えぇと……無事にネガを発見致しましたので(苦笑)、
予告通り、本日は庄原の敦盛様伝説について纏めておきたいと思います。
ちゃんと……纏め…られたら…いいんですが…←ちょっと弱気;
庄原の敦盛様伝承に関して、事前に私が持っていた情報というのは非常に少なく、
・庄原市七塚町の七塚原に「敦盛さん」伝承がある。
・庄原市の民謡に「敦盛さん」という唄がある。
・敦盛生存の噂を聞いた玉織姫(妻)が、尋ねて来たという伝説がある。
・敦盛夫妻の御墓が存在するとか、しないとか…。
↑……これだけで御座いました。
「平家伝承地総覧」にも、正確な場所や情報に関しては殆ど記述されておらず、東京では、どう調べても情報が掴めない――。
それならば、直接行って確かめるしか無いのだわ!と意気込んで、先日の帰省の際に母と共に庄原へ調査に行って参りました…結構無謀ですね〜(笑)
先ずは、とにかく地元ならではの口伝や伝承についての情報が欲しい、という事で、七塚町に御座います東公民館さんを訪ねました。
ですが、扉を開けて事務所を覗きましても、何故か誰もいらっしゃらず電気も消えており……あれ???と突っ立っておりましたら、偶然その場にいらっしゃった地域の方が、
「今日は公民館は休館日じゃけぇ、誰もおらんよ」と………
な、何て間抜けな私ッ…!!と、ショックで呆然としておりましたが、地元の方ならば何か知っていらっしゃるかもと思い直して聞いてみました。
その方は「敦盛さん」という唄はあるけれど、それだけしか御存知無かったようで――。
「敦盛様や奥方様の御墓も残っているとか…いないとか…そんな噂も聞いているのですが…
」
と、恐る恐る聞きましたら、これまた偶然(?)図書館に集まっていらっしゃった数名の方々にも聞いて下さいまして、その内の御一方が、
「玉織姫さんの御墓の事じゃろ〜?敦盛さんの御墓ゆうんは無いんよー」と!!
(※玉織姫に関しましては、下の方で簡単に説明をさせていただきますね)
その方に、場所や詳細については、西念寺さんという御寺さんを訪ねると良いでしょうと御教えいただきまして、東公民館を後に致しました。
その後、近くの交番で御巡りさんに詳しい場所を教えていただき(地図まで描いて下さいました)、西念寺さんへ向かいました。
そちらで、御住職さんに御話を伺う事が出来まして、以下の情報をいただきました。
・春田(しゅんだ)町に、玉織姫を弔ったと伝わる墓が在る。
・地域の方は、「姫御さん」と呼ぶ。
・伝承地は、七塚町では無い。
・民謡「敦盛さん」を唄い伝える、「敦盛さん保存会」の存在と活動内容。
・広島の沼田町に、玉織姫が作った敦盛の墓が存在するらしい事。
(※但し、沼田町史等には載っておらず、詳細不明)
それから、西念寺の御住職さんが地図をコピーして道順を教えて下さいまして、“姫御さん”に参れる事になりました。
姫御さんの直ぐ近くまで来て、道行く女性の方に細かい道順を聞き、真っ直ぐに進んで行きましたら……迷いました…(笑)
私も母も、何だか随分遠いな〜と思いながらも、どんどん山の上まで行ってしまいまして;狭い山道ですので、車を引き返す事も出来なくて;;
てっぺんまで登ってしまって、これは矢張り間違っているような気がしましたので、元来た道を下り始めようとしましたら、何と、先程 道を教えて下さった女性の方が、遥々山道を登って追い掛けて来て下さいまして――!
実は、以前から私は玉織姫に対して、かなり執着が御座いまして……ここへ来る迄にも色々と調べておりました。
彼女に抱くのは、羨望、憧れ、それから希望でしょうか。
「敦盛様を想う気持ちは同じ…私は貴女の敵では無いです。
私は、ずっと貴女に御逢いしたいと思っていたのです。
貴女の心が、少しでもこの地に残っているのであれば、
私を拒む気持ちが無いのであれば、どうか些細な道標でも良いので…
貴女の眠る場所へ連れて行っていただけませんか」
と話し掛けたりしていたものですから、かなり運命を感じました…
道を教えた直後に、私達が違う道を登って行くので、慌てて追い掛けて来て下さったそうで御座います…感動です感謝です///
共に車に乗って下さいまして、姫御さんまで連れて行って下さいました。

□ 玉織姫墓地 □
所在地:広島県庄原市春田町
通 称:姫御さん
(ちなみに、アクセントは頭高「ひめごさん」)
玉織姫の御墓と伝えられる、御堂で御座います。
こちらを御掃除されたり管理(?)をされている御宅に御邪魔させていただいたのですが、姫御さんの御墓であるという事以外の御由緒等は、一切不明なのだそうです。
御年配の方々も、詳しい事は御存知無いという事で……。
姫御さんは下の病気に関する御利益があるそうで御座います。
割と距離的には近い文覚堂さんと似た霊験で御座いますね。
時代的にも文覚上人とは非常に近いですし、出家前の文覚上人=遠藤盛遠は京におりましたから、もしかしたら何か由縁する所があるのかもしれないですよね〜???

□ 玉織姫(たまおりひめ) □
生 年:不明
没 年:不明
父 :源資賢?(養父説あり)
or 平教盛?
or 平教経??
さて、玉織姫について…ですが。
正直に申しまして――史実から言えば、その存在には何の証拠も無く、架空の人物視をされる場合が殆どで御座います。
歌舞伎や能、神楽等の古典芸能では常連ですし、
大川橋蔵さんが敦盛役を務めた「笛吹き若武者」では、美空ひばりさん演じる玉織姫が軽やかに唄い踊っておりますし……(DVD買いました…/笑)
どれもフィクションに近いもので御座いますが、平家物語以外では、意外と敦盛様の近くに玉織姫あり!といった感じではありますよね。
玉織姫というのは本名では無いと思われますが、当時の女性の名前が伝わる事こそ稀ですので、以下に敦盛様縁の女性関係について、今手元にある資料等から簡単に箇条書きで記しておきます。
・平家物語異本である四部合戦状本では、文や和歌を通して、
平教盛の娘が敦盛の愛人であると表現されている。
・室町時代以降の文学芸能には、敦盛に妻、愛人が居る場合が非常に多い。
・1番古いとされる世阿弥作の謡曲「敦盛」は極めて素朴な内容で、
平家物語に基づいているのが良く解る程度。
↓
幸若舞曲「敦盛」では、敦盛に新妻が存在。
↓
御伽草紙「小敦盛」では、新妻+懐妊。敦盛様死後に出産。
↓
謡曲「生田敦盛」では、妻+子供が誕生している。
・1686(貞享3)年の「雍州府志」巻8によれば、
敦盛の妻は大納言資賢(源資賢)の娘であり、敦盛様生存中に出産。
− − − − − − − − − −
・「一ノ谷嫩軍記」には内容に色々な種類があり、
玉織姫を敦盛妻とする筋書きも有名。
・京は五条の扇塚によれば、敦盛亡き後、
御影堂で扇を仕立てたのが京扇(久寿扇)のはじまりと言われる。
・浄土宗金戒光明寺塔頭蓮池院の伝承によると、玉織姫(もしくは清照姫)
というのは幼名であり、源資賢の養女と伝わる。
※点線より下が、玉織姫という名で出ている情報です。
※生田敦盛、小敦盛(=敦盛様の御子息という…)につきましては、改めまして今度、生田森や生田神社と共に紹介したいと思います。
※扇塚についても、近い内に写真と共に詳しく書こうと思います。
実は、玉織姫伝承に関しまして、もう1つ違う場所に有名なものが御座います。
高知県香美市の轟の滝で御座いますが、私は未だ行った事がありませんー;
こちらにも、玉織姫伝説というのが存在するのですが、敦盛様の妻とされる玉織姫と同一人物か否かは定かでは御座いません…。
ですが、時代が一致している事と、こちらの玉織姫の父が平教経様の家来、平良種とされている事から……無関係と言い切ってしまう事も出来ないと…思うのですよねー;
教経様の娘という説も存在しますし……。
ただ、先述しました通り、玉織の姫というのは抽象的な通称ですので、偶然同じ呼び名だっただけかもしれませんし……どちらか、どちらも、実在は確認されておりませんし……うぅむ…(悩)
高知新聞さんの記事を要約しますと、
「平家一門の伊和三太夫(落人となった為、平良種から改名)の一人娘である
玉織姫は比類ない美貌と機織りの名人として有名でした。
ある日、姫は川向こうに機織りの道具を返しに行ったきり、
夜になっても帰って来ません。
三太夫は滝壺に大蛇が住む事を思い出し、家伝の名刀を握りしめると
滝に走りって小太刀を口に、濃藍の滝壺めがけて飛び込みました。
すると、水底には乾き切った岩盤の世界があり、
姫が父を待っていました。
姫は眉目秀麗な若侍を夫として引き合わせ、三日の間父を接待しました。
共に帰ろうとする父に、姫は絹の巻物六反を渡し、悲しみながらも
永遠の別れを告げるのでした。
生還した三太夫は三年の月日が経っていたことに驚きます。
その後、柚ノ木の山里には平和が訪れ、繁栄したといいます」
――なんだか、浦島太郎の滝壷版?みたいな感じですよね(笑)
こちらの玉織姫については、もう少し調べてみようと思っております。

↑赤枠の部分、この中に“何か”が在ったのだそうで御座います。
然し、随分昔に何者かによって持ち去られてしまったらしく、手前の木枠の一部が切り取られているのが判ります。
現在では、ここに“何が”あったのか、不明なのでそうです…。

西念寺さんでは、民謡「敦盛さん」のカセットテープ、それから歌詞と三味線譜もいただきました。
私が事前に調べていた歌詞とは少し違いましたが、民謡は口伝で継がれていくものですので、途中で変化していったものもあったのでしょうと思われます。明治期に歌詞を改めたという記述も御座いましたし…。
せっかく御本地の歌詞をいただきましたので、しっかり聞き込んで唄えるように練習致します♪
それから、花林さん(龍笛)でも吹けるようになりたいです〜
(愛)

姫御さんは、民家よりも少しだけ登った場所に御座いまして、見渡す景色がとてものどかで落ちつく感じが致します。
この日は、朝からしとしとと小雨が降っておりまして……薄く霞んだ景色の中で、ただ静かに眺めておられる姫御さんを、私はとても愛しく感じました。
大切にされている事も良くわかりまして、これからも護って護られて共存していゆかれる事と思います。
長々と、判り辛いレポート??のようになってしまいまして…申し訳ありませんー;
↓括りに、個人的かつ一方的な私信になりますが、沢山の素敵で不思議な出逢いに感謝致しまして…。
>東公民館で出逢った皆様、西念寺の御住職様、春田町で出逢った方々
オンラインですので御名前は伏せさせていただきましたが、
皆様のおかげで無事に姫御さんまで辿り着く事が出来ました。
本当に有難う御座いました。
>りょーかさん
御一緒出来なくて残念でしたが、ワイナリーで御逢い出来て嬉しかったです。
三次に関しましては、継続して調査致します〜(><)/
>母上様
絶対見ていないと確信出来ますが(笑)、広島から庄原まで車を運転して下さって、
どうもありがとうございました。
次の帰省では、鞆の浦と湯木温泉辺りに遊びに行きたいですねー。
勿論、平家伝承を追いかけて…。

予告通り、本日は庄原の敦盛様伝説について纏めておきたいと思います。
ちゃんと……纏め…られたら…いいんですが…←ちょっと弱気;
庄原の敦盛様伝承に関して、事前に私が持っていた情報というのは非常に少なく、
・庄原市七塚町の七塚原に「敦盛さん」伝承がある。
・庄原市の民謡に「敦盛さん」という唄がある。
・敦盛生存の噂を聞いた玉織姫(妻)が、尋ねて来たという伝説がある。
・敦盛夫妻の御墓が存在するとか、しないとか…。
↑……これだけで御座いました。
「平家伝承地総覧」にも、正確な場所や情報に関しては殆ど記述されておらず、東京では、どう調べても情報が掴めない――。
それならば、直接行って確かめるしか無いのだわ!と意気込んで、先日の帰省の際に母と共に庄原へ調査に行って参りました…結構無謀ですね〜(笑)
先ずは、とにかく地元ならではの口伝や伝承についての情報が欲しい、という事で、七塚町に御座います東公民館さんを訪ねました。
ですが、扉を開けて事務所を覗きましても、何故か誰もいらっしゃらず電気も消えており……あれ???と突っ立っておりましたら、偶然その場にいらっしゃった地域の方が、
「今日は公民館は休館日じゃけぇ、誰もおらんよ」と………

な、何て間抜けな私ッ…!!と、ショックで呆然としておりましたが、地元の方ならば何か知っていらっしゃるかもと思い直して聞いてみました。
その方は「敦盛さん」という唄はあるけれど、それだけしか御存知無かったようで――。
「敦盛様や奥方様の御墓も残っているとか…いないとか…そんな噂も聞いているのですが…
」と、恐る恐る聞きましたら、これまた偶然(?)図書館に集まっていらっしゃった数名の方々にも聞いて下さいまして、その内の御一方が、
「玉織姫さんの御墓の事じゃろ〜?敦盛さんの御墓ゆうんは無いんよー」と!!
(※玉織姫に関しましては、下の方で簡単に説明をさせていただきますね)
その方に、場所や詳細については、西念寺さんという御寺さんを訪ねると良いでしょうと御教えいただきまして、東公民館を後に致しました。
その後、近くの交番で御巡りさんに詳しい場所を教えていただき(地図まで描いて下さいました)、西念寺さんへ向かいました。
そちらで、御住職さんに御話を伺う事が出来まして、以下の情報をいただきました。
・春田(しゅんだ)町に、玉織姫を弔ったと伝わる墓が在る。
・地域の方は、「姫御さん」と呼ぶ。
・伝承地は、七塚町では無い。
・民謡「敦盛さん」を唄い伝える、「敦盛さん保存会」の存在と活動内容。
・広島の沼田町に、玉織姫が作った敦盛の墓が存在するらしい事。
(※但し、沼田町史等には載っておらず、詳細不明)
それから、西念寺の御住職さんが地図をコピーして道順を教えて下さいまして、“姫御さん”に参れる事になりました。
姫御さんの直ぐ近くまで来て、道行く女性の方に細かい道順を聞き、真っ直ぐに進んで行きましたら……迷いました…(笑)
私も母も、何だか随分遠いな〜と思いながらも、どんどん山の上まで行ってしまいまして;狭い山道ですので、車を引き返す事も出来なくて;;
てっぺんまで登ってしまって、これは矢張り間違っているような気がしましたので、元来た道を下り始めようとしましたら、何と、先程 道を教えて下さった女性の方が、遥々山道を登って追い掛けて来て下さいまして――!
実は、以前から私は玉織姫に対して、かなり執着が御座いまして……ここへ来る迄にも色々と調べておりました。
彼女に抱くのは、羨望、憧れ、それから希望でしょうか。
「敦盛様を想う気持ちは同じ…私は貴女の敵では無いです。
私は、ずっと貴女に御逢いしたいと思っていたのです。
貴女の心が、少しでもこの地に残っているのであれば、
私を拒む気持ちが無いのであれば、どうか些細な道標でも良いので…
貴女の眠る場所へ連れて行っていただけませんか」
と話し掛けたりしていたものですから、かなり運命を感じました…

道を教えた直後に、私達が違う道を登って行くので、慌てて追い掛けて来て下さったそうで御座います…感動です感謝です///
共に車に乗って下さいまして、姫御さんまで連れて行って下さいました。

□ 玉織姫墓地 □
所在地:広島県庄原市春田町
通 称:姫御さん
(ちなみに、アクセントは頭高「ひめごさん」)
玉織姫の御墓と伝えられる、御堂で御座います。
こちらを御掃除されたり管理(?)をされている御宅に御邪魔させていただいたのですが、姫御さんの御墓であるという事以外の御由緒等は、一切不明なのだそうです。
御年配の方々も、詳しい事は御存知無いという事で……。
姫御さんは下の病気に関する御利益があるそうで御座います。
割と距離的には近い文覚堂さんと似た霊験で御座いますね。
時代的にも文覚上人とは非常に近いですし、出家前の文覚上人=遠藤盛遠は京におりましたから、もしかしたら何か由縁する所があるのかもしれないですよね〜???

□ 玉織姫(たまおりひめ) □
生 年:不明
没 年:不明
父 :源資賢?(養父説あり)
or 平教盛?
or 平教経??
さて、玉織姫について…ですが。
正直に申しまして――史実から言えば、その存在には何の証拠も無く、架空の人物視をされる場合が殆どで御座います。
歌舞伎や能、神楽等の古典芸能では常連ですし、
大川橋蔵さんが敦盛役を務めた「笛吹き若武者」では、美空ひばりさん演じる玉織姫が軽やかに唄い踊っておりますし……(DVD買いました…/笑)
どれもフィクションに近いもので御座いますが、平家物語以外では、意外と敦盛様の近くに玉織姫あり!といった感じではありますよね。
玉織姫というのは本名では無いと思われますが、当時の女性の名前が伝わる事こそ稀ですので、以下に敦盛様縁の女性関係について、今手元にある資料等から簡単に箇条書きで記しておきます。
・平家物語異本である四部合戦状本では、文や和歌を通して、
平教盛の娘が敦盛の愛人であると表現されている。
・室町時代以降の文学芸能には、敦盛に妻、愛人が居る場合が非常に多い。
・1番古いとされる世阿弥作の謡曲「敦盛」は極めて素朴な内容で、
平家物語に基づいているのが良く解る程度。
↓
幸若舞曲「敦盛」では、敦盛に新妻が存在。
↓
御伽草紙「小敦盛」では、新妻+懐妊。敦盛様死後に出産。
↓
謡曲「生田敦盛」では、妻+子供が誕生している。
・1686(貞享3)年の「雍州府志」巻8によれば、
敦盛の妻は大納言資賢(源資賢)の娘であり、敦盛様生存中に出産。
− − − − − − − − − −
・「一ノ谷嫩軍記」には内容に色々な種類があり、
玉織姫を敦盛妻とする筋書きも有名。
・京は五条の扇塚によれば、敦盛亡き後、
御影堂で扇を仕立てたのが京扇(久寿扇)のはじまりと言われる。
・浄土宗金戒光明寺塔頭蓮池院の伝承によると、玉織姫(もしくは清照姫)
というのは幼名であり、源資賢の養女と伝わる。
※点線より下が、玉織姫という名で出ている情報です。
※生田敦盛、小敦盛(=敦盛様の御子息という…)につきましては、改めまして今度、生田森や生田神社と共に紹介したいと思います。
※扇塚についても、近い内に写真と共に詳しく書こうと思います。
実は、玉織姫伝承に関しまして、もう1つ違う場所に有名なものが御座います。
高知県香美市の轟の滝で御座いますが、私は未だ行った事がありませんー;
こちらにも、玉織姫伝説というのが存在するのですが、敦盛様の妻とされる玉織姫と同一人物か否かは定かでは御座いません…。
ですが、時代が一致している事と、こちらの玉織姫の父が平教経様の家来、平良種とされている事から……無関係と言い切ってしまう事も出来ないと…思うのですよねー;
教経様の娘という説も存在しますし……。
ただ、先述しました通り、玉織の姫というのは抽象的な通称ですので、偶然同じ呼び名だっただけかもしれませんし……どちらか、どちらも、実在は確認されておりませんし……うぅむ…(悩)
高知新聞さんの記事を要約しますと、
「平家一門の伊和三太夫(落人となった為、平良種から改名)の一人娘である
玉織姫は比類ない美貌と機織りの名人として有名でした。
ある日、姫は川向こうに機織りの道具を返しに行ったきり、
夜になっても帰って来ません。
三太夫は滝壺に大蛇が住む事を思い出し、家伝の名刀を握りしめると
滝に走りって小太刀を口に、濃藍の滝壺めがけて飛び込みました。
すると、水底には乾き切った岩盤の世界があり、
姫が父を待っていました。
姫は眉目秀麗な若侍を夫として引き合わせ、三日の間父を接待しました。
共に帰ろうとする父に、姫は絹の巻物六反を渡し、悲しみながらも
永遠の別れを告げるのでした。
生還した三太夫は三年の月日が経っていたことに驚きます。
その後、柚ノ木の山里には平和が訪れ、繁栄したといいます」
――なんだか、浦島太郎の滝壷版?みたいな感じですよね(笑)
こちらの玉織姫については、もう少し調べてみようと思っております。

↑赤枠の部分、この中に“何か”が在ったのだそうで御座います。
然し、随分昔に何者かによって持ち去られてしまったらしく、手前の木枠の一部が切り取られているのが判ります。
現在では、ここに“何が”あったのか、不明なのでそうです…。

西念寺さんでは、民謡「敦盛さん」のカセットテープ、それから歌詞と三味線譜もいただきました。
私が事前に調べていた歌詞とは少し違いましたが、民謡は口伝で継がれていくものですので、途中で変化していったものもあったのでしょうと思われます。明治期に歌詞を改めたという記述も御座いましたし…。
せっかく御本地の歌詞をいただきましたので、しっかり聞き込んで唄えるように練習致します♪
それから、花林さん(龍笛)でも吹けるようになりたいです〜
(愛)
姫御さんは、民家よりも少しだけ登った場所に御座いまして、見渡す景色がとてものどかで落ちつく感じが致します。
この日は、朝からしとしとと小雨が降っておりまして……薄く霞んだ景色の中で、ただ静かに眺めておられる姫御さんを、私はとても愛しく感じました。
大切にされている事も良くわかりまして、これからも護って護られて共存していゆかれる事と思います。
長々と、判り辛いレポート??のようになってしまいまして…申し訳ありませんー;
↓括りに、個人的かつ一方的な私信になりますが、沢山の素敵で不思議な出逢いに感謝致しまして…。
>東公民館で出逢った皆様、西念寺の御住職様、春田町で出逢った方々
オンラインですので御名前は伏せさせていただきましたが、
皆様のおかげで無事に姫御さんまで辿り着く事が出来ました。
本当に有難う御座いました。
>りょーかさん
御一緒出来なくて残念でしたが、ワイナリーで御逢い出来て嬉しかったです。
三次に関しましては、継続して調査致します〜(><)/
>母上様
絶対見ていないと確信出来ますが(笑)、広島から庄原まで車を運転して下さって、
どうもありがとうございました。
次の帰省では、鞆の浦と湯木温泉辺りに遊びに行きたいですねー。
勿論、平家伝承を追いかけて…。
Comment
こんにちは!
今日の日記とても面白いですね^^
また、見に来ますね〜♪
それでは応援ぽちっ♪
今日の日記とても面白いですね^^
また、見に来ますね〜♪
それでは応援ぽちっ♪
こんにちは、はじめまして&いらっしゃいませ〜。
面白いですか!?わわ、ありがとうございます///
変な日記ですが、御暇な時にでもチラ見してやって下さると嬉しいです。
面白いですか!?わわ、ありがとうございます///
変な日記ですが、御暇な時にでもチラ見してやって下さると嬉しいです。
どうゝね | URL | 2007/03/28/Wed 19:56[EDIT]
平資賢について,ご存知でしたら教えてください。また,「敦盛さん」の歌詞に出てくる二条行殿とは何のことでしょうか。
こんにちは、御返事が遅くなってしまって申し訳御座いません。
その節は、大変御世話になりました。
えっと…玉織姫の御父様といわれる大納言資賢卿で御座いますが、史実から考えるに平姓では無く(平資賢という御名前も、金戒光明寺さんの伝承や後世の創作等には見掛けるので御座いますが…)、源姓の御方――源資賢様の事だと思われます。
源資賢様についてでよろしければ、ある程度の事は判りますので、近い内に記事として上げてみようかと思います。
手持ちに無い史料も集めて纏めたいと思いますので、数日御待ちいただければ幸いで御座います。
それから、「敦盛さん」歌詞の“二条行殿”の事なのですが、資賢様は左京二条四坊十一町辺りに邸宅を構えていらっしゃったといわれておりますので、恐らくは それに由来する通称なのでは無いかと考えられます。
その節は、大変御世話になりました。
えっと…玉織姫の御父様といわれる大納言資賢卿で御座いますが、史実から考えるに平姓では無く(平資賢という御名前も、金戒光明寺さんの伝承や後世の創作等には見掛けるので御座いますが…)、源姓の御方――源資賢様の事だと思われます。
源資賢様についてでよろしければ、ある程度の事は判りますので、近い内に記事として上げてみようかと思います。
手持ちに無い史料も集めて纏めたいと思いますので、数日御待ちいただければ幸いで御座います。
それから、「敦盛さん」歌詞の“二条行殿”の事なのですが、資賢様は左京二条四坊十一町辺りに邸宅を構えていらっしゃったといわれておりますので、恐らくは それに由来する通称なのでは無いかと考えられます。
別のほうのHPにさきほどカキコさせていただきましたが、玉織姫様の歌などできました。高知県越知町に横倉山という1000メーター級の山がありまして、安徳帝が壇ノ浦で身代わりを立ててのがれた場所と言われております。越知平家会のメンバーが守っておられます。ここを訪れてできた「横倉の風」と「永江の里〜玉織姫伝説」を1枚のCDにするに至りました。
我ながらすごい勢いで生まれた歌と、なんだかすごい流れてでできたCDでございます。肝心の庄原市にさえ・・まだ高知県以外では知られていないのですが、息長く歌ってまいりたいと思います。
それにしても「縁」が結ぶ人の輪・和というのはあるのです。
ひとつ以前から気になっていることが・・・
義経の子(男子)を育てたのが平知盛ということですが、この御子はそのごどうされたのでしょうか?ご存じでしたら。
我ながらすごい勢いで生まれた歌と、なんだかすごい流れてでできたCDでございます。肝心の庄原市にさえ・・まだ高知県以外では知られていないのですが、息長く歌ってまいりたいと思います。
それにしても「縁」が結ぶ人の輪・和というのはあるのです。
ひとつ以前から気になっていることが・・・
義経の子(男子)を育てたのが平知盛ということですが、この御子はそのごどうされたのでしょうか?ご存じでしたら。
うわ〜凄い長文ですね。PTAご同伴で羨ましいですね。探求力には敬服仕り候です。
私の近くにも文覚上人の史跡があります。
文覚上人が伊豆韮山の奈古谷へ流された時に隠った毘沙門堂、庵跡が今もあります。写真もありますが此処からは送信出来ませんね。
私の近くにも文覚上人の史跡があります。
文覚上人が伊豆韮山の奈古谷へ流された時に隠った毘沙門堂、庵跡が今もあります。写真もありますが此処からは送信出来ませんね。
こちらにもコメントいただきまして、有難う御座います。
1年半以上前の記事ですので、今見返すと反省点だらけなので御座いますが…;
高知県越知町の横倉山については存じております。
ただ、まだ知識のみで実際に訪れた事が御座いませんので、近い帰省の際に広島から行ってみたいと思っているのですが…かなり山深い場所という事で、無事に行って戻れるかなぁという不安も御座います;;
平家伝承縁の御歌が増える事、とても素晴らしい縁で御座いますね。
玉織姫の御歌と合わせて、拝聴させていただきたいです。
広島周辺には他にも平家全盛の頃の縁の地や平家伝承地が数多く御座いますので、浪漫が尽きる事が御座いませんね。
えぇと…申し訳御座いません、義経様の御子様を知盛様が育てられたという御話を、私は存じていないのですが…どちらかの伝承なので御座いましょうか
史実的には、知盛様は壇ノ浦にて入水して果てられておりますので、その後に亡くなられた義経様の御子様を養育なさったというのは考えられない事かと思われるのですけれど……ただ、知盛様にも落人伝説が幾つか存在しておりますので、その関連であれば、可能性は低いですが考えられない事も無いかなぁとは思います。
1年半以上前の記事ですので、今見返すと反省点だらけなので御座いますが…;
高知県越知町の横倉山については存じております。
ただ、まだ知識のみで実際に訪れた事が御座いませんので、近い帰省の際に広島から行ってみたいと思っているのですが…かなり山深い場所という事で、無事に行って戻れるかなぁという不安も御座います;;
平家伝承縁の御歌が増える事、とても素晴らしい縁で御座いますね。
玉織姫の御歌と合わせて、拝聴させていただきたいです。
広島周辺には他にも平家全盛の頃の縁の地や平家伝承地が数多く御座いますので、浪漫が尽きる事が御座いませんね。
えぇと…申し訳御座いません、義経様の御子様を知盛様が育てられたという御話を、私は存じていないのですが…どちらかの伝承なので御座いましょうか
史実的には、知盛様は壇ノ浦にて入水して果てられておりますので、その後に亡くなられた義経様の御子様を養育なさったというのは考えられない事かと思われるのですけれど……ただ、知盛様にも落人伝説が幾つか存在しておりますので、その関連であれば、可能性は低いですが考えられない事も無いかなぁとは思います。
この頃は、未だ免許を持っておりませんでしたので、事ある毎に母を頼っておりました;
探求力というよりも、ただ“愛”あるのみ…という感じで大変御恥ずかしい限りで御座います。。
静岡の文覚上人の史跡も、いつか巡ってみたいです。
あ…画像は、私のアドレスに直接メールいただけましたら…。
未だ、いただいたメールへの返信もままならぬ状態で申し訳御座いません。
必ず返信させていただきますので、もう少し御待ちいただけると幸いで御座います。
探求力というよりも、ただ“愛”あるのみ…という感じで大変御恥ずかしい限りで御座います。。
静岡の文覚上人の史跡も、いつか巡ってみたいです。
あ…画像は、私のアドレスに直接メールいただけましたら…。
未だ、いただいたメールへの返信もままならぬ状態で申し訳御座いません。
必ず返信させていただきますので、もう少し御待ちいただけると幸いで御座います。
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