
和歌山県日高郡みなべ町――南部湾の沖合に浮かぶ、鹿島。
古くより信仰の対象として崇められ、大宝元(701)年に この御島を詠まれた御歌が万葉集に収録されております。
そんな島内の聖域に、平敦盛様の御墓、もしくは供養塔がある…という情報を元に、色々と調べさせていただいたので御座いますが……どうやら、鹿島は現在 無人島のようで御座いまして、定期船等も運航されておりませんので、釣りを楽しまれる方やハイキングに出掛けられる方以外は普通、地元の方でも滅多に赴かれる事が無いそうで御座います;
観光協会さんのサイトの鹿島神社の説明文のところに“北島にある宝篋印塔は、平敦盛の冥福を祈るため、弥平兵衛宗清が建立したと伝えられています”と記載されておりましたので、詳しく教えていただきたいと思いまして問い合わせをさせていただいたので御座いますが、何故か役場の方も観光協会の方も御存じ無いという事で御座いました;
鹿島周辺には小さな島々が幾つも点在しているらしく…“北島”というのが何処を指しているのだろうかと大いに悩まされたので御座いますが、それでも鹿島の辺りに現存する事が確かなのであれば、それだけで充分!!ここは ひとつ自力で探し当ててみせようぞ!という事で…単純な私は、予備知識もろくに持たぬままに鹿島を目指す事を決意致しました。
幸い、渡島前に鹿島神社の神主さんに鹿島について少しだけ御話を伺う事が出来まして。
鹿島神社は、元々 鹿島の島内に御祀りされていた神社で御座いますので、詳しい事は分からないそうですが島内には何らかの石塔が現存するという事と、鹿島には遊歩道が整備されており、案内板もあるので迷う事は無いだろうという事で御座いましたので、先ずは渡船を出して下さるところを探しました。

鹿島への船渡しをして下さる渡船屋さんに御願いをし、いざ、埴田の港から 沖に浮かぶ鹿島を目指して出発で御座います!
…唐突に思い立って行動しているように見えるかもしれませんが、実は鹿島に渡るまでには2ヶ月の準備期間が御座いました(苦笑)
最近の私はひと月毎に熊野参詣をしておりましたので、その度に みなべに立寄って海際から鹿島を観察したり、図書館等で調べ事をしたり。
“敦盛塚”と呼ばれる敦盛様の塚が島内にある事、それが宝篋印塔である事等は事前に知る事が出来ましたが、それでも、その塚が鹿島のどの辺りであるのかは結局分からぬままでの出発で御座いました。
この日は余り天候が優れず…海上に浮かぶ雲の具合を見て、渡船屋さんが
「もしかすると、嵐になるかもしれませんが……」
と仰られたので、やや不安も御座いましたが、目的は敦盛塚のみで御座いましたので、それさえ発見出来れば直ぐに引き返し、長居は致しませんという事で、御船を出していただきました。
御船に乗り込むと、とてもワクワクした気持ちで楽しくなってしまいます。
桟橋から御船に乗る瞬間の、ちょびっと危険な感じとか…懐かしいなぁと思います(笑)
定期船では御座いませんので、勿論 乗船者は私ひとり。
瀬戸内育ちで、家庭用の小型船等には小さい頃から乗り慣れておりましたので、ついつい はしゃぎたくなってしまいますね///

そして、上陸。
出航から、10分も経過しない位で御座いましたでしょうか。
渡船屋さんは、用事が済んだら携帯に電話を下さいと仰られて、一旦 埴田港へと戻って行かれました。
無人島に、ひとり居残る事となり、一気に緊張が高まります。
町指定・鹿島
三名部の浦塩な満そね鹿島なる
釣する海人を見てかへりこむ
この歌は犬宝元年(七〇一)冬十月文武・持統天皇が紀の湯(湯崎温泉)に旅行された時の歌で、南部地区で最も古い歌であり、南部とか鹿島のはじめての文献でもある。
鹿島は埴田崎から約五百米の南部湾上にあり、周囲約一五〇〇米、面積二・六ヘクタール、最高部二七米あり、砂浜によりて南北二島に分れている。
両島共樹木鬱蒼と繁り、奇厳累々として景勝は見事で、県立自然公園に指定されている。
南の森には古来より常陸国(茨城県)の鹿島神宮より勧請したと伝えられるタケミカヅチノミコトを祀る鹿島神社があったが、明治四十二年対岸に移転し、現在は社のみ残されている。
北の森は真中の鞍部より二島に分かれているようで、気佐藤方面より望めば三島に見え、これが三つの鍋を伏せた様だから三鍋の名前となったとも伝えられている。
北の森には鹿島開発に情熱をそそいだ長岡翁の記念館、恵比須大黒天社、竜ノ口観音、船魂神社、戦勝観音、平敦盛の宝篋印塔などが建立されている。
その他幾つかの宿泊施設もあったが、台風などのため昭和三十年代にはすべて全壊した。
しまにはまた山藍、たにわたり、わんじゅ、きのくにすげ、はまゆう等の珍らしい亜熱帯植物やびゃくしんの大木も自生していたが、たにわたりなど見ることが出来ない。
さぁ、気合を入れて敦盛様の塚を探しあてて見せるぞ!!
と意気込み、遊歩道を登り始めてから約1分後――いともアッサリと発見しちゃいまして…これは、かなり予想外でした(笑)
何て素敵な偶然…い、いいえ!愛の力で御座います!!!(言張る!)

遊歩道沿いに木々の繁る辺りに足を踏み入れると、正面に案内図的な看板が置かれておりました…が、その手前に蝶々が舞っており近付く事が出来ませんでした……視力の弱い私は、後で蝶々が居なくなったら、また戻って来て場所を確認しよう;と思いつつ、先ずは右端に寄って静か〜に走り抜けようと致しました。
そうしましたらば、何と その蝶々が私の目の前に やって来てしまいまして…。
「わー!!御免なさい、御免なさい!!!」
と謝り倒しながら、傍にあった長岡翁頌徳碑にしがみ付きかけた時。
「あれ…何か、奥に石塔が……?」
良く見れば、その手前には“文化財を大切にしましょう” “宝篋印塔(伝 平 敦盛の墓)”と記された標が立っており。
余りにも突然の事で御座いましたので、暫く その場に立ち尽くしてしまいました(本当は、蝶々が そちらへ入って行ったので、中々入って行けなかったという説も…ごにょごにょ)

遊歩道脇の草叢に建つ、敦盛様の宝篋印塔。
想像以上に大きくて立派な台座が拵えられていて、とても驚きました。
文化財表示は御座いますが、埴田の港近くの方々も御存知無いようで御座いましたし、ここは現在 無人島で御座いますし…余り頻繁に管理がなされている様子は無いのだなぁという事が感じ取れます。

□ 平敦盛の墓(たいらのあつもりのはか) □
所在地:和歌山県日高郡みなべ町鹿島(北島)
建立年:不明
相輪部分、隅飾突起等が欠落しており、素人の私がパッと見ただけでは制作された年代を推測する事が出来ませんでしたが、図書館にて拝見した資料によれば室町期の建立であるという事で御座います。
昔から この御島には弥兵衛宗清様という御方が建立された敦盛様の塚があると言い伝えられていたそうで御座います。
鹿島は、2つの島が連なっているような趣である事から、船着場のある方が北島、鹿島神社の旧社地である方が南島と呼ばれているようで御座います。
元々、この宝篋印塔は北島では無く、南島に埋もれていたものを、明治期 鹿島の遊園地開拓の際に長岡翁が発見され、現在地に移されたという事で御座います。
宝篋印塔は四方正面の為、ぐるりと1周出来る程度に周囲に空間を設けられているもので御座いますが、生い茂った草々を踏み倒す訳にもいきませんので…背後に回り込む事は遠慮致しました。
▽平敦盛卿の宝篋印塔
鹿島遊園地の長岡翁頌徳碑の後約三間程地点(里見館の下側)に一基の宝篋印塔が建てゝある。
元鹿島神社(現御旅所の社殿)と長床の東南方に落葉で建った侭八分程埋まってあるのを長岡翁が発見し遊園地開拓の人夫を指揮して現在の地点に移したのである。
之は敦盛塚と称し弥兵工宗清が平家の滅後其菩提を弔わんがため石工に仮装して建てたという千基の石塔の一つと伝えられている。(高さ凡そ二米)
町指定・鹿島の宝篋印塔
鹿島の波止場から登ったところ、すなわち鹿島の北島の鞍部に一基の宝篋印塔がある。
宝篋印塔は、元来内部に宝篋印心呪経を納めたことからその名がでたが、後、この塔形の名称となった。
宝篋印塔には、木像、銅造、石造等があるが、石造では宝治二年(一二四八)在銘のが最も古い。
一般に鎌倉中期以降供養塔や墓塔としてさかんに造立されたものであるが、当地方の宝篋印塔は殆んど室町時代中期から安土桃山時代に造立されたものである。
鹿島の宝篋印塔は、参議平経盛の第三子従五位下平敦盛の墓と称せられている。
塔のそばに「敦盛塚」の標石があり、それに「昔より此島に弥兵衛宗清の建てたる敦盛公の塚ありと伝へ来りけるが、明治三十六年(一九〇三)南の御山手入れの際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ置す」と記されている。
南の御山とは、もとの鹿島神社のあった場所である。
本塔は砂岩製で、埋もれていたといわれるが風化がはげしく、相輪を失い、隅飾突起も欠失しているのが残念である。
現在高は一メートルであるが、復元すれば一・三米以上もあったと推定されるかなり大きな宝篋印塔であろう。

宝篋印塔の傍に建てられた碑文には、
“昔より此島に弥兵衛宗清の建たる敦盛公の塚ありと傅へ来りたるが明治三十六年南の御山手入□の際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ安置す”
と刻まれております。
敦盛塚
南部湾にある鹿島の波止場から山に登る途中に室町時代に建立されたと推定される宝篋印塔がある。
この宝篋印塔は参議、平経盛の第三子従五位下平敦盛の墓と称せられている。
塔のそばに「敦盛塚」の標石があり、それに「昔より此島に弥兵衛宗清の建てたる敦盛公の塚ありと伝へ来りけるが、明治三十六年(一九〇三)南の御山手入れの際地中深く埋もりありたるを発見しこの所へ置す」と記されている。
南の御山とは、古くから鎮座する鹿島神社のあった場所である。

敦盛様と熊野…史実の上で、直接的な関係があった事は記録されておりませんが、平家御一門は熊野と深い繋がりを持っておりましたし、熊野三山への信仰も篤かったようで御座いますので、全く無関係であったと言い切る事は出来ないように思います。
もしかしたら敦盛様も、平家全盛の時代であった幼い頃に御一門の方々と共に熊野を詣でられておられたかもしれませんよね。
室町期の頃に、敦盛様供養の為に供養塔が建立された…というのは、それ程 疑問に思う事でも御座いませんが、その場所が紀伊国熊野の神島として崇められていた鹿島であった事は、大変 興味深く…そして、嬉しく思えてなりません。
大好きな熊野の地で、敦盛様を想う事が出来る…――幸せで御座います。


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