
和歌山県新宮市新宮。
JR新宮駅近くには、2300年の歴史を今に伝える徐福公園が御座います。
新宮といえば、速玉大社という印象の強かった私は、御恥ずかしながら当初 徐福公園の事を存じておらず…はじめて新宮を訪れた時に、何だか沖縄っぽい…と申しますか中華な雰囲気を醸し出す この楼門を目にして、ここは一体 何の施設なのだろうかと疑問に感じてしまいました;///
以前、同じく新宮市内の阿須賀神社について記した際、阿須賀の地には古代、中国より徐福様という方士様が上陸されたという伝説があり、“徐福宮”と名付けられた境内社が御祀りされている事、境内に石碑や説明書等が設置されている事に、少しですが触れておりました。
この徐福公園は、その徐福様の御墓を中心に整備され、公開されている公園で御座います。
ちなみに…こちらの鮮やかな楼門は、中国様式を参考に建築されたものだそうで御座います。
瓦は台湾製のものを使用されているとの事で、日本とは違った独特の文化を感じさせられますね。

今から約2300年前、中国 秦の始皇帝の命を受け、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて渡来され、この新宮に辿り着かれたという徐福様。
数人の重臣と、3千人もの童男童女等を御供に上陸の後、この地に自生する薬木“天台烏薬”を発見されたといいますが、一行は それを持って秦国へと帰る事無く、永住なさったと伝えられております。
熊野に留まられる事を決断された方々は、土地を拓いて農耕をし、また漁法、捕鯨、製紙技術等を土地の人々に伝授されたといわれます。
日本には徐福様の渡来伝承が各地に伝えられているようで御座いますが、こちらの伝承は鎌倉期の文献等にも伺えるそうで、その史跡と共に古くから語り継がれてきている有力伝承地という事で御座います。
現在、財団法人新宮徐福協会によって管理、運営されている 徐福公園は、平成6年8月に完成、公開されたものだそうで御座います。
何と無く首里城的な印象を抱いておりましたので、もう少し遡るのかと思っておりましたが、意外と新しい公園なので御座いますね!
園内には、御土産屋さん等もあり、観光地を兼ねた公園墓地になっておりました。
御墓の手前には、不老の池と名付けられた御池があり、7つの石柱が立てられておりました。
この石柱には、徐福様に従われた7名の重臣が有していたとされる7つの徳“和”“仁”“慈”“勇”“財”“調”“壮”が、それぞれ1文字ずつ刻まれています。
池に泳ぐ鯉の数も、7匹という事で…公園整備の拘りと共に、7名の重臣の御ひと方御ひと方に対する尊敬の念が良く伝わって参りますね。
池の傍には、不老長寿の木といわれる天台烏薬が植えられており、その根元から滴る生命の清水が注ぐ故に“不老”の御池なのだそうで御座います。
不老の池
七重臣と三千人の童男童女を従え、渡来した徐福は、この地で不老長寿の霊薬「天台鳥薬」を発見しました。
七人の重臣は、徐福とともにこの地を柘いた祖として敬われ、その品性、人格は道徳的価値から今なお語り継がれています。
不老の池は文字どおり「不老長寿」を得る泉であります。
池の傍らには七本の天台鳥薬が植えられ、その根本から生命の水がしたたり落ちています。
生命の水を受け、ゆっくりと泳ぐ七匹の鯉は、優雅さと生命の力強さを象徴しています。
そばに立つ徐福(像)とともに、今もなお心に生き統ける七人の重臣と言えましょう。
また、七重臣の塚を結べば北斗七星を猫いたことから、石橋を北斗七星の形に渡し、石柱には七重臣が有していた品性、人格の徳を刻んでいます。
石橋をゆっくりと渡り、七本の石柱に触れてみて下さい、きっとあなたにその徳が授かることでしょう。

こちらは、徐福公園の完成を記念して、平成6年に 徐福様の故郷といわれる中国 山東省龍口市より寄贈された大きな石碑。
縦幅1.6メートル、横幅3.2メートルで、大理石に日本語の説明文と徐福様御一行の渡来上陸の絵図が刻まれておりました。
この絵は江戸時代末期、西国三十三ヶ所名所図会の新宮湊項に、描かれた挿絵なのだそうで御座います。
とても豪華で御立派な渡来船…当時の日本は、未だ未だ文明の発達していない時代で御座いましたので、この地の方々は さぞや仰天された事で御座いましょう。
「徐福さん」と呼ばれて今も親しまれている除福は、泰代の著名な方士で、中国・斉郡の除郷県(現・山東省龍口市)で生まれました。
幼少の頃から苦学し、学問に努め、その誠実な人柄は村人を窮状から救うなどして民衆からの情望は厚いものがありました。
当時、中国を統一した秦の始皇帝は、中央集権支配を強化するため幾度か全土を巡幸し、功績や徳行を顕彰する碑を各地に建てたり、萬里の長城を築くなどして、天下に武力を誇示し威厳を見せつけていました。
中国の歴史書『史記』によれば、巡幸に出た始皇帝は「不老長寿」の仙薬を探し出そうと躍起になり、困った策士たちは方々を尋ねたあげく、今の龍口市内におうて、方士で名医の除福に出会ったとされています。
始皇帝から命を受けた徐福は、巨大な二層式の船を仕立て、東方海上の三神山(蓬莱、方丈、遠州)にあるという不老長寿の仙薬を求め、三千人の童男童女を引き連れて船出したのです。
萬里の波湊を越え、絶海を渡り、蓬莱の國といわれる熊野にたどりついた一行は、この地に自生する「天台烏薬」という霊薬を発見しましたが、気候温暖 風光明媚、さらにはこの土地の温かい人々の友情に触れ、ついにこの地を永住の地とし、土地を拓き、農耕、捕鯨、紙すきなど当時の高度な中国文化をこの地に伝え、全国に広めたといわれています。
日本国内には徐福ゆかりの地がいくつかあり、それぞれ古くから地域伝承を育み、様々な文化が形成されています。
特に熊野地方には、徐福渡来の地として数々の伝承資料が残されており、遅くとも鎌倉時代の文献に見ることができます。
また、阿須賀神社の蓬莱山の麓には「徐福の宮」があり、古くから徐福の功績をたたえ、尊信を受け継いできました。
除福が南国の永い歴史的交流の象徴として、さらには中日友好の掛け橋として大きな反響を呼び起こしています。
本公園内の「秦徐福之墓」の墓碑は、江戸時代初期に紀州藩祖徳川頼宣公が儒臣の李海渓に筆を執らせ、建立を企図したものと伝えられており、傍らには徐福に随行した七人の重臣の「七塚の碑」も祀られています。
墓碑が建てられて以来、今日まで墓前には香花が絶えることなく、人々はこの遺徳を偲んでいます。
一九九四年(平成六年)八月十二日 除福故里 中国山東省龍口市 寄贈
この他、園内には日本語だけで無く、中国語(多分…)等の言語でも要所毎の説明板が設置されておりました。

こちらが、公園中心部に御座います 徐福様の御墓…そして顕彰碑で御座います。
墓碑は元文元(1736)年の建立で、高さは1.4メートル、幅0.5メートルの緑色片岩。
墓碑に刻まれた文字は、紀州藩祖 徳川頼宜様の命によって儒臣 李梅溪様が書されたもので御座います。
若干、時代の経過を感じさせる墓碑では御座いますが、とても丁寧に御手入れがされており、大切に護られている事が良く分かります。
手向けられた花も、綺麗で…徐福様の事を、私も もっと勉強しなくちゃなと思いました。
新宮市指定文化財 徐福之墓
指定年月日 昭和42年(1967)1月17日 高さ 1.4m
紀ノ川流域で産出する緑色片岩の自然石に「秦徐福之墓」と刻まれている。
この墓碑は、初代紀州藩主徳川頼宣が建立を企て、儒臣李梅渓に書かせたもの、との伝えがある。
『熊野年譜』には「元文元年(1736)楠藪へ秦徐福の石塔立」とあり、約100年の後に建立が実現した。
かたわらの「除福顕彰碑」は、天保5年(1834)藩の儒臣仁井田好古の撰・書により建立されるものであったが、和歌山より運搬の途中海難にあい実現しなかった。
現在の碑は、残されていた書によって昭和15年(1940)に立てられたものである。
平成14年(2002)4月 新宮市教育委員会 / 新宮市商工観光課
秦の徐福の碑 意訳
後の人が昔のことを思い見るのは、丁度月夜に遠方を望みみるようなものである。
そこに何かがあることはわかっていても、その形がはっきりしない。
形がはっきりしなくてもそこに何かがあることは事実である。
徐福が熊野に来たということも、それと同じで、詳細はわからないが、来たことは確かである。
中国の秦の歴史にこう書いてある。
「斉の国の人、徐市らが秦の始皇帝に「海の向うに蓬莱、方文、えい洲という仙人の住む三つの島があります。そこに行って、不老不死の薬を探し求めて参りましょうか。」と申し上げたところ、皇帝は喜んで徐市に船を与え、子供を大勢つれさせその仙薬を探しに行かせたというのである。
この徐市とは徐福のことである。
その他の多くの中国の史書にも大体同じようなことが書かれている。
仙人の島であるという中国東方の海上といえば、日本以外にはない。
日本でも古来、蓬莱といっている所は、富士山、熊野、熱田などがある。
地形から考えると熊野は日本本州の南端で太平洋に突き出ている。
風と海流によって中国の船が熊野浦によく漂着することから思うと、蓬莱とは熊野に違いない。
熊野の新宮の地には徐福の祠、徐福の墓、その墓の側に七塚がある。
七塚は徐福の一番信頼していた家来の墓だという。
或いは徐福がその故国から持って来た物を埋めているのだともいう。
昔、ある人が七塚を掘り返したところ、日本のものではないような数個の器物が出てきたので珍しがってそれを自分のものにした。
するとその家族が急に気が変になったので恐ろしくなり、その器物を皆もとのところに埋めたということである。
日本の書物を調べてみると 長寛助文には「大昔 大台山から来朝した王子信の旧蹟がある」と記し、また「漢の将軍の嫡子直俊が熊野権現の榎の下に移し迎えた」とも記し、また、「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ、やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本国へ帰ったが、四人は留まって神につかえ、魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とも書いてある。
これらの話はそれぞれ違っているが、外国人が来朝したという点だけは一致している。
思うに除福が秦の国を去ったのは わが国の第七代孝霊天皇の時に当る。
中国 日本両国の史伝ではその渡来の年代や人数に多少のくいちがいがあるが、大昔のことはすべてぼうとしていて誰にもその詳しいことはわからない。
月夜に遠方を望むことはこのことだ。
当時、日本にはまだ文字がなかった。
漢字が伝わり、文字がかけるようになったころには、古代のことははっきりわからなくなっていた。
書物によって名前が合わなくてもそれらは、皆徐福をさしているのである。
徐福の子孫は平和を愛した祖先の理想に生き、神につかえて繁栄した。
二千百余年後の今日まで世は移り変ったが、墓を守り祖先を祭りつづけて来たのは、まこに立派である。
ああ、徐福は秦の国政が乱れ、人民がしいたげられた時、その魔手を逃れるため道教を研究し仙術を修行する方士となり、それでも身辺の危険を感ずると「東海に仙人の住む三つの島がある」と進言し、平和な楽しい国に行こうと謀った。
彼は早くから東方君子国の存在を知っていたのである。
孔子は「道理の行われない嫌な世には筏に乗って海外に行こう」と言ったが、徐福は孔子の気持ちを実効したのである。
中国の戦国時代に魯中連という人は「秦がもし天下の政権を握るようなことがあったらすぐ私は東海に身をなげて死ぬ。私はどうしても秦の民となることはできぬ。」とはげしい口調で言った。
他人は魯中連の精神に感動し、その言葉を小気味よいと思った。
しかし、彼はただこう言っただけで実行しなかった。
この魯中連を、秦から遠く清らかな世界に逃去ることを実行した徐福に比べると月とすっぽんほど違う。
秦朝幾億万の人間の中に一人として徐福以上の高潔な精神をもち偉大な実行をした人はない。
後世の愚かな歴史家達はこの点を理解できず、徐福を単なるほらふきの方士に過ぎぬと悪口をいうのは残念である。
江戸時代、桜町天皇の元文元年(一七三六)、新宮城主水野忠昭が墓を立てさせたが、表彰する碑文がなかった。
それから百年後の今年、仁孝天皇の天保五年私が藩命を受けて熊野を巡り徐福の故事をさぐった。
はっきり残っているこの遺蹟を世に広く知らさねばならぬと思ってこの碑文を作ったしだいである。
ああ、広い世界に多くの国々が対立している。
幾千年の後にまた蓬莱の島をたずねてくる人があったら、ここに来て、この碑文を読んでください。
秦の王様、乱暴で人民どもを苦しめる。
蝉や小鳥は飛んで逃げ哲人徐福は船出する。
楽しい国よこの熊野、ここが本当の蓬莱だ。
人の情も温かく子孫代々栄え行く
徐福の墓はいつきても花や線香が絶えやせぬ。
遠い異国の人も来て見よ、美しい山や河
泰徐福の墓
阿須賀ノ森西三町許字楠藪にあり。
泰徐福之墓と刻せる一基の碑老朽せる二樟樹の下に立つ。
徳川頼宣卿の建つる所にして、朝鮮より帰化せる李梅渓の筆なり。
應制賦三山 僧絶海
熊野峰前除福祠 満山薬草雨余肥
只今海上波涛穏 萬里好風須早帰
明太祖御製賜和
熊野峰前血食祠 松根琥珀也應肥
當年徐福求仙薬 直到如今更不帰
(熊野史による)

徐福様墓碑の右隣には、七塚の碑という御墓が御座いました。
こちらは、徐福様の7名の重臣の方々を御祀りされたもの。
現在は、大正4年に建立された緑色片岩の自然石による墓碑で御座いますが、元々は その重臣方を御祀りされる7つの小円墳で、徐福様の御墓を中心に北斗七星の形となるように作られていたという事で御座います。
“7”という数字は、国内外を通して特別な意味が込められる事が多いだけに(…オカルト的にも/笑)、ちょっと気になってしまいますね。
恐らくは、2300年前では無く もっと後の時代に北斗七星に対する信仰と合わさって形成されたものだったのでは無いかと思われますが、興味深いところで御座います。

こちらが、不老長寿の霊木 天台烏薬。
天台烏薬と書いて、“てんだいうやく”と読みます。
楠科の常緑低木で、新宮市では梛、熊野杉と共に、市の木として大切に護り伝えられているようで御座います。
昨日の記事に載せました新宮の御菓子“熊野別当”にも、この天台烏薬が使用されておりました。
御味の方で御座いますが……天台烏薬そのもの の御味というのは良く分からない為、入っていると言われなければ判らない…というよりも、入っていると言われても判らないなぁという感じで御座いました。
御菓子屋さんの御話によりますと、未だ科学的には その効能等は実証されていないそうでは御座いますが、古くから万病に効く御薬として新宮に言い伝えられているので、新宮ならでは の御菓子として材料に織り交ぜられているという事で御座います。
他にも、新宮の御菓子には天台烏薬を使用して作られているものが幾つかあり、色々と食べてみたいな〜と思っております。
天台烏薬
この天台烏薬は、今からおよそ2300年前に秦(中国)の始皇帝の命により、熊野新宮に渡来した徐福が探し求めた「不老長寿」まぼろしの霊薬だといわれており、腎臓病・リウマチス・健胃にも特効を有します。
徐福はこの地で土地を拓き、耕作や捕鯨の術を教え、この地方の先覚者として古くからその徳を賛え敬われています。
〔常緑の低木(クスノキ科)で雌雄異株。
葉は広い楕円形をなし、三本の脈を持ち、秋葉のわきに小さな花のつぼみをつけ四月頃開花を迎えます。
根を春か冬に採取し干して薬用に供されています。〕



永遠に生きてみるのも楽しいかもしれないですけど、限りない時間だからこそ美しいと思うこともだるんですけどね(・ー・)
ところでクラさんの入院とは、クラさんご病気か何か?(;゜ ゜)
いつも元気な笑顔のクラさんだけに心配です。
人魚の肉の御話等の所為か、私は あんまり魅力的には思えないのですけれど、1日が24時間じゃ足りない!とか、歳はとりたく無い〜とか思ってしまう気持ちの積み重ねが、積もり積もると 不老長寿への憧れになるのかもしれませんね〜。
クラさんは 年齢が年齢な上に、私が旅に出る度に引っ張り回してしまうので、至る所に微妙な怪我をされておりまして…;
おまけに、私が ろくなものを食べさせてあげられなかったばかりに、随分と御痩せになってしまったので(涙)、手術を受けて栄養を付けてもらう為に入院を考えているので御座いますー。。
本当は来週、連れて行く予定だったのですけれど、クラさんと夏に帰省するのが毎年の恒例になっておりましたので、入院は秋に延期したのです。
心配して下さって、有難う御座います;;
家では、いつもゴロゴロと布団の上に寝そべっておられるので、たぶん結構元気です(笑)
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