日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

諏訪の上社、本宮。
諏訪大社上社本宮01

信濃國一之宮 諏訪大社は、諏訪湖の南北に2社ずつ4ヶ所に分かれて鎮座される、独特の形式から成る御宮様で御座います。
上社は 諏訪市中州の本宮、茅野市宮川の前宮、下社は 諏訪郡下諏訪に春宮秋宮が それぞれ鎮座されており、4社を合わせて“諏訪大社”と総称されております。
全国に1万有余社存在する諏訪神社の総本社で御座いますね。

信濃國といえば、木曾義仲様との御縁の深い土地。
平安末期から鎌倉期にかけて、この辺りは平家方よりも源氏方との繋がりの方が強かったようにも思います。

諏訪の御社は、歴代朝廷をはじめ、各時代の武将方から関東第一、日本一の軍神と讃え崇められた大社。
本日は、上社の本宮について記したいと思います。

諏訪大社上社本宮02

駐車場寄りの鳥居を入った場所には手水社があり、その傍には往古より諏訪明神様御愛用の温泉と伝わる明神湯が流れ落ちておりました。
温泉〜!と思って、軽々しく手を伸ばしましたら、なんと熱湯で……う、迂闊な真似を致しました///

駐車場付近には御土産屋さんが立ち並び、想像以上に賑やかな印象を受けましたが、境内に足を踏み入れると、とても不思議な雰囲気を醸し出している場所である事に驚きました。
何が如何不思議だと言葉にするのは難しいのですが……何というか、この感覚は初めてなのに そこに全く違和感が感じられ無い事が非常に不思議、という感じで御座いました…意味不明で御座いますね、申し訳御座いません;;

諏訪大社上社本宮03

本宮の御参道は、東西と北に それぞれ御座いますが、どの御参道から境内に入っても、先ずは東の御参道入口より布橋を渡り、入口門を潜って拝殿へと向かう事となります。

諏訪大社上社本宮04

東側の境内入口より入って直ぐの場所にある御門は、文政12(1829)年の建立。
その先に約70メートル程続く、布橋と呼ばれる長廊は、とても神秘的な通路で御座いました。
明治維新以前まで、上社の大祝の際のみ、布を敷いて通っていたという故事から その御名が付けられたようで、現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の御婦人方が織り上げられた布を敷き、神様の通り道を示されるという事で御座います。

神体山側には、布橋に平行するように絵馬堂、摂末社遥拝所、大国主社が建立されており、こちらも文政年間(1818〜1829)の建立で御座います。
上社に特に縁深い摂社、御末社の神号殿で、上、中、下のそれぞれ13所…合計39所の御社名を掲げておられる為、十三所遥拝所とも呼ばれていたそうで御座います。
大国主社の御祭神は、大国主命――御諏訪様の御父神様として御祀りされております。

更に布橋を進みますと、大国主社の右隣には、御宝殿が東西に分かれて並んでおります。
向かって左側が東御宝殿、右側が西御宝殿と呼ばれ、寅年と申年毎に交互に立て替えが行われるのだそうで御座います。
こちらに収められているのは、御諏訪様の御神輿。
一般的な神社でいう御本殿と同義といわれる程に重要な御社殿で、本宮では1番大切な御殿とされております。
こちらの御本殿の屋根からは、どんな干天の時にも、最低3滴の水滴が落ちるといわれ、“御宝殿の天水”として“諏訪大社七不思議”の1つにも数えられているのだそうで御座います。
これが、御諏訪様が水神様として崇められる理由の根源といわれております。

諏訪大社上社本宮05

□ 諏訪大社 上社 本宮(すわたいしゃ かみしゃ ほんみや)

所在地:長野県諏訪市中洲宮山
御創建:不詳
御祭神:建御名方神
旧 称:諏訪神社
通 称:御諏訪様、諏訪大明神、南宮


御神体は、南側に聳える守屋山。
然し、拝殿は東側の神居に向かって建立されており、そちらを遥拝するようになっております。
社殿四隅には御柱と呼ばれる大木が建てられ、諏訪造の幣拝殿や左右片拝殿が横に並ばれております。
ちなみに、御本殿は存在致しません。
こういう形態は、他の神社には見られない特徴的なもので御座いますね。
御神体本が横を向いている為、こちらで何か祈願事をされる場合は、大きな願い事でなければ聞き届けて下さらないともいわれているそうで御座います。

御創建年代は不詳で御座いますが、少なくとも1500〜2000年以上前から御祀りされていた御社という事で、国内でも最古の神社に分類されております。

古くより朝廷に崇敬され、平安期以降は軍神、武門の守護神として崇められるようになったようで御座います。
後白河院の梁塵秘抄にも、“関より東の軍神、鹿島 香取 諏訪の宮、又比良の明神、安房の洲滝の口や 小鷹熱田に八剣伊勢には多度の宮”と謡われておりますね。
平安期より江戸期まで上社の大祝を務められたのは、諏訪氏で御座いました。

鎌倉期には、頼朝様、北条氏による社領の寄進や御宝物の奉納等が行われております。
鎌倉幕府は、上下両社の御射山社祭に全国の武将を集めて武芸を競わせました。
参加した武将方は、諏訪大神の御分霊を受けて任地へと赴き、御分社を奉斎されたという事で…全国の諏訪神社の中には、この際に創建された御社も多くあるのでは無いかと思われます。

以後も武門武将方の篤い信仰を受けられておりますが、天正10(1582)年に織田信長様による兵火で、山中に避難されていた御神輿以外の全てが焼失。
その後の再建で、元和3(1617)年に御社殿が完成されました。
更に、約200年を経て諏訪藩主による社殿の改築が計画され、8年の歳月をかけて天保9(1813)年に現在の御社殿が落成されたという事で御座います。

昭和23(1948)年、諏訪神社から諏訪大社と社号が改められ、現在に至っているようで御座います。
上社の本宮幣殿、本宮拝殿、本宮左右片拝殿、本宮脇片拝殿、本宮四脚門の6棟は、重要文化財の指定を受けておられます。

   御神徳

 当大社は古来より朝廷の御崇敬がきわめて厚く、持統天皇五年(六九一年)には勅使をつかわされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願なされたのをはじめ、歴代の朝廷の御崇敬を拝戴してきました。
 又、諏訪大神は武勇の神・武門武将の守護神として信仰され、古くは神功皇后の三韓出兵の折に御神威あり、平安時代には関東第一大軍神として広く世に知られました。
鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他諸国の大名たちが社領の寄進・神宝の奉納をして武運の長久と国家の安泰を祈願しております。
 広くは雨・風の守り神、水の守護神で五穀の豊穣を祈りました。
又、生命の根源・生活の源を守る神であり、家内安全・健康長寿・交通安全・商工業の繁栄・開運招福など、御神徳は宏大無辺でございます。



   御鎮座及御神徳

 御鎮座の年代について詳しく知ることはできませんが、『古事記』その他の書物から推定して少なくとも千五、六百年から二千年前と言われており、我国で最古の神社の一つに数えることが出来ます。
北は北海道から南は吸収鹿児島県に至る全国に勧請された御分社の数は壱万有余にも達し、その総本社であり、昔から諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、又はお諏訪さまと親しまれ、雨や風、水の守り神として竜神の信仰も古く、国土開発、農耕生産、開運招福、交通安全の守護神として篤く崇敬され、特に歴代の朝廷をはじめ武門武将からは勝負の神、軍さ神として崇められ日本第一大軍神、又は東関第一の軍さ神と称えられて来ております。
 その二、三の例を見ますと、神功皇后三韓出兵の折、諏訪大神の神助ありと伝え、平安初期桓武天皇の勅命を受けた征夷大将軍坂上田村麿呂が、途路諏訪大明神の大前に、戦勝の祈願をなされ、やがて平定の後、神恩感謝のため諏訪郡の田畑山野各千町歩と毎年の作稲八万四千束の奉納があります。
 鎌倉時代には源頼朝が源氏再興の守護神として篤く崇敬して社領を寄進し、また大社の重要な祭典である御射山御狩神事(現在八月二十六、二十七、二十八の三日間御射山社祭)には年々諸国の武将を率いて参列し、霧ケ峰高原一帯に於いて武芸を競わせております。
隣国甲斐(山梨県)の武将武田信玄は特にお諏訪さまを信仰し、武田家の護り神と崇め、社殿の造営や社領等を寄進し、廃絶していた祭祀をも再興させ、或いは各地への戦いにはその都度参詣して武運長久の祈願を込め、諏訪南宮法性大明神の旗印を先頭に出陣しておりますし、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四季で有名な諏訪法性の兜を奉納しております。
徳川幕府の信仰も厚く、初代家康は上社本宮に神門を寄進、三代家光以下歴代の将軍は上社に千石、下社に五百石、都合千五百石の社領を進し、崇敬の誠を捧げています。
 日本書紀持統天皇五年(六九一年)を初見として、以後種々の書物に諏訪大神の名を留めており、朝廷武門を始め一般の人々の信仰も広く、日本の屋根信州諏訪の地へとの参詣も日と共に繁く、諏訪大神の御神徳の厚きことが伺われます。



諏訪大社上社本宮06

諏訪大社といえば“おんばらしら”、式年造営御柱大祭が特に有名で御座いますね!
寅年と申年の7年目毎に行われる特殊神事で、その起源は遥か古代まで遡るようで御座います。

御柱祭は2つに大別されており、御社殿を造り替える事と、奥山から伐り出す大木を御社殿の4隅に建てる事から成っております。
1本は、長さ16.5メートル、幹周りは3メートル余、重さは12〜13トンに及ぶといいます。
1本の御柱を1000〜3000人程の方々が人力のみで曳行される為、身分を問わず、様々な方が参加される御祭として行われてこられました。
かなり過酷な行事で御座いますが、諏訪の方々が仰るには“この最中に死ねるのなら本望だ!”という事で…命と情熱をかけて執り行われる一大行事なのだそうで御座います。
諏訪の方々は、6年間稼がれた御金を、この大祭に際しての接待等で全て使い果たしてしまわれるそうで御座います。

御柱について、その御由来には諸説あるようで御座いますが、一般的には御本殿の代わりで、神様が宿られる御柱であるといわれております。

諏訪大社上社本宮07

こちらは、上社の御神紋“梶の葉”の御紋と、その元となった梶の木で御座います。
諏訪大社では、4社それぞれに御神紋の木として、境内に梶が植えられておりました。

上下社共に、御神紋は梶の葉で御座いますが、良く見比べると微妙に違う紋様になっておりまして…足の数が、上社は4本、下杜は5本として区別されているようで御座います。

諏訪大社上社本宮08

境内には、美しい神楽殿や、とても立派な土俵も御座いました。
土俵のある神社は屡々目に致しますが、こんなに見事な土俵は初めて拝見致しました。

   神楽殿

文政十年(一八二八)の建立で祈願者の神楽奉納の御殿である
四方吹通しの入母屋造りで諏訪市の指定文化財の建造物です
大太鼓は神楽殿建立と同時に奉納され胴は樽と同様に合わせ木作りで龍神が画かれている
皮は一枚皮が使われ一枚皮では(牛と伝う)日本一と云われる
この大太鼓は元旦の朝のみ打たれる



諏訪大社上社本宮09

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