
□ 金刺盛澄(かなさしもりずみ) □
生 年:不詳
没 年:不詳
父 :光頼
母 :不詳
弟 :手塚太郎光盛
子 :木曾義仲(養子)、女(木曾義仲室)、盛次、盛重
通 称:諏訪大夫
別 称:諏訪盛澄
金刺盛澄様は、諏訪大社 下宮(春宮、秋宮)の大祝。
大祝は“おおほうり”と読み、諏訪社の神官で御座いますが、同時に御神体を持たない諏訪の御社における生き神様的な存在でも御座います。
ちなみに、同時代には 同名の摂津判官 平盛澄様がいらっしゃいますが、平家方の御方で御座いますので、全く関係は御座いません…間違えるのは、私だけかもしれませ…ん;///
室町期の諏訪大明神絵詞によりますと、金刺盛澄様は 平家物語に登場される手塚太郎光盛様の御兄様。
然し、盛澄様の御名前は平家物語には伺えませんね。
その代わり…という訳では御座いませんが、鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡には幾度か御名前が記録されておりますので、盛澄様が実在された御方である事は確かで御座います。
諏訪下社 秋宮傍に、霞ヶ城が築かれ居城とされていたようで御座います。
源平合戦の頃、盛澄様は平家方に属して京におられたといわれますが、諏訪大明神絵詞には盛澄様の娘が木曾義仲様を結婚され、一女をもうけられていると伝えられております。
その娘様の御名前は はっきりと伝わりませんが、義仲様の妻の1人である 山吹様という説もあるようで御座います。
盛澄様は諏訪の武士団を率いる御立場の御方で、義仲様の正式な養父とも伝わります。
義仲様の乳母夫である中原兼遠様は諏訪社の祠官であられたようで御座いますので、共に匿い御育てする事で義仲様との繋がりを深めていかれた事と思います。
諏訪大社の御由緒書にも、幼少期に義仲様が霞ヶ城に匿われていた事が記されておりました。
治承4(1180)年、義仲様の挙兵に賛同された盛澄様は、武士団を率いて光盛様と共に北陸路を進軍されたといいますが、寿永2(1183)年の諏訪明神 例大祭の為に帰国なさっておられます。
この年は、義仲様が御嫡子 義高様を鎌倉の源頼朝様の御長女 大姫様の許嫁として送られた年……木曾勢と鎌倉勢の関係が特に危ぶまれた頃で御座いますね。
義仲様が粟津での御最期を迎えられたのが、その翌年――寿永3(1184)年の事。
盛澄様は、養子であり主君であった義仲様の御最期を 諏訪の地にて御聞きになられたので御座いましょう。
一時は平家を押退けて京にまで上り詰め、その地位を確立なさった筈の御方に訪れた余りにも悲しい結末……幼い頃より御傍で見守られてきた盛澄様にとって、どれ程に衝撃的な報せであった事で御座いましょう。
義仲様亡き後、盛澄様は鎌倉へと呼び出しが掛けられます。
然し、京の城南寺の流鏑馬に参加していた為に鎌倉へ配流のが遅れてしまい、 頼朝様の御怒りを買ってしまわれました。
処刑を命じられてしまった盛澄様で御座いますが、その御命を救われたのが梶原景時様で御座いました。
景時様は、世に比類無い弓馬の達人と知られる盛澄様の腕前を御覧になってから…と頼朝様に持ち掛けられ、処刑前に行われた流鏑馬に盛澄様を参加させられております。
何とも、景時様らしい方法での助命で御座いますね。
文治三年八月十五日
十五日 癸未
鶴岡放生會也。
二品、御出。
參河守範頼、武藏守義信、信濃守遠光、遠江守義定、駿河守廣綱、小山兵衛尉朝政、千葉介常胤、三浦介義澄、八田右衛門尉知家、足立右馬允遠元等、扈従。
有流鏑馬射手五騎、各先渡馬場、次各射訖。
皆莫不中的。
其後、有珎事。
諏方大夫盛澄者、流鏑馬之藝窮依慣傳秀郷朝臣秘決也。
爰属平家、多年在京、連々交城南寺流鏑馬以下射藝訖。
仍參向關東事、頗延引之間、二品、有御氣色、日來爲囚人也。
而被斷罪者、流鏑馬一流、永可凌廢間、賢慮思食煩、渉旬月之處、今日俄被召出之、被仰可射流鏑馬之由、盛澄、申領状。
召賜御廐第一惡馬。
盛澄、欲令騎之刻、御厩舎人、密々告盛澄云、此御馬、於的前、必馳于右方也<云云>。
則出一的前、寄于右方、盛澄、爲生得達者、押直兮射之。
始終、無相違。
次以小土器、挾于五寸之串、三被立之。
盛澄、亦悉射畢。
次可可射件三箇串之由、重被仰出。
盛澄、承之、既雖思切生涯之運。
心中奉祈念諏方大明神、拜還瑞籬之砌、可仕靈神者。
只今垂擁護給、者然後、鏃於平<仁>捻廻<天>射之、五寸串、皆射切之。
觀者、莫不感二品御氣色、又快然、忽被仰厚免<云云>。
今日流鏑馬。
一番 射手 長江太郎義景、<的立、野三刑部烝、>盛綱、
二番 射手 伊津五郎信光、<的立、河勾七郎>政頼、
三番 射手 下河邊庄司行平、<的立勅使河原三郎>有直、
四番 射手 小山千法師丸、<的立、浅羽小三郎>行光、
五番 射手 三浦平六義村、<的立横地太郎>長重、 (吾妻鏡による)
神事に参加する事となった盛澄様には、最も悪い御馬が与えられ、明らかに不利な状況での流鏑馬であったようで御座いますが、密かに馬屋の舎人から御馬の特徴を聞き出しておられた盛澄様は、見事に癖のある御馬を乗りこなし、全ての的と その間の細串までもを、見事に射落とされたので御座いました。
その腕前に感動された頼朝様は、まさに神の成せる業であると評され、処分は撤回となりました。
諏訪への帰国を許された盛澄様は、後に鎌倉の御家人として頼朝様に仕えられる事となっております。
そういえば…鶴岡八幡宮の流鏑馬神事で御座いますが、実は この時が初回であったようで御座いますね。
この流鏑馬神事執行にあたり、事前に射手や的立役等の諸役が与えられておりますが、この時に不満を言って所領を没収されたのが熊谷直実様で御座いました〜;
盛澄様の御名前が吾妻鏡に見られるのは、この文治3(1187)年から建仁3(1203)年の間の事で御座います。
その殆どが流鏑馬に関する記事で御座いますので、余程 盛澄様の流鏑馬姿は見事であったのだろうなぁと思わされます。
その晩年等は詳しく伝わりませんが、平家方であり、木曾義仲様を匿われ、そして後には鎌倉幕府の御家人となられたという盛澄様。
どんな御方だったので御座いましょう。


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