昨日の玉織姫関連という事で、
京は五条の大橋西北詰に御座います扇塚について、記してみようと思います〜。

かつて、五条大橋西にあった新善光寺(=御影堂/1384年創建)で作られた扇は、御影堂扇(みえいどうせん)と呼ばれておりました。
つい最近まで京土産として有名で、この辺りは扇の名産地として知られていました。
扇塚は、時代の移り変わりと共に次第に廃れていってしまう事から、扇業者有志の手によって建立されたようです。
画像では…というか、近くで見てても余り良く解らなかったのですが、↑の扇は5本骨の「蝙蝠扇」という事らしく、御影石で作られております。
下の記書は、覗き込まないと見えない位置に御座いますので、
「何だろう、これ?」と思って近付かない限り、解りにくいのは無いかしらと思われます;
実際、関西在住時、私の周囲にいらっしゃった京都の方も、そんなものがあった記憶は無いと断言されておりましたー……あるよーぅ…(涙)

↑緑に埋もれる感じで記書が御座います。
この画像では非常に読み辛いですが、以下の内容が記されております。
「扇塚の記
扇は平安時代の初期 この地に初めて作られたものである
ここ五条大橋の畔は 時宗御影堂の遺蹟であり
平敦盛没後 その室 本寺祐寛上人によって得度し
蓮華院尼と稱し 寺僧と共に扇を作ったと言い傳えられている
この由緒により 扇工この地に集り 永く扇の名産地として
廣く海外にまでも喧傅されるに至った
いま この由來を記して これを顕彰する
昭和三十五年三月十五日」
昨日も記載致しましたが、蓮華院尼=玉織姫の改名という事で御座いますね。
浄土宗金戒光明寺塔頭蓮池院の伝承によれば、敦盛の妻とされる女性は、大納言源資賢の養女で、子供は無いようです。
こちらに伝わる彼女の幼名は玉織姫、もしくは清照姫、または玉琴姫というのだそうです。
古浄瑠璃の「小敦盛」では、敦盛の妻は、二条大納言按察使資賢女とされておりますね。
敦盛様の息子とされる人物は、一般的に「小敦盛」と呼ばれます。
敦盛の子供が登場するのは、室町の御伽草子以来の事ですので、こちらは真実味に欠けるといえば欠ける御話なのですが……。
ちなみに、小敦盛の御名前は法童丸と名付けられているようです。
後に出家して、親鸞様と肩を並べたとか何とか……凄いなー(笑)
古浄瑠璃の「小敦盛」には、敦盛妻が御影堂で扇を作り始めた事が語られております。

元々、五条大橋はここにかかっていた訳では無く(牛若&弁慶像も直ぐ傍らに御座いますが、これの設置時も随分、議論なされたようです)現在の松原橋に当たります。
現在の五条大橋は、豊臣秀吉の都市政策の際、伏見への交通を優先した事から六条坊門小路に移し替え、五条橋となったもので御座います。

京は五条の大橋西北詰に御座います扇塚について、記してみようと思います〜。

かつて、五条大橋西にあった新善光寺(=御影堂/1384年創建)で作られた扇は、御影堂扇(みえいどうせん)と呼ばれておりました。
つい最近まで京土産として有名で、この辺りは扇の名産地として知られていました。
扇塚は、時代の移り変わりと共に次第に廃れていってしまう事から、扇業者有志の手によって建立されたようです。
画像では…というか、近くで見てても余り良く解らなかったのですが、↑の扇は5本骨の「蝙蝠扇」という事らしく、御影石で作られております。
下の記書は、覗き込まないと見えない位置に御座いますので、
「何だろう、これ?」と思って近付かない限り、解りにくいのは無いかしらと思われます;
実際、関西在住時、私の周囲にいらっしゃった京都の方も、そんなものがあった記憶は無いと断言されておりましたー……あるよーぅ…(涙)

↑緑に埋もれる感じで記書が御座います。
この画像では非常に読み辛いですが、以下の内容が記されております。
「扇塚の記
扇は平安時代の初期 この地に初めて作られたものである
ここ五条大橋の畔は 時宗御影堂の遺蹟であり
平敦盛没後 その室 本寺祐寛上人によって得度し
蓮華院尼と稱し 寺僧と共に扇を作ったと言い傳えられている
この由緒により 扇工この地に集り 永く扇の名産地として
廣く海外にまでも喧傅されるに至った
いま この由來を記して これを顕彰する
昭和三十五年三月十五日」
昨日も記載致しましたが、蓮華院尼=玉織姫の改名という事で御座いますね。
浄土宗金戒光明寺塔頭蓮池院の伝承によれば、敦盛の妻とされる女性は、大納言源資賢の養女で、子供は無いようです。
こちらに伝わる彼女の幼名は玉織姫、もしくは清照姫、または玉琴姫というのだそうです。
古浄瑠璃の「小敦盛」では、敦盛の妻は、二条大納言按察使資賢女とされておりますね。
敦盛様の息子とされる人物は、一般的に「小敦盛」と呼ばれます。
敦盛の子供が登場するのは、室町の御伽草子以来の事ですので、こちらは真実味に欠けるといえば欠ける御話なのですが……。
ちなみに、小敦盛の御名前は法童丸と名付けられているようです。
後に出家して、親鸞様と肩を並べたとか何とか……凄いなー(笑)
古浄瑠璃の「小敦盛」には、敦盛妻が御影堂で扇を作り始めた事が語られております。

元々、五条大橋はここにかかっていた訳では無く(牛若&弁慶像も直ぐ傍らに御座いますが、これの設置時も随分、議論なされたようです)現在の松原橋に当たります。
現在の五条大橋は、豊臣秀吉の都市政策の際、伏見への交通を優先した事から六条坊門小路に移し替え、五条橋となったもので御座います。
Comment
その、現在の五条橋の下流に位置する"六条河原"。聞いただけでも身震いしそうですね。
両岸には普通に住居があって、自分も京都に住んでみたいと思った一時期がありましたが、この辺りだけは「住め」と言われてもちょっとムリ・・。
両岸には普通に住居があって、自分も京都に住んでみたいと思った一時期がありましたが、この辺りだけは「住め」と言われてもちょっとムリ・・。
Kahan | URL | 2007/03/29/Thu 12:12[EDIT]
確かに、六畳河原は恐怖スポットですよね〜。。
保元の乱でも、平忠正様や、長盛様、忠綱様、政綱様、通正様が処刑されておりますし…平治の乱では、藤原信頼は清盛軍と六条河原で戦って、ここで斬首されておりますし。壇ノ浦の後、平宗盛様、清宗様の首もさらされておりますし…(涙)
そういえば、源義仲様が、源範頼+義経様に破れたのもここですよねー;
それ以降の時代でも悉く処刑場として使われてきていて……現在でも、怪談話に良く出てきておりますっけ;
私も、この辺りには余り住みたくは無いですね〜……良い夢見られなさそう…(苦笑)
保元の乱でも、平忠正様や、長盛様、忠綱様、政綱様、通正様が処刑されておりますし…平治の乱では、藤原信頼は清盛軍と六条河原で戦って、ここで斬首されておりますし。壇ノ浦の後、平宗盛様、清宗様の首もさらされておりますし…(涙)
そういえば、源義仲様が、源範頼+義経様に破れたのもここですよねー;
それ以降の時代でも悉く処刑場として使われてきていて……現在でも、怪談話に良く出てきておりますっけ;
私も、この辺りには余り住みたくは無いですね〜……良い夢見られなさそう…(苦笑)
どうゝね | URL | 2007/03/29/Thu 20:27[EDIT]
Track Back
| TB*URL |
| ホーム |
