いて、屋島合戦を迎えるにあたり、頼朝様は敢えて出陣命令を下していなかった義経様に摂津国にて軍を編成させ、讃岐国屋島に本営を構える平家軍を攻撃する事を定められました。
ここで行われたのが、景時様vs義経様による“逆櫓”の論争で御座いますね。
恐らくは、景時様にまつわる御話の中で最も有名なのでは無いかと…。
渡辺には大名小名よりあひて、
「抑ふないくさの様はいまだ調練せず。いかがあるべき」
と評定す。
梶原申けるは、
「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」
判官
「さかろとはなんぞ」
梶原
「馬はかけんと思へば弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきとをしもどすが大事候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢを入れて、どなたへもやすうをすやうにし候ばや」
と申ければ、判官の給ひけるは、
「いくさといふ物はひとひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門でのあしさよ。さかろをたてうとも、かへさまろをたてうとも、殿原の舟には百ちやう千ぢやうもたて給へ。義経はもとのろで候はん」
との給へば、梶原申けるは、
「よき大将軍と申は、駆くべき処をばかけ、退くべき処をばひいて、身をまたうしてかたきをほろぼすをもてよき大将軍とはする候。かたおもむきなるをば、猪のしし武者とてよきにはせず」
と申せば、判官
「猪のしし鹿のししはしらず、いくさはただひらぜめにせめてかたるぞ心地はよき」
との給へば、侍共梶原におそれてたかくはわらはねども、目ひきはなひきぎぎめきあへり。
判官と梶原とすでに同士いくさあるべしとざざめきあへり。
やうやう日くれ夜に入ければ、判官の給ひけるは、
「舟の修理してあたらしうなたるに、おのおの一種一瓶してゆはひ給へ、殿原」
とて、いとなむ様にて舟に物の具入れ、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、
「疾く疾くつかまつれ」
との給ひければ、水手梶取申けるは、
「此風は追手にて候へども、普通にすぎたる風で候。奥はさぞふいて候らん。争か仕候べき」
と申せば、判官おほきにいかての給ひけるは、
「野山のすへにてしに、海河のそこにおぼれてうするも、皆これせんぜのしゆくごう也。海上にいでうかふだる時風こわきとていかがする。むかひ風にわたらんといはばこそひが事ならめ、順風なるが少しすぎたればとて、是程の御大事にいかでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々にしやつばら射ころせ」
と下知せらる。
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ、すすみ出て、
「何条子細を申ぞ。御ぢやうであるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射殺さんずるぞ」
といひければ、水手梶取是をきき、
「射殺さんもおなじ事、風こはくは、ただはせじににしねや、物共」
とて、二百余艘の舟のなかに、ただ五艘出でてぞはしりける。
のこりの船は風におそるるか、梶原におづるかして、みなとどまりぬ。
判官の給ひけるは、
「人の出でねばとてとどまるべきにあらず。ただの時はかたきも用心すらむ。かかる大風大浪に、思ひもよらぬ時にをし寄せてこそ、思ふかたきをばうたんずれ」
とぞの給ひける。 (平家物語 高野本による)
景時様は、兵船に逆櫓をつけて進退の自由を優先すべきと提案なさっておられますが、義経様は逃げる準備等いらぬ!という御意見……B型?(笑/すみません;)
「逆櫓でろうが返様櫓であろが、貴殿等の船には百挺でも千挺でも付ければ良かろう!義経の船にはいらぬ」
……なんて事を言われてしまっても、
「良き大将軍というものは、出る所では出、引き際を知り、身を全うして敵を滅ぼすものです。
そのように、短慮な事ではいけませんよ、それではまるで突き進むことしか知らぬ愚かな猪武者ですぞ」
と景時様は、大人な対応…年齢差は、はっきりとはしないものの最低でも20歳位は離れておられたのでは無いかと。。
冷静かつ慎重な御考えで行動なさりたい景時様とは、どうあっても気が合わなかったのかもしれません;
結局、勝てば良いのだし、その方が気持ちが良い!的な御考えの義経様とは相容れる事無く……この件に関しては、結果的には確かに咎められるべき事にはなりませんでしたけれど…大勢の部下を従える大将軍の御言葉としては、危なっかしくて…正直、景時様のアイディア云々よりも、その発言の裏側を、義経様には汲み取って和解して欲しかったなぁー…と思わされる私で御座います。
歴史に“if”は御座いませんけれど、でも たったそれだけで変わった未来も想像出来てしまうのが、恐ろしいところで御座いますね;;
景時様との内乱には至らなかったものの、更に義経様は悪天候にも関わらず、順風であるなら構わぬ!とばかりに強引に出航されてしまいました…。
暴風の中、僅かな数で上陸された義経様は、あっという間に屋島を攻め落とされます。
景時様率いる140余艘の本隊が到着する頃には、既に平家軍は逃げられておりました。
この事から、景時様は五月五日の端午の節句に間に合わなかった菖蒲という意味を込めて“六日の菖蒲”と嘲笑されてしまったといいます。
そして、壇ノ浦での決戦。
平家物語によりますと、この時に景時様は先陣を希望されておりますが、なんと総大将の義経様は自らが先陣に立たれると言われ、総大将が先陣とは何事かと騒動になっております。
合戦は、義経様の御活躍によって源氏の勝利、平家の滅亡という形で終結致しましたが、肝心の三種の神器を完全に取り戻す事は叶いませんでした。
元暦2年4月21日(1185年5月22日) 九州より鎌倉へ、景時様が親類の方を御使いに文書を届けられました。
その手紙の内容は、はじめに合戦の次第について、そして後半は義経様の不義について訴えられる内容で御座いました。
元暦二年四月二十一日
廿一日 甲戌
梶原平三景時飛脚、自鎮西參著。
差進親類献上書状。始申合戰次第、終訴廷尉不義事。
其詞云、西海御合戰間吉瑞多之。
御平安事、兼神明之所示祥也。
所以者、何、先三月廿日、景時郎従、海太成光夢想、浄衣男、捧立文來。是石清水御使、覺、披見之處、平家未日可死載<タリ。>覺之後、彼男相語、仍未日、搆<テ、>可決勝負之由、存思之處、果而如旨。
又攻落屋嶋戰場之時、御方軍兵不幾、而數萬勢、<マボロシニ>出現<テ、>敵人見<云云>。
次去々年、長門國合戰之時、大龜一出來、始浮海上、後<ニハ>昇陸。
仍海人恠之、参河守殿御前持参。
以六人力、猶持煩之程也。
于時、可放其甲之由、相儀之處、先之有夢之告、忽思合、参河守殿、加制禁、剰付簡<テ。>被放遣畢。
然臨平氏最後、件龜再浮出于源氏御舩前、<以簡知之>次白鳩二羽、翻舞于舩屋形上、當其時、平氏宗人人、入海底、次周防國合戰之時、白旗一流、出現于中虚。
暫見御方軍士眼前、終収雲膚畢。
又日、判官殿、爲君御代官、副遣御家人等、被遂合戰畢。
而頻雖被存一身之功由、偏依多勢之合力歟。
謂多勢、毎人不思判官殿、志奉仰君之故、勵同心之勲功畢。
仍討滅平家之後、判官殿、形勢、殆超過日来之儀。
士率之所存、皆如踏薄氷。敢無眞實和順之志。
就中景時、爲御所近士、愍伺知嚴命趣之間、毎見彼非據、可違關東御氣色歟之由、諫申之處、諷詞還爲身之讎、動招刑者也。
合戰無爲之命、祇候。
無所據。
早蒙御免、欲歸參<云云>。
凡和田小太郎義盛、與梶原平三景時者、侍別當所司也。
仍被發遣舎弟兩將於西海之時、軍士等事、爲令奉行、被付義盛於參州被付。
景時於廷尉之處、参州者、本自依不乖武衛之仰、大少事示合于常胤義盛等。
廷尉者、挿自専之慮曽不守御旨。
偏任雅意、致自由張行之間、人之成恨、不限景時<云云>。
この文の後半で景時様は、先ず義経様が頼朝様の代官として派遣され、鎌倉の御家人を与えられておられたが故に、合戦に勝利する事が出来たと記されております。
然し、御自らの策略による独り善がりな戦功と思い込まれている御様子…多くの武士達が鎌倉殿の為に心を合わせて協力したからこそ勝てた訳で、義経様に従われていたという事では無いといわれております。
「それなのに、平家を滅ぼした後の判官殿は、まるで思い上がっていらっしゃる。
付き従う兵達は、薄い氷の上を歩いているような心持ちで、心から判官殿に従っている訳では御座いませぬ。
この景時は、頼朝様の側近として鎌倉殿の求める真の目的を存じておりますので、間違いを指摘する事も御座いましたが、判官殿は御怒りになられるばかりで、危うく処刑されそうな事になってしまいます。
合戦が終わった今、御傍に居てもどうするという事も御座いません、ただただ今は早く関東へ帰る御許しをいただきとう御座います」
景時様は、義経様が自己中心的なので、自分だけで無く他の武士達も恨みに感じておりますと報告されたので御座いました。
いわゆる“梶原景時の讒言”と呼ばれる御手紙で御座います。
この文書が、どれだけ頼朝様の御内情に関わられたかは存じませんが、この後 義経様は鎌倉への帰還を許されず、その御生涯において2度と兄 頼朝様と対面する事は御座いませんでした。
平泉にて義経様が自刃なさった後、鎌倉へと送られた御首を実検されたのは、和田義盛様、そして景時様で御座いました。
“梶原景時の讒言”と呼ばれる例は、他にも幾つかあるようで…。
土佐国の住人 夜須行宗様が壇之浦合戦での恩賞を願い出られた際、景時様は そのような者は居なかったとして申し立てられておりますが、これには証人がいらっしゃった為、景時様には処罰が科せられております。
また、畠山重忠様が謀反を企てていると言上された際には、重忠様の誠意が頼朝様に届き、身の潔白が証明されました。
もしかすると、その時その時の裏の事情等が御有りだったのかもしれない…とは思いますが、その深い御心の中までは知る由も御座いません。
建久3(1192)年、和田義盛様に代理として侍所別当に就任。
これは別当職を臨んでいた景時様が、謀って職を奪ったとされております。
正治元年正月13日(1199年2月9日)、頼朝様 御逝去。
景時様は、宿老として引き続き幕府の中心で2代将軍 頼家様に御仕えされました。
十三人の合議制が置かれると、景時様もその御1方として列せられております。
頼朝様亡き後も、頼家様の御傍で その権力を誇り、尚且つ 将軍への告口が悪質であるとして、景時様は次第に他の御家人衆の方々より敵視されていかれる事となります。
ついに、有力御家人を含む諸将66名による景時様排斥を求める連判状が提出されると、景時様は“引き時”と感じられたので御座いましょうか、抗う事無く一族の方々と共に相模国一ノ宮の館へと退かれました。
…と思いきや(笑)
正治2年正月(1200年2月)、景時様親子は甲斐源氏 武田有義様を将軍に擁立しようとし、上洛を試まれました。
正治二年正月二十日
廿日 丁未晴
辰剋、原宗三郎、進飛脚申云、梶原平三景時、此間於當國一宮、搆城郭、備防戰之儀。
人以成恠之處、去夜丑剋、相伴子息等、偸遜出此所。
是企謀叛、有上洛聞<云云>。
仍北條殿、兵庫頭大夫屬入道等、參御所、有沙汰、爲追罰之、被遣三浦兵衛尉、比企兵衛尉、糟谷藤太兵衛尉、工藤小次郎已下軍兵也。
亥剋、景時父子、到駿河國清見關。
而其近隣甲乙人等、爲射的群集。
及退散之期、景時相逢途中、彼輩恠之、射懸箭。
仍芦原小次郎、工藤八郎、三澤小次郎、飯田五郎追之。
景時、返合于狐崎、相戰之處、飯田四郎等二人、被討取畢。
又吉香小次郎、澁河次郎、舩越三郎、矢部小次郎、馳加于芦原吉香。
相逢于梶原三郎兵衛尉景茂、<年卅四>互令名謁、攻戰共以討死。
其後、六郎景國、七郎景宗、八郎景則、九郎景連等、並轡、調鏃之間、挑戰難決勝負、然而漸當國御家人等競集、遂誅彼兄弟四人。
又景時、並嫡子源太左衛門景季、<年卅九、>同弟平次左衛門尉景高、<年卅六、>引後山、相戰。
而景時、景高、景則等、雖貽死骸、不獲其首<云云>
正治二年正月二十一日
廿一日 戊申
巳剋、於山中、捜出景時并子息二人之首。
凡伴類三十三人、懸頚於路頭<云云>。 (吾妻鏡による)
然し、その道中 駿河国清見関にて在地武士と争う事とになり、狐崎にて御嫡男 景季様、次男 景高様、三男 景茂様が討死なされ…景時様は、西奈山上にて自害して果てられました。
生年不詳につき、享年不詳。
梶原景時の変と呼ばれるこの戦闘で、梶原一族33人が討死なさっておられます。
玉葉によりますと、景時様が追放となった原因は、頼家様に 弟 実朝様を将軍に据えようと企んでいる者がいるという事を報告した為という事になっております…。
ただ、実際のところ…それは その通りになってしまったと…いう感じで御座いますので…一概に、吾妻鏡の記録を鵜呑みにするのも如何なものかと思わない事も御座いません;
悪役的な存在として物語等で扱われる景時様では御座いますが……それは、どなたの視線から考えた場合の事なので御座いましょう。
義経様を中心に源平合戦と鎌倉方の諸々を見ていけば、確かに景時様には物申したくなる気持ちにさせられるような気も致します。
人に、“善”だとか“悪”だとか…そんな役割を押し付けて考えるのは、とても悲しい事で御座いますね。
ですが、そこから生まれる文化というものも確かに御座います。
善悪無くして、日本の昔話は語れませんよね。
景時様は、和歌の上手としても知られた御方で御座いました。
奥州討伐に従軍された際にも、頼朝様と御歌を交わされておりますし、建久元(1190)年の頼朝様上洛に同行なさった際にも、遠江国橋本宿での宴で 頼朝様と御歌を詠まれております。
景時様にとって、本当に大切だったもの――それは、決して1つでは無かったので御座いましょうけれど、その御心の中には いつも頼朝様の存在が鮮明であったのでは無いでしょうか。


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