日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

名将の記憶の欠片が舞うそらに。
法華寺01

心配は心配りはいくらしてもよい
しかし 心を苦しめるような心配はするべきではない
 すぐ上 史蹟 法華寺


そんな言葉に導かれて――。
諏訪大社 上社 本宮東参道入口より、左手に続く坂道を上っていきますと、法華寺さんという御寺さんが御座います。

諏訪の上社の4ヶ寺に数えられた大坊 神宮寺、上ノ坊 如法院、下ノ坊 蓮池院、そして法華寺さん…神仏集合時代、諏訪宮別当の一寺であり、その地位は神宮寺に準ずるもので御座いました。
正確な御創建年代は伝わりませんが、平安の頃より続くといわれる歴史深き御寺さんで御座います。

法華寺02

上社本宮より ほんの2〜3分 坂道を上るだけの道程で御座いますが、たった それだけの時間の中で、この辺りが如何に信仰深く、そして歴史深い場所であるのかが伺えるような気が致しました。
道脇に御祀りされる小さな石祠、石塔、庚申塔、無造作に設置された案内板 等…。

   妙法院跡

 妙法院は弘法大師の草創と伝え上之坊ともいわれ御朱印三十石妙法院役□二十石があり毎年四月から百日潔□して法華経を書写し十月に上社御内陣のお鉄塔におさめて国家安全四海泰平の祈願をするのがおもな行事であった
建物は明治維新にこわされたが文明十七年西紀一四八五の銘ある大の如来像はじめ多くの仏像仏具はうつされて富士見□□事の法隆寺に現存する



   神宮寺学校跡

明治七年(一八七四年)から大正十五年(一九二六年)まで神宮寺学校があり、繭倉を改築した三階建校舎が建っていた。
法華寺も校舎として使用され、お寺学校と呼ばれた。
明治の中頃に中洲尋常高等小学校となり、中洲学校校舎統一まで学び舎として使用された。



法華寺03

□ 法華寺(ほっけじ)

所在地:長野県諏訪市中洲神宮寺
御創建:平安時代
開 山:不詳
宗 派:天台宗→臨済宗
山 号:鷺法山
御本尊:釈迦如来


法華寺さんの御創建についてはハッキリとしませんが、御開山当時は天台宗寺院であったそうで御座います。
鎌倉期に至り、寛元、宝治年中(1243〜1249)の頃 領主である蓮仏入道盛重様によって中興され、鎌倉 建長寺より蘭渓道隆様を招かれて、臨臨済宗妙心寺派に改宗されました。
以降、諏訪上宮の宮寺として伽藍の建ち並ぶ大寺院として勢力を誇っておられたようで御座います。

戦国の世、甲斐武田氏追討の為 高遠城を落した織田勢によって、武田氏崇拝の本宮が焼討にあいますが、織田軍が本陣として使用されていた法華寺さん無事で御座いました。
こちらは、織田信長様が明智光秀様に恨まれる原因が起こった場所であり、徳川家康様が信長様と対面された場所とも伝えられます。

江戸期にも、上宮の有力寺院であり、神宮寺五重塔や釈迦堂、薬師堂等の管理を担っておられました。

明治元年、神仏分離に際して廃寺となってしまわれますが、大正年間に再び旧地に再興されておられます。

そして平成11年7月、放火によって山門を残し堂宇を焼失。
現在の御社殿は、つい最近再建されたもののようで、とても綺麗で御座いました。

   鷲峰山法華寺

もと天台宗であったが、鎌倉時代寛元年間領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて禅宗に改めた。
天正十年織田信長が甲州征伐の時、この寺を本営として滞陣して論功行賞を行ない、多くの武将たちが集まった。
信長が明智光秀を愚弄して恨まれ、本能寺の変の原因の一つをつくったのは、ここの寺である。



法華寺04

御本堂の左手前には、弁財天様の御堂が御座います。
こちらも、とても綺麗な外観で御座いますので、矢張り火事で焼失されてしまったものを再建されたのでは無いでしょうか。

弁天堂の傍の小径を御本堂の裏手へと進んで行きますと、忠臣蔵の赤穂義士討入で知られる吉良上野介義央様の外孫に当たる吉良義周様の御墓が御祀りされておられます。
一緒に諏訪へ行って下さったドラさんは、義周様縁の御家系なのだそうで…御実家が諏訪神社である事もあって、不思議な繋がりだなぁと感じました。

法華寺05

義周様は、赤穂浪士討入の翌年に、討入りの際の不埒なる仕方不行き届きという幕府の御咎めにより領地を召し上げられ、高島藩へと預けられる事となりました。
江戸時代当時、諏訪は流刑の地とされていたようで御座います。
諏訪に入られた義周様は、高島城南之丸に御身を置かれますが、それから3年後の宝永3(1706)年、この地にて病死されたという事で御座います。
幕府による検死が行われたようで御座いますが、義周様の遺骸を引き取られる方がいらっしゃらなかった為、この法華寺さんに土葬されたと伝えられます。
享年21歳という御若さで御座いました。

   吉良義周の墓  吉良町

 忠臣蔵で有名な吉良上総介の嗣子義周の墓が、本堂裏に現存する。
 高島城南之丸に幽閉された身であるとはいえ名門吉良氏の最後の当主の墓にしては、まことにみじめで、赤穂浪士の名声の影に泣く被害者の悲哀を今も伝えている。



  諏訪市史跡
   吉良義周墓

 吉良左兵衛義周(一六八六〜一七〇六)は米沢藩主上杉綱憲の次男であったが、祖父にあたる吉良義央(上総介)の養子となり、元禄一四年(一七〇一)吉良家を継いた。
 元禄一五年一二月一四日、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討入りに遭遇し、自身も手傷を負う。
翌年、評定所に呼び出され、大目付より「仕方不届」として領地召上を申し渡され、諏訪安芸守忠虎(四代高島藩主)へお預けの身となった。
高島城南之丸へ囲われた義周への処遇は、丁寧かつ儀礼を尽くしたものであったことが伝えられている。
 しかし、配流から三年後の宝永三年(一七〇六)一月二〇日、二一歳の若さで病死してしまう。
幕府による検死の後、同年二月四日、法華寺裏手に埋葬された。
 墓石には「室燈院殿□嶽徹宗大居士神儀寛永三丙戌天正月廾日」と刻まれている。
   指定昭和54年2月15日 諏訪市教育委員会



   吉良義周公に捧ぐ

 義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。
 公は上杉綱憲(吉良上総介長男)の第二子として生をうけ、五歳にして上総介嗣子(あとつぎ)として吉良家の人となった。
 名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。
元禄事件である。
世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。
公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
 しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、また当法華寺十一世春巌和尚の温かいご配慮に、われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
 公よ、安らかに眠り給え。
       平成六年六月吉日 吉良町



法華寺06

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法華寺07

JR上諏訪駅のホームには、素敵な事に誰でも気軽に利用出来る足湯が御座います〜♪
電車を待つ間、まったりと温泉に足をつけて ぼんやりと時間を潰す事が出来るというのは、とても幸せな事で御座いますね!
ホームの中にあるので、本当にギリギリまで楽しめるのが魅力的です。
冬場は、特に嬉しい設備で御座いますよね。

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