日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

下諏訪の身代わり地蔵様。
かやなき地蔵様01

長野県諏訪郡下諏訪町。
諏訪大社 下社 秋宮の前にある観光案内板を見て、下諏訪には和泉式部様の守り本尊が安置される御寺さんがあるという事を知り、それは是非行ってみなくては!という事で、訪ねて参りました。

かやなき地蔵様02

□ 来迎寺(らいこうじ)

所在地:長野県諏訪郡下諏訪町湯田本町
御創建:天文10(1541)年
御開基:諏訪金刺右衛門尉
御開山:栄海上人
宗 派:浄土宗知恩院派
山 号:引接山
御本尊:阿弥陀如来


和泉式部様縁の御地蔵様は、この来迎寺さん境内に御座います。
余り詳しい御縁起等は分からなかったのですが、来迎寺さんは天文10(1541)に栄海上人によって開山された御寺さん。
御開基は、諏訪大祝 金刺右衛門尉と伝わっており、正確な御名前までは記録されていないようで御座いますが、金刺盛澄様の御子孫なので御座いましょう。

かやなき地蔵様03

今から千年余前の事、下諏訪の湯屋別当方に かねという名の、幼い娘が奉公をされておりました。
かねちゃんは、とても心の優しい女の子だったようで、畑に行く時には、いつも道端の御地蔵様に、自分の御弁当を少し御供えしていたそうです。

ある時、御弁当が足りなくなるという出来事が起こりました。
奉公人仲間に告げ口をされた かねちゃんは、別当の奥様に酷く御叱りを受け、焼けた火箸で額を打ちすえられてしまいました。
額から血が流れ、その激痛に耐えられなかった かねちゃんは、いつも信心していた御地蔵様のもとへと走り、泣きながら祈りました。
すると、不思議な事に御地蔵様の額から血が流れ出ており、気付けば かねちゃんの傷は跡形も無く綺麗に消えて、しかも美しい御顔に変わっていたといいます。
かねちゃんの身代わりとなり、更に御利益を与えられた御地蔵様は、あっという間に有名になりました。

それから、どれだけの時が経った頃の事かは分かりませんが、この地を訪れれていた都の大江雅致様は、この話を耳にされると、かねちゃんを是非にも養女にしたいと願い、都に連れ帰る事となりました。
雅致様の元で改名され、“かね”と呼ばれる事が無くなった この少女は、書道、歌道に秀で、後に宮中に出仕。
和泉守 橘道貞様と結婚の後、“和泉式部”と呼ばれるようになりました。

………と、いう伝承と この御地蔵様が、今も下諏訪には語り継がれているようで御座います。

案内板で“和泉式部”という文字を発見した時、何故 諏訪に和泉式部様縁の場所が?と、とても疑問に思いました。
この伝承については、諏訪を訪れて初めて知ったのですけれど…何というか、ただただ吃驚で御座いました。
和泉式部様の御幼少期について謎は多いのは確かな事で御座いますけれど、平安の都において数々の恋愛遍歴を持たれた御方として知られる和泉式部様が、実は信濃国の御出身で湯屋奉公をされていた……と…言われても、なかなか想像が出来ませんよね…(苦笑)

かやなき地蔵様04

そんなに大きな境内では御座いませんが、全体的に とても綺麗で真新しい感じで御座いました。
沢山並んだ赤い消防バケツが、何やら大変印象的では御座いましたが…境内の至るところで、かねちゃん こと和泉式部様に肖った碑等を拝見する事が出来ました。
水を覗き込む かねちゃんと、それを見守る御地蔵様の像を見ていると、あぁ愛されているのだなぁ〜と、とてもあたたかい気分にさせられます。

かやなき地蔵様05

こちらが、銕焼地蔵様を御祀りされる御堂で御座います。

和泉式部様は、道貞様との間に小式部内侍様をもうけられておりますが、小式部様は若くして早世…。
伝承によれば、我が子に先立たれた事を悲しまれた和泉式部様は、仏門に入って庵を結び、そこに下諏訪より御地蔵様を勧請されたのだそうで御座います。

そして、それから少し後の時代に至り…諸国遍歴で その庵に立ち寄られたという北条時頼様の夢枕に御地蔵様が立たれ、下諏訪に連れ帰るように望まれたといわれます。
その御告げを受けた時頼様は、御地蔵様を笈に入れて下諏訪まで移動。
御堂を建立し、そこに御地蔵様を安置されたのだそうで御座います。

  和泉式部の守り本尊
   銕焼地蔵尊と“かね”

今から千年あまり語りつがれて来た伝説です。
下諏訪の湯屋別当方に“かね”という幼い娘が奉公していました。
 畑に行く時はいつも道端のお地蔵様に自分の弁当の一部をお供えする心のやさしい娘でした。
 ある時“かね”をそねんでいた仲間がつげ口をしたことから別当の妻はおこり、焼け火箸でかねの額を打ちすえました。
いたさにたえかねた“かね”は日頃信心のお地蔵様のもとに走り、ひざまづいて泣きながら祈り仰ぐと、お地蔵様の額から血が流れでており、自分の痛みは消え、傷はなくなり美しい顔にかわっていました。
 お地蔵様が“かね”の身代わりになってくださったのです。
この話は瞬く間に拡がって誰言うことなく
「かなやきさまは霊験あらたかなお地蔵様」
と遠近に聞こえ、お参りする人で賑わうのでした。
たまたま都からこの地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、“かね”をぜひにと、都に伴い養女としました。
雅致夫妻のもとで書道・歌道などを学んだ“かね”は宮中に仕えるようになりましたが、歌人として群をぬき、やがて和泉守橘道貞と結婚、和泉式部となりました。

百人一首のなか
  あらざらむ この世の ほかの おもひでに
 いまひとたびの あふこともかな

       銕焼地蔵尊(かなやきさま)奉賛会



かやなき地蔵様06

銕焼地蔵様の御堂前には、和泉式部様の供養塔が建立されておりました。
これは、本当に ごく最近のもののようで御座いますね。

気になったのは、供養塔の傍にいらっしゃる数体の御地蔵様の御首から上部分だけが新しくされていた事…。
首から下の部分は、若干古めかしい状態で御座いましたので…なんだか、とても心配になってしまいました。
これは、明らかに人為的な被害に遭われた跡なのでは無いかと思うのです。
仏様の御首を壊すだなんて…もしかすると、明治期の廃仏毀釈運動で壊されてしまった御地蔵様を最近 修繕されたのかもしれませんが…見た感じは、もう少し新しいのでは無いかと。
どれが正解であったとて、悲しい事実に変わりは御座いません。

かやなき地蔵様07

銕焼地蔵様の御堂の御賽銭箱傍には“恋札を入れてください”と記された箱が御座いました。
和泉式部様は、恋多き女流歌人。
和泉式部様の故事に肖って、恋愛の守り仏様としても崇められているのかもしれませんが、ただ幸せな恋愛をされて、そのまま幸せに暮されました〜目出度し!…という感じの御方でも御座いませんので…ちょっと複雑な部分も御座いますが、そんな和泉式部様の一途さに惹かれる乙女は意外と多いのでは無いかしらとも思います(笑)

  下諏訪町文化財
   銕焼地蔵尊像

 この尊像は、厨子入りの秘仏で、例年四月二十四日に、ご開帳供養が行なわれる。
総高六七、五cm 御丈二九、五cmで温容すこぶる美しく華麗な作である。
当時門前の巨碑にもみるように、早くから厚い信仰にまもられてきたものである。
また、和泉式部の守本尊でのちに鎌倉時代に最明寺入道時頼が、京都から負うてきてここにまつったという伝説がある。
       下諏訪町教育委員会



かやなき地蔵様08

銕焼地蔵堂の前には、和泉式部様の歌碑も御座いました。
刻まれた御歌は、百人一首でも知られるあらざらむ 此世のほかの おもひ出に いまひとたびの 逢うこともかな

和泉式部様、小式部様は、母子共に百人一首に詠まれる平安期の代表的な女流歌人で御座いますね。

かやなき地蔵様09

* * * * * * * *

昼食は御蕎麦

下諏訪では、御昼御飯に御蕎麦をいただきました〜♪
天麩羅蕎麦、美味しかったです。

ドラさんは、いつも美味しそうに御飯を食べるので、見ていて楽しいですね。
ついつい連れ回してしまうので、御迷惑も御掛けしまくっていると思うのですが、
運転は任せました!
と容赦無く呑み始めるドラさんは素敵です(笑)

西の人間な私は、東国で御蕎麦を食べる時は、いつも微妙に悩みます;
最近は、段々と東の蕎麦ルール?が解ってきたような、そうでも無いような…という感じなのですが、とりあえず冷たい御蕎麦を頼むと、暫くして“蕎麦湯”というものが出されるらしいという事は覚えました…初めて出された時は、何が来たのかと思って非常に焦りました;
それ以降、御蕎麦屋さんに入った時は、温かい御蕎麦しか頼まないように致しております(笑)

関東に来て思ったのは、意外と饂飩よりも御蕎麦の方を好まれている方が多いなぁという事。
地元では饂飩は食べに行きますが、余り御蕎麦を食べに行くという習慣は御座いませんでしたので、何だか不思議な感じで御座います〜。

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