
□ 金刺光盛(かなさしみつもり) □
生 年:不詳
没 年:寿永3(1184)年?
父 :光頼
母 :不詳(おとせ?)
兄 :盛澄
妻 :不詳
子 :唐糸
通 称:手塚太郎、手塚光盛
金刺光盛様は 信濃国諏訪の御出身で、諏訪武士団の頭領 金刺盛澄様の弟様で御座います。
諏訪下宮の大祝 金刺一族の御方で、信州塩田平の手塚に御館を構えられていた事から“手塚太郎”様、“手塚光盛”様と呼ばれる方が多いようで御座いますね。
兄 盛澄様は、吾妻鏡によりますと元々 平家方であられた…という事になっておりますが、平家物語に登場はされないものの、木曾義仲様を匿われて養父となられたとも伝えられており、義仲様亡き後には鎌倉幕府の御家人となられておられます。
一方、光盛様は…といいますと、平家物語では木曾勢の有力人物として伺えますが、吾妻鏡に御名前を見る事は出来ません。
御2人が御兄弟であるといわれるのは、室町期の諏訪大明神絵詞の記述による事で御座います。
その御出生等について、余り詳しい事は分かっておりませんが、光盛様は治承4(1180)年に挙兵された義仲様の傘下に入り、最期の時まで義仲様に尽くされておられます。
光盛様といえば、寿永2(1183)年の篠原合戦において、斎藤実盛様を討ち取られた件が特に知られておりますね。
又武蔵国の住人長井斎藤別当実盛、みかたは皆落ちゆけ共、ただ一騎かへし合はせ返し合はせ防たたかふ。
存るむねありければ、赤地の錦の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、切斑の矢おひ、滋藤の弓もて、連銭葦毛なる馬にきぶくりんの鞍をいてぞのたりける。
木曾殿の方より手塚の太郎光盛、よい敵と目をかけ、
「あなやさし、いかなる人にて在せば、み方の御勢は皆落候に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆうなれ。名乗らせ給へ」
と詞をかけければ、
「かういふわとのは誰そ」
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」
とこそ名乗たれ。
「さてはたがひによい敵ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねがあれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」
とておしならぶる処に、手塚が郎等をくれ馳にはせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当にむずとくむ。
「あぱれ、をのれは日本一の剛の者とぐんでうずな、うれ」
とて、とて引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて捨てげり。
手塚太郎、郎等がうたるるをみて、弓手にまはりあひ、鎧の草摺引きあげて二刀さし、よはる処にくんでおつ。
斎藤別当こころはたけく思へども、いくさにはしつかれぬ、其上老武者ではあり、手塚が下になりにけり。
又手塚が郎等をくれ馳に出できたるに頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まいて、
「光盛こそ奇異のくせ者くんでうて候へ。侍かと見候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候つれども、終になのり候はず。声は坂東声で候つる」
と申せば、木曾殿
「あぱれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。それならば義仲が上野へこえたりし時、おさな目に見しかば、しらがのかすをなりしぞ。いまは定而白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあやしけれ。樋口次郎はなれあそで見したるらん。樋口めせ」
とてめされけり。樋口次郎ただ一目みて、
「あなむざんや、斎藤別当で候けり」
木曾殿
「それならば今は七十にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいはいかに」
との給へば、樋口次郎涙をはらはらとながひて、
「さ候へばそのやうを申あげうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの詞をば、かねてつかひをくべきで候ける物かな。
斎藤別当、兼光にあふて、つねは物語に仕候し。『六十にあまていくさの陣へむかはん時は、びんぴげをくろう染てわかやがふど思ふなり。其故は、わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、又老武者とて人のあなどらんも口惜かるべし』と申候しが、まことに染て候けるぞや。あらはせて御らん候へ」
と申ければ、
「さもあるらん」
とて、あらはせて見給へば、白髪にこそ成にけれ。
まるで大将軍を思わせるようないでたちで、ただひとり最期まで戦われる覚悟を決められていた実盛様の前に現れたのが、光盛様。
光盛様は実盛様に名乗りを求めますが、先に御自身が名乗られると、御互いに良い敵であろうとして実盛様は一切名乗られませんでした。
光盛様の郎党は実盛様に討たれてしまいますが、決着は光盛様の勝利に終わりました。
実盛様を組み討たれた光盛様は、その御首を木曽軍の陣へと持ち帰られます。
義仲様に、大将軍かと思われるのに御ひとりで 最期まで名乗らなかったが、関東訛りで喋る武将であった事を御伝えすると、その御首を見た義仲様は ひと目で この御方が幼い頃に見た実盛様である事に気が付かれました。
実盛様は、義仲様の命の恩人。
詳しいエピソード等は語られませんが、義仲様は御幼少の頃の御記憶に実盛様の事を確かに刻み付けられておられました。
元々は源氏方であった実盛様で御座いますが、時勢が変わる中で源氏方から平家方の武将として生きられる事を選ばれ、かつて御自ら救われた源氏の御曹司 義仲様と敵対関係となっておられたので御座いました。
白髪である筈の実盛様が、白髪を黒く染めてまで臨まれた最期の戦。
義仲様に呼ばれて登場する樋口兼光様は、直ぐに実盛様と気が付き、涙を流されました。
実盛様は かつて兼光様に、60を過ぎて戦に向かう時は、いい歳をして若者達と争うのは大人気無いし、かついって老武者と侮られぬように、髪を黒く染めて出ようと思うと語られておられたので御座いました…。
前年の富士川合戦において、平家軍が無様に敗退してしまった事を悔やまれる気持ちもあった実盛様は、この戦で平家の為に討死なさる御覚悟でいらっしゃったので御座います。
大将軍と見紛う格好をされておられたのは、故郷には錦を着て帰れという故事に倣う為と、宗盛様に許可をいただいた上の事であったようで御座います。
染められた黒が洗い流されるのを見、そんな実盛様を想って涙する主君の御姿は、光盛様が実盛様を見付けられた その時には想像の及ばないものであった事で御座いましょう。
同年7月28日(1183年8月17日)、義仲様、源行家様の軍勢は、ついに京へと入られます。
光盛様も、勿論 御同行されておられた事で御座いましょう。
木曽軍の入京に先駆けて、平家御一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちられております。
奢る平家を京より追い出し、期待の新星として入京された義仲様の軍勢で御座いましたが、京の人々や貴族方からの評判は下がる一方で、次第に法皇様からも疎まれる存在となっていかれました。
法皇様の命により平家追討に向かわれた木曽軍で御座いますが、備中 水嶋合戦では惨敗。
その間に法皇様が鎌倉の源頼朝様と接触をとられていた事を知り、急ぎ帰京し頼朝様追討の院宣を求められました。
11月18日(1184年1月2日)、義仲様は御所法住寺殿へ放火し、後白河法皇を幽閉。
強引では御座いますが、義仲様は この後に征夷大将軍となられております。
然し、法皇様は即座に義仲様追討の院宣を下されておりました。
これを受け取られた頼朝様は、義経様、範頼様に大軍を任せ、義仲様の討伐に向かわせました。
鎌倉の追討軍との戦いの中、次々と消えていく木曽軍の兵達。
その中で、ぎりぎりまで義仲様に付き従われた4騎の内の御ひとりに、光盛様がいらっしゃいました。
「あぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」
とて、ひかへたるところに、武蔵国に、きこえたる大力、御田の八郎師重、卅騎ばかりで出できたり。
巴その中へかけ入、御田の八郎におしならべて、むずととてひき落し、わがのたる鞍の前輪にをしつけて、ちともはたらかさず、頸ねぢきてすててげり。
其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ぞゆく。
手塚太郎打死す。
手塚の別当落にけり。 (平家物語 高野本による)
平家物語高野本によりますと、義仲様は巴様と離れられ、手塚別当様は落ちられ、そして光盛様は討死なさったという事で御座います。
手塚別当様で御座いますが、光盛様と同一視される事も御座いますけれど、↓長門本によれば 光盛様の叔父上様、もしくは伯父上様であったようで御座います。
其後かしこに百騎、ここに四五十騎、所々ゆきあひゆきあひ戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、
手塚別党、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎家包と云者つづきたり、
「相構へて生捕にせよ」
と、仰せられたるぞ、
「家包ならば軍をやめたまへ、助け奉らん」
と申けるを、
「何条さる事あるべきぞ」
とて、今はかうと戦ひけれども、終に生捕られてけり (平家物語 長門本による)
ただ…長門本では、光盛様は討死なさった事になっておらず、生捕りになったとされるようで御座います。
その他、諸本によって記述は様々で御座いますし、吾妻鏡にも記録されておりませんので…この時の光盛様の生死について、確かな事は判りません。


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