日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

頼盛様に維盛様、残香かほるは ひそらの地。
和歌山県那智勝浦町色川地区には、古くより平維盛様の隠棲伝承が語り継がれ、その御子孫といわれる御家系も現在まで存続されておられます。

   平維盛の熊野落

平維盛は一門と共に一たひ屋島に落ちたりしか、前途を悲観したりけん、従者阿波守宗親を具して、□に屋島を逃れ出て、元暦三年三月十五日高野山に上りて、其の□臣の僧となれる瀧口入道に邂逅し、夫より山伝に熊野に忍ひ入り、三山を拝し、那智の沖山成島に渡り、入水と称し、其の實は太地の水の浦に上り、太田を経て色川郷に入る。
□の著性等密に之を迎へて藤綱の要害に置くこと三年、後村里に出て、□の著姓と婚を通す。
其の子孫を色川一族と曰ふ。
以上は伝説にして文献の徴するなきも、維盛熊野落のことは、事實なるべし。
那智山の神官潮崎、及ひ□崎の両家は共に清盛の弟頼盛の後胤なること、其の系譜に見わたり。
       (東牟婁郡誌による)



合併を経て、現在は那智勝浦町の一部となっている色川の地。
色川郷は元々とても広域な奥地の里で御座いますので、外部からでは中々情報を得る事が出来ず…分からないなら、直接行ってみるしかない!という事で、先月 色川に御邪魔させていただきました。
色川では、那智勝浦町役場 色川出張所さんに御協力をいただきまして、移動可能な範囲での維盛様縁の史跡、伝承地を一緒に巡らせていただく事が出来ました。


先ず訪れましたのが、南平野――桧曽原の地には、維盛様の供養塔といわれる2基の五輪塔が現存しており、平頼盛様の御子孫であるとされる潮崎さんの御家によって護られておりました。

口色川01


浦さんが事前に連絡をとっておいて下さいました御蔭で、潮崎さんの御宅へ御邪魔させていただき、御話を聞かせていただく事が出来ました。

御話によりますと、潮崎家は壇ノ浦合戦の後に源氏の目を逃れて潮岬へと上陸された平頼盛様の御子孫と伝わる御家系という事で……この時、私は成程と思って聞いていたのですけれど、後になって考えてみますと、頼盛様が壇ノ浦を逃れて来られたというのは、史実とは随分掛離れた出来事で御座いますね。
頼盛様は平家御一門の都落ちには同行されておらず、西どころか鎌倉へ赴かれて源頼朝様との面会を果たされておられます;
壇ノ浦の その時も、京にて再び出仕されておられたようで御座いますし、御一門滅亡の後は御出家されている事が吾妻鏡にも伺えます。
では、潮岬に上陸された御方というのは一体どなたであったのか…と考えた時、一瞬 頼盛様の郎党であった弥平兵衛宗清様の事が脳裏を過ぎりましたが、熊野と平氏との繋がりを思えば他にも様々な御方の御名が浮かんでも参ります。
もしも、頼盛様が御一門と共に西海へ向かわれ、壇ノ浦の時まで運命を共にされていたのであれば、それは それで何だか嬉しい気も致しますね。
平家である事を隠す為に、潮岬の地名に肖って名乗られるようになったという“潮崎”姓。
この地域には、“汐崎”さん、“塩崎”さんと表記する“しおざき”家もあるそうで御座いますが、元を辿れば、どの御家も頼盛様の御末裔という事になるのだそうで御座います。

また、その伝承とは少し違いますが、頼盛様の御孫様の代より潮崎氏が始まったという事が紀伊続風土記に記されており、それによりますと 承久3(1221)年に北条泰時様が京都へ乱入される際、頼盛様の御子様である保業様を京方であるとして罪を負わせ、紀州に流されたという事で…その御子様である保定様が、地名の潮崎を姓として名乗られるようになったという事で御座います。

  平忠盛 - 頼盛(忠盛五男/清盛異母弟) - 保業 - 保定 (※潮崎氏 祖)

保定様は那智山の廊の坊の養子となり、浜の宮 補陀洛山寺裏にあったという勝山城に居城されたといわれます。
廊の坊の潮崎氏は、実方院文善坊(門是坊)と共に、那智三党に数えられており、維盛様の御子孫と伝わる文善坊の色川清水氏とは、共に平家の御血筋という事で婚姻関係を築いておられたようで御座います。

その他、潮崎さんの御宅では 江戸期の頃の土地台帳等、貴重な史料を色々と拝見させていただきました。
どれも保存状態が良く、大切に保管されていらっしゃる事に感銘を受けました。

口色川02


この地に伝わるという2基の維盛様供養塔は、潮崎さんの御宅近くの畑傍にあるという事で、連れて行っていただきました。

頼盛様より繋がる御家系の方が、維盛様の供養塔を護られていらっしゃる事に何だか不思議な縁を感じます。
忠盛様の御正室腹として御誕生になられ、同母兄である家盛様が亡くなられた後も順調に昇進を重ねていかれたとされますが、院近臣であり、平家御一門の御1方でもあるという御立場に苦労なさった頼盛様。
そして、平家の御嫡流でありながらも、武士として御一門を統率する事叶わず、屋島より陣を離脱の後に御出家、そして熊野にて入水…と平家物語に語られる維盛様。

維盛様は入水されたといわれる山成島を経て、太地へと上陸。
そこから奥へ奥へと山道を進み、各地に形跡を残されていかれたと伝えられますが、桧曽原では“的場”という御家に1泊されたといわれております。
戦場を離れ熊野に逃れられた維盛様と、壇ノ浦より落ちられたという頼盛様。
もしかすると この辺りで落ち合われて世の徒然を語り合われてたのかも…しれませんね。

口色川03


こちらが、桧曽原に伝わる 維盛様の供養塔で御座います。
潮崎さんの御話によりますと、元々は下の辺りにあったようで…享保の頃(1716〜1736年)、初代の御方が畑を開墾された時に土の中から発見されたという事で御座います。
その時、同時に刀や鎖の入った壺も出土したそうで御座いますが、当時の方々は それを割って手洗鉢として御使用になられたのだとか……。
その後、下にある塔が見付かり、現在地へと移されたのだそうで御座います。

素人の勝手な見解では御座いますが、五輪塔の形状から察するに、恐らくは 双方とも鎌倉期頃の作では無いかなと思われます。

口色川04


この2基の五輪塔の特徴は、地輪部分に刻まれた文字。
水輪に面す所――つまり、五輪塔の表面からは見えない場所に文字が刻まれていたので御座います。
この文字によって、2基の五輪塔が共に維盛様供養の為に建立されたものなのでは無いかと考えられるようになっているようで御座います。

潮崎さんが、五輪塔を分解して 刻まれた文字を見せて下さいました。
史跡巡りをしていると様々な五輪塔に出逢いますが、このように見えない部分まで拝ませていただいたのは初めての事で御座います。

先ず、向かって左手の五輪塔で御座いますが、こちらには“三位”と彫られているのが はっきりと確認出来ました。

口色川05


続きまして、右側の五輪塔。
こちらに刻まれていた文字は、“小枩”で御座いました。
小枩は、“小松”で御座いますね。

“三位”に“小松”、維盛様は御父様 重盛様が小松谷に居を構えられておられた事から“小松中将”とも呼ばれておられました。
養和元(1181)年に従三位に叙された事から“三位中将”様と称される事も御座いましたので、どちらも維盛様の代名詞ととれる称号という事になります。
というか、維盛様伝承の残る地で この2基が発見されて、維盛様を指さないと考える方が むしろ不自然で御座いますよね(苦笑)

口色川06


供養塔のある場所から眺める景色の向こう側には、熊野灘。
振り返れば、傍には 有名な色川の茶畑。

静かな集落に並ぶ この五輪塔が建立された経緯について、詳しい事は判っておりません。
一対になるように2基共に維盛様を示す文字が刻まれている事、その文字が隠れた場所に遺されていた事、確かな建立年代、建立者 等々…考えれば考える程に、謎は深まるばかりで御座いますが、維盛様を想って建立されたという事に 間違いは無いと思われます。
浪漫を秘めた2基の塔、神秘的で御座います。

「紀伊続風土記」の大日本史伝(徳川光圀の撰)色川庄屋文書(貞享二年)に維盛、那智沖に入水と偽り、牟漏郡に匿る――とある。
屍も上がらず、頼朝の疑心はさらに深まり、色川宗家、色川衆を鎌倉公文所に呼びきびしく取り調べさせた。
時はすでに三年を経て、維盛は二子を残し、いずこともなく逃走していた。
その子孫を色川一族という。
「五輪さま」――色川郷の深山桧曽原の大江屋敷(他説奥田徳助)を整地中、五輪塔二基が出土した。
 明治四年の頃であるから、今からちょうど百年前のことである。
熊野は大台ケ原のように幽谷深山で豪雨が多い。
そのため大洪水や山崩れも多かった。
今も昔と同じく「色川災害史」によると、元禄六年(一六九三)八月四日、大暴風あり、家屋六百軒倒れた(熊野史)。
この年より三十五年後の享保十三年、田垣内村二十六軒(田垣内文書)、天明八年(一七八八)八月十八日大洪水、天保十三年(一八四二)、天明八年にも大荒れがあり、(色川小坂文書)
「功化三年(一八四六)八月二十八日、大野大洪水あり人家流れ多く死ぬ」(熊野史)、したがって三位、小松の二基五輪塔は明治四年(一八七一)の発掘であるから、色川のいわゆる「五輪さま」はいつかの暴風雨のときに鉄砲水のような地すべりで流され、長年月、山土に埋もれ、風化されないでそのまま埋まっていたものと思われる。
 小松(小枩)三位は正しく小松三位維盛のことで、五輪塔の地石に彫られていたこの実証で、容易に彼の色川郷隠棲が窺われる。
現在は桧曽原の潮崎守氏家の屋敷に移されて供養されている。
明治四年発掘後、一時妙法山寺(弘法大師開基)に移されたが、潮崎家の母の病弱は怨念のたたりと信じ、昭和十五年もとの潮崎家に移された。
 なお、色川郷土史家田中昍二(八十三才)によれば、大正十年頃、色川平野に鉄砲鍛治の馬継という人があって、塔を発掘したときに墓石の下に一振りの錆刀を発見した。
その錆刀を無雑作に二分して作り直し、山刀として一本ずつ持っていたという。
馬継の話では、「とてもよく切れたものだがなー」と述懐していた。
「その山刀は今もありますか」と尋ねたら、「子供たちがよく持ち歩いていたがどこかへ失った」と。
 昭和二十七(八)年夏、色川平野小学校前の杉山で一つの山刀を発見、荒錆を落とした小刀で、刀剣鑑定家(那智山麓竜子清光―井関、川上敏夫)によって、古刀であるが半端で、古刀の値打なしという(田中昍二蔵)
     ( 「平維盛の哀婉秘話 -紀州流浪にまつわる哀歓余禄-」 濱光治氏 著 による)



上記は、昭和54年発行の資料より抜粋させていただいたもので御座います。
こちらの記述によりますと、2基の五輪塔が発見されたのは明治4年の事で、当時 土地の方々より“五輪様”と呼ばれ、崇め護られておられたものと思われます。
発見後、妙法山阿弥陀寺さんにて御祀りされていた事もあるようで御座いますが、昭和15年に再び潮崎さんの御家へと戻されたそうで御座います。

口色川07


桧曽原で大変御世話になりました、潮崎さん御夫妻で御座います。
潮崎さんには、とても貴重な資料を数点御借りしておりまして…御蔭様で、より深いところまで勉強する事が出来ております。
初対面で御座いましたのに、私の事を信頼して御貸し下さって、本当に有難う御座います。
大切に扱わせていただき、必ず近い内に御返し致します。

潮崎さん家の御庭には、ワンさん達が元気に駆け回っていらっしゃいまして、とても楽しかったです。
御家の中にはニャンさんがいらっしゃり、奥の方から聞こえてくる小鳥さんの声にも癒されました〜。

桧曽原へ向かう途中には鹿さんが飛び出して来られましたし、猪さんや猿さん等も多いのだそうで御座います。
猪や猿は別で御座いますが(すみません/苦笑)、動物に囲まれての毎日、素敵だなぁと思います。

※潮崎さんの“崎”の字で御座いますが、正しくは旁の上部分が“立”という字で御座います。
 フォントが対応していない為、正しく表記出来ず、申し訳御座いません…。

口色川08


* * * * * * * *

口色川09


桧曽原へは、那智山方面から色川中心部へ向かう手前の分岐を下り、細い林道を通って向かいました。
那智山から色川へ抜ける道は2通り御座いますが、その内の上側の道は土砂崩れで通行止めになっておりました…。
私が通って行きました下の道も、小阪へ向かう手前で通行止めになっておりまして、その通行止めの看板前で浦さんと合流させていただきました。

通行止めの案内板は手前にも出されていたのですけれど、私は 未だ行けるのかなと思って↑の通行止めギリギリの所まで突き進んでしまいまして…;
目安に御伺いしていた合流予定時間を少し過ぎても、そのような気配が無いので、もしかして道を間違えたのだろうかと不安になりつつも、とにかく連絡を…!と思いまして携帯を取り出しましたらば、何と圏・外ー……あぁ…和歌山で1番繋がるのがa○だと聞いたから、携帯会社まで変更して来ましたのに〜(仲間由紀恵さんと嵐のCMに惹かれたという説もあったりなかったり…)等と歎きつつも、以前のパニック事件を思い出して、ここは冷静にならなくては!!とUターンして手前の通行止め表示の場所に戻った所で、無事に浦さんと出会う事が出来ました〜

文明の利器 携帯電話も、電波が届かなければ ただのデジカメで御座います(…)
熊野の主要な場所でしたら特に心配する必要も御座いませんが、ちょっと人里はなれた山道に入ったりしてしまうと、直ぐに圏外になってしまいます(涙)
私の携帯電話の待受フラッシュは、圏外に行くと
ここは圏外ですから、電波の届く所に行きましょう
と言ってくれるのですが、
えぇッ!??わ…私も、早く電波の届く所に行きたいよー…
と返す事しか出来ぬ場所に居る場合、不安は募る一方で御座います;;
車も携帯電話等無かった時代を思いますと、全く贅沢な悩みで御座いますね(苦笑)

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Comment

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ふむ、自分の家のルーツを大切に守り受け継いでいく、凄いすばらしいことですよね。

自分のお家の資料を貸してくれる事はそれだけどうゝねさんを信頼してくれたのもありますけど、やはり自分のお家のルーツを興味を持って勉強してみたいと思ってくれる人が居ると言う事が嬉しいんですよね。

でも、昔の出土品を手で割って使う(^^)そんなものかも知れないですね、まずは生活が大切ですからね。

ワンちゃん可愛いですね♪自然と共に生きていく、素晴らしい環境ですね(^^)

それと、クラさんの具合が早く良くなって元気全開になって欲しいですね(・ー・)
GAN | URL | 2008/07/15/Tue 21:11[EDIT]
>GANさん
素敵ですよね。
私の実家には、そういう伝統的なものが何も伝えられていないので、本当に羨ましく感じます。
遡れば平家…!というところが また堪らなく魅力的で御座いますね〜。
どうゝね家は一体どんなルーツから発生した家系なんだか…未だ調査中ですが、矢張り遺されたものが殆ど無いと、遡りたくとも遡る事が出来なくて…もどかしいです(涙)

出土品を割って使っちゃう…今だからこそ、えぇぇ!??という反応をしたくなってしまいますが、確かに 当時の方にしてみれば、使えそうなものが出て来たから使ったのみ、という感じであったのだろうと思います。
文明の発達に反比例するように、自然のものや歴史的遺産が次々と失われていく現代だからこそ、こんなにも私達は過敏になってしまうので御座いますね…。
最近、報道番組でも取り上げられている 歴史的遺産に落書きをするという行為も、元々は そんな感じで…もっと単純に身近に感じての行為であったのかもしれません;
護りたいという気持ちが強い為、どうしても“許せない”と思ってしまいますし、それが間違っているとも思いませんが、そもそも 何故こんなにも神経質にならなくてはならなくなったのかという次元まで戻って、広い視野で物事を見定めていくべきなのかもしれないなぁと思います…。

夏が終わったら、クラさんの入院を決行しなくてはと思っております。
その前に、この夏も クラさんと沢山思い出を作りたいなぁと意気込んで色々と計画中です〜♪
どうゝね | URL | 2008/07/16/Wed 02:25[EDIT]
研究者殿っ!
なんか凄い…!
遺跡調査みたいでドキドキしちゃうよ。

五輪塔って、そんなに簡単に分解できちゃう構造なの!?
もっと、しっかりはめ込まれてたりくっついてたりするんだと思ってた。
どうねちゃんのアクティブさには、いつもビックリさせられてばっかだけど、今回もすごいね!
モチヅキ | URL | 2008/07/16/Wed 14:06[EDIT]
今回も力の入ったレポですね!
家の大切な資料を貸してくれるなんてなかなかないですよ。
それだけひろこさんの熱意が伝わったのでしょう。

ワンちゃん可愛いですね〜
いろんな動物がいて楽しいそう!
しずか | URL | 2008/07/17/Thu 22:42[EDIT]
>モチヅキさん
何ですか、研究者ってー…探求者と呼んで下さいな!(笑)

五輪塔は、ただパーツの重さだけで乗っかっているみたいですよ。
台風とか来た時に崩れたりしないものなのかなぁと思ってしまうのですが、そんな状態で数百年も綺麗に残っている五輪塔を見る度に凄いなぁと思ってしまいます。
誰かを供養する為に建立されるものなので、石の重みに、人の気持ちの重さもプラスされているのかもしれませんね〜。
どうゝね | URL | 2008/07/17/Thu 23:33[EDIT]
>しずかさん
維盛様を追って熊野を旅していると、色々な所に行けるなぁ〜と感動してしまいます〜。
立派な肩書等を持たない私でも、誠意を持って応じて下さる方々に出逢える事が本当に嬉しくて…有難い事です(感涙)

ワンちゃん、凄く元気で可愛かったです〜v
維盛様の供養塔へ行く時、ワンちゃんも
「一緒に行っておいで」
と見送って貰って外の道に出たのですが、気が付いたら ひとりで先に帰っちゃったみたいでした(笑)
綱で繋がれていないので、ちょこちょこと賑やかに駆け回っていて、自由だなぁ〜と微笑ましい気持ちになりました〜。
動物いっぱいで楽しかったのですが、車の前に鹿さんが飛び出して来た時は、本気でビビりました…;
どうゝね | URL | 2008/07/18/Fri 00:07[EDIT]
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