
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字西中野川周辺――…。
色川郷に伝わる維盛様伝承を調べに行った帰り道、那智山方面へ戻る筈が、うっかり道を間違えて勝浦〜太地町方面へと下る道路を延々走る事になってしまったので御座いますが、目敏い私は その途中でこのように記されている案内板を見逃しませんでした(笑)
此処小色川は
平光盛の隠れ里です
この近くには隠れ家のあった上屋敷と
丸山の上には墓があります。
光盛は 色川に隠れ住んだ平維盛と古座の
高川原家の娘との間に出来た子です。(1190年頃出生)
又、丸山家には皇族に関係した
ミサオ姫の墓があります
丸山家の先祖という事です。
西中ノ川区有志
色川出張所で御世話になりました浦さんが、
「この直ぐ下の集落には、平光盛という人の伝説があるんですよ」
と仰っておられましたが、その時 私は光盛様って誰だっけ…?等という感じで御座いまして(苦笑)
そういえば吾妻鏡には金刺光盛様が平家方であられたと記されているけれど恐らくは関係無いと思われるし、でも御一門に光盛様を名乗られる御方がいらっしゃったかしら??と本気でぼんやりしていたので御座いますが…うわぁん、ちょっと!しっかり、私っ!!!
都落ちには同行されておられませんが、平光盛様といえばいえば、清盛様の異母弟 池殿こと、頼盛様の御子息の御名前では御座いませんかー!…あわわ(涙)
そうでした…平家の御方では御座いますが、鎌倉で源頼朝様の庇護を受け、承久元(1219)年には実朝様暗殺現場に居合わせられた御方で御座いました。。
………え…でも……あれ?
御一門の方々のように源氏の目を逃れる必要の無い光盛様の御墓が、何故 熊野の山中の郷に……?
先ず、浮かんだのは この疑問で御座いました。
色川地区南平野の桧曽原の地に維盛様の供養塔を訪ねた際、その地で2基の五輪塔を護られておられるのが頼盛様の御子孫とされる潮崎さんの御家である事に驚きましたが、もしかして そちらとも何か御関係が――…!??
正直、こちらに関しての予備知識が全く無かった為、また後日に改めるべきかと一瞬悩んだので御座いますが、ここを通り掛かる事が出来たのも、何かの御縁。
奥の方から、光盛様らしき御方も まぁちょっと寄って行けと仰って下さっていたので(笑)、ここはひとつ都合良くデスティニィを感じさせていただく事と致しまして、車を停められそうな場所を探しました。

案内板のある場所から道なりに車道を少し下りますと、“平光盛の墓”“ミサオ姫の墓”と記された道標が!
どうしよう、ここに駐車出来ないかなぁ
と焦って前方を見回しましたら、意外にも直ぐ傍に駐車場が………。若干、テンションの上がっていた私は、
「有難う、運命!」
と意味不明な独り言を発しつつ、道標に沿って進んで行きました。

田畑と民家の敷地の間にある細道を通り、突然 現れた小山に登ります。
木や石等が置かれ、一応は登りやすく段上になっているような感じなので道無き道という程でも無いので御座いますが、身長156cmの私の胸の高さに次の段があったりするので、よじ登りながら進みました。

御墓は、集落の田圃の中央に盛り上がった小高い丘の上に御座いました。
登り切った手前の場所にミサオ姫様、そして その奥に 光盛様の御墓が御座いました。
五輪塔のような供養塔を想像していた私は、無造作に集め積まれた状態の御墓に少しだけ驚いてしまいましたが、ここに寄せられた石に込められた想いの色々が、とても尊いものに感じられました。
その後、両墓に手を合わせ この場所を後に致しましたが、こちらを訪れる事が出来て本当に良かったと思います。
そして、後日。
東京に戻り、この小色川の光盛様について調べようと頑張ったので御座いますが……何の情報も得られず;;
しかも、道を間違えて通った場所であった所為で、正確な地名が分からずに随分と苦戦致しました(苦笑)
案内板にあった“小色川”というのは、現在は殆ど使われない地名のようで、那智勝浦町の役場や、この辺りも管轄内と思われる太田出張所に御電話で伺ってみたのですが、どなたも全く御存知無いという事で御座いました…。
然し、然程古く無い案内板が立てられていたという事は、必ず その御近所の方々等は御存知の筈!と思って、粘り強く 色々な場所に問い合わせをさせていただきました。
教育の現場なら何か御存知かと思い、小学校に御電話をさせていただいたところ、矢張り分からないという事だったのですけれど、もしかしたらと再度御電話をいただきまして“小色川橋”が架かる西中ノ川地区の区長さんの御宅を御紹介いただきました。
区長さんの御宅に御質問させていただいたところ、確かに この地に御墓が御座いますとの事。
詳しい謂れや伝承等について伺いたいと思ったので御座いますが、残念ながら この土地の方々でも、詳しい事は御存知無いのだそうで……。
これ以上は、もう無理なのかなぁと諦めかけた時、
「うちでは分かりませんが、ここを調べて下さった先生は新宮にいらっしゃいますよ」
と、御連絡先を教えていただく事が出来まして…!
御連絡先を伺って驚いたのが、桧曽原で見せていただいた資料で維盛様の伝承について詳しく調べられておられた御方が その先生であった事で御座いました。
早速、連絡をとらせていただきまして、私が色川の維盛様について調べて来た事や小色川について知りたいと思っている事を御伝え致しましたら、快く豊富な資料を御送付下さいました。
御陰様で、とても深いところまで勉強する事が出来まして…本当に、有難う御座います。
いただいた資料によりますと、現在は小山の頂上に御墓のみが存在しておりますが、元々は御墓の両脇に大きな杉の木が立っており、御墓の在処を示しておられたのだそうで御座います。
こちらの御墓については、幾人かの証言があったようで、
“幕末の頃、平光盛がこの地に来て住居する。ある時、□の川を渡る際 藤原家に討たれて死ぬ。その後、ミサオ姫と共にこのところに祀る……”等と記された木札が下里の御宅に保存されているという事も記されておりました(※幕末というのは間違いで、鎌倉時代であるという事で御座います)
えぇと…ここで初めて分かった事なので御座いますが、ここでの“平光盛”様というのは、頼盛様の御子息の“光盛”様では無く、熊野で落ち延びられた維盛様の御子息と伝わる“光盛”様のようで御座います。
間際らしい書き方をして申し訳御座いません…;;
また、ミサオ姫様と光盛様には、全く何の繋がりも無いものと思われます。
恐らくは、この地に祀られる貴人として別々に崇められていたのでは無いかと思うのですが、いつの頃か 同じ場所に並べて御祀りして大切に護られて来られたのでは無いでしょうか。

ミサオ姫様についてで御座いますが、皇族の御姫様であるという事が伝えられております。
直ぐ傍に御座います丸山家はミサオ姫様の御子孫といわれ、慶長6(1601)年に熊野川町方面より移り住まれたという事で御座います。
ミサオ姫様は“ミサ姫”とも呼ばれており、奈良の天皇の子孫と伝わります。
奈良の天皇がどなたを指されるのかは定かでは御座いませんが、奈良の吉野に御住まいになられた後醍醐天皇→後村上天皇→後亀山天皇の事では無いかという事で御座います。
奈良に縁のある皇族の御方で、この辺りに落ちられた御方は、後亀山天皇の曾孫様である 融仁王様。
ミサオ姫様は、融仁王様と その御父様である泰仁王様と繋がりの深い御姫様であられたのかもしれません。
ミサオ姫様は、腰から下の病を治して下さると言い伝えられているそうで御座いますが…何だか 広島県庄原市の玉織姫様伝承と良く似たものを感じますね。

そして、光盛様。
□ 平 光盛(たいらのみつもり) □ ※平頼盛の子とは別人
生 年:建久元(1190)年頃?
没 年:不詳
父 :平維盛
母 :高川原家女
妻 :不詳
子 :行盛
光盛様は、色川潜伏中の維盛様が、中ノ川の小松庄右衛門様の案内で重景様、石童丸様と古座の高川原家に鮎釣りを兼ねて遊びに行かれた際に、高川原家の娘と一夜を共にされ、授かった御子様であると伝えられます。
小色川には“上屋敷”と呼ばれる場所が御座います。
光盛様は、この上屋敷に住まわれておられたのでは無いかという事で御座います。
いつ頃の事かは分かりませんが、光盛様は川を渡ろうとしている時に藤原氏によって討たれてしまわれたとの事…。
光盛様以降、高川原家は暫く小松姓を名乗られたようで御座います。
光盛様より続く御子孫は、後に浅野家に仕え、今も広島に存続されているという事で御座います。
広島……案外、身近なところで出逢っているのかもしれませんね(笑)

この度、小色川の光盛様、ミサオ姫に関する情報を下さいましたのは、坂本顕一郎先生で御座います。
その他にも、色川に関する資料や、熊野地方に伝わる落人伝承についての情報を多くいただく事が出来まして、本当に心より感謝の気持ちで一杯で御座います。
先日、坂本先生が維盛様伝承について纏められた御本『どっこい維盛生きていた』が文芸社さんより発売されました。
帰省から戻って来まして、私も予約していた書店さんに受け取りに行って来たばかりで未だ完読は出来ておりませんが、とても興味深く拝読させていただいております。
オンラインでも入手可能のようで御座いますので、御興味を持たれた方は是非〜。
(※セブンアンドワイは、こちらから / 楽天ブックスは、こちらから / アマゾンは、こちらから)


Comment
色川から太田川沿いに道を下った所のような…。以前コメントした私の友人宅付近のような気がします。
“平光盛の墓”“ミサオ姫の墓”と記された道標の横に写っている檻が気になります。今はどうやら何もいないようですが。
道路がぐる〜っと曲がっているその内側に田んぼがありその中央付近にある小高い場所のふもとにある檻ならば,私が高校生時代に自転車で行った場所です。昔見たイノシシの檻じゃないかな〜?
“平光盛の墓”“ミサオ姫の墓”と記された道標の横に写っている檻が気になります。今はどうやら何もいないようですが。
道路がぐる〜っと曲がっているその内側に田んぼがありその中央付近にある小高い場所のふもとにある檻ならば,私が高校生時代に自転車で行った場所です。昔見たイノシシの檻じゃないかな〜?
df504 | URL | 2008/08/19/Tue 21:12[EDIT]
あ、そうです!多分、その場所です。
色川から、太田川に沿って只管下っていると、トンネルを抜けて橋を渡った辺り…だったかな、という感じの場所でした。
道路が曲がっていて、内側に田圃や数軒の民家があって…!
わ〜、ここに例のイノシシが…(笑)
私が通った時は、中身は空っぽだったのですが、最初は犬か鶏か何か居るのかなぁと思って覗き込んでしまいました///
それにしても…。
ここから下の道路に出るまでに40〜50分近く車を走らせたのですが、ここを自転車でと思うと、気が遠くなっちゃいますー;;凄過ぎる…やってみたいような、真似したくないような…?(苦笑)
通われていた御友人は、本当に凄いです
色川から、太田川に沿って只管下っていると、トンネルを抜けて橋を渡った辺り…だったかな、という感じの場所でした。
道路が曲がっていて、内側に田圃や数軒の民家があって…!
わ〜、ここに例のイノシシが…(笑)
私が通った時は、中身は空っぽだったのですが、最初は犬か鶏か何か居るのかなぁと思って覗き込んでしまいました///
それにしても…。
ここから下の道路に出るまでに40〜50分近く車を走らせたのですが、ここを自転車でと思うと、気が遠くなっちゃいますー;;凄過ぎる…やってみたいような、真似したくないような…?(苦笑)
通われていた御友人は、本当に凄いです

まさに,マウス描きの白矢印の通りに歩いたと記憶しています。そしたら,草むらから体長2cm位の小さい緑色のアマガエルが,ぴょんと檻の中に飛び込んだのです。
そしてイノシシがおもむろにカエルと泥を一緒にすくって食べたのです!いまだにはっきり覚えているので,相当ショッキングな出来事だったようです。
ちなみに,高校時代,自転車で新宮→本宮,中辺路,近露,田辺,大辺路,串本→新宮と12時間ぐらいで一周したこともありますよ〜。
そしてイノシシがおもむろにカエルと泥を一緒にすくって食べたのです!いまだにはっきり覚えているので,相当ショッキングな出来事だったようです。
ちなみに,高校時代,自転車で新宮→本宮,中辺路,近露,田辺,大辺路,串本→新宮と12時間ぐらいで一周したこともありますよ〜。
おぉ…矢張り、こちらだったのですね〜!
猪が、目の前で蛙と泥を……想像しただけでも、かなり衝撃的ですね;;
5月に龍神温泉を走っていた時、目の前イタチ?のような小動物が現れたのですが、突然 トンビが低空飛行でやってきて、私の前で その動物をガツッと掴んで行ったのを目撃してしまった時も かなり衝撃でしたが……熊野は本当にアニマルパラダイスだなぁと思います(笑)
掴まれてバタバタともがいていた動物の姿が忘れられませんー。。
新宮から自転車で そんなに長距離を…しかも、半日でまわられたのですか!??
す…凄すぎますー!
猪が、目の前で蛙と泥を……想像しただけでも、かなり衝撃的ですね;;
5月に龍神温泉を走っていた時、目の前イタチ?のような小動物が現れたのですが、突然 トンビが低空飛行でやってきて、私の前で その動物をガツッと掴んで行ったのを目撃してしまった時も かなり衝撃でしたが……熊野は本当にアニマルパラダイスだなぁと思います(笑)
掴まれてバタバタともがいていた動物の姿が忘れられませんー。。
新宮から自転車で そんなに長距離を…しかも、半日でまわられたのですか!??
す…凄すぎますー!
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