史料が少ない為、余り具体的な事は分かっておりませんが、湯来の源平合戦伝承では上総五郎様こと藤原忠光様の御子孫であるという市川周防兄弟が平家城を居城とされていたと伝えられるようで御座います。
忠光様は滅亡の時まで平家御一門に従われ、壇ノ浦にて戦場から逃れられた御方。
その後の消息、行方については諸説あり、詳しい事は謎だらけで…おまけに同名の武将が同時代に存在しておりますので、正直 私の頭はチンプンカンプンなので御座いますが(涙)今後も他伝承地等を訪れる機会もあるかと存じますので、えっと…分かる範囲で記しておきたいかな…と思います(弱気)
* * * * * * * *

□ 藤原忠光(ふじわらのただみつ) □
生 年:不詳
没 年:建久3年2月24日(1192年4月8日)?
父 :藤原忠清
母 :不詳
兄 弟:忠綱、男、男、男、忠経、景清、光景
妻 :不詳
子 :盛高(若菜五郎)
本 名:藤原忠光、伊藤忠光
俗 称:平忠光
通 称:上総五郎兵衛尉
官 歴:治承4年5月30日(1180年6月24日)、左兵衛尉
上総五郎様は、藤原忠清様の御子様。
後世、源平物を取り上げる芸能作品において屡々英雄として描かれるようになった藤原景清(平景清)様の御兄様で御座います。
元々は平氏では無く、藤原の御出自。
藤原秀郷様の御子孫と伝わり、伊勢を本拠地に伊藤姓を号されていたようで御座います。
…“平忠光”様という御名前の御方は、歴史上に他にも何名か存在されておられまして……平良文様の御三男 村岡小五郎様とか、塩田赤木氏の祖といわれる赤木左衛門尉様とか…うぅん…非常に紛らわしいところで御座います;;
平家方の武将であった事から景清様が平姓で呼ばれるようになりましたので、御兄様である上総五郎様も平の御方として扱われるようになったのかもしれませんが、当時は平忠光”とは名乗られていなかったものと思われます。
御父様の忠清様、御兄弟方と御一緒に以仁王の挙兵鎮圧に尽くされました。
忠清様が弟 飛騨守景家様と共に立てられた宇治川合戦での軍功によって、治承4(1180)年に左兵衛尉に任命されたといわれます。
その後、御兄様の上総太郎忠綱様、それから景清様と共に、侍大将として平維盛様を総大将とする木曾義仲様追討軍に参戦されておりますが、倶利伽羅峠にて平家軍は大敗。
この戦いで、忠綱様は討死なさいました。
大勝した義仲様軍は京への進撃を開始、平家は安徳天皇と三種の神器を奉り、西国へと落ちられる事となりました。
忠清様は都に留まられましたが、上総五郎様、景清様は御一門に伴って共に都落ちをなさっておられます。
以後、滅亡を迎えるその時まで、上総五郎様と景清様は平家方の武将として奮闘を続けられていきます。
さる程に、木曾、東山、北陸両道をしたがへて、五万余騎の勢にて、既に京へせめのぼるよし聞えしかば、平家はこぞよりして、
「明年は馬の草がひについて、軍あるべし」
と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞のごとくに馳まいる。
東山道は近江、美濃、飛弾の兵共はまいりたれ共、東海道は遠江より東はまいらず、西は皆まいりたり。
北陸道は若狭より北の兵共一人もまいらず。
まづ木曾冠者義仲を追討して、其後兵衛佐を討んとて、北陸道へ討手をつかはす。
大将軍には小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、三河守知度、淡路守清房、侍大将には越中前司盛俊、上総大夫判官忠綱、飛弾大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、然るべき侍三百四十余人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日辰一点に都を立て、北国へこそおもむきけれ。
一ノ谷合戦では、熊谷直実様、直家様親子の先陣に際して登場されておりますね。
さる程に、しののめやうやうあけゆけば、熊谷は先に名乗たれども、平山がきくに名乗らんとやおもひけん、又かいだてのきはに歩ませより、大音声をあげて、
「以前に名乗つる武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣ぞや、われと思はん平家の侍共は直実に落ちあへや、落ちあへ」
とぞののしたる。
是をきいて、
「いざや、夜もすがら名乗る熊谷親子ひさげてこん」
とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、越中二郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経、これをはじめてむねとのつはもの廿余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。
「我と思う平家の武将共は、この直実と勝負せよ、勝負せよ!」
直実様の名乗り挙げに、
「どれ、夜通しに名乗る あの熊谷の親子を引っ提げて来ようか」
とばかりに、越中二郎兵衛盛嗣様、五藤内定経様と並んで、20騎余の兵と共に、上総五郎様と景清様も出陣なさいました。
熊谷は鎧にたたる矢どもかなぐりすてて、城の内をにらまへ、大音声をあげて、
「こぞの冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿に奉り、かばねをば一谷でさらさんとおもひきたる直実ぞや。室山、水島二ケ度の合戦に高名したりと名乗る越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。人ごとにあふてはえせまじものを。直実に落ちあへや落ちあへ」
とののしたる。
直実様は馬を射られて下馬、直家様も矢傷を負われますが、その矢を抜き払った直実様は尚も大声で、
「今年の冬の頃に鎌倉を出てから、命を兵衛佐殿に奉り、屍を一ノ谷で晒そうと思う直実である!室山、水島と2度の合戦で高名を挙げられたという越中二郎兵衛殿はおられぬか、上総五郎兵衛殿は、悪七兵衛殿はおられぬか、能登殿はおられぬか!?高名は敵によってこそ上がるというもの、誰でも相手にしていては上がるものも上がらなくなってしまう。さぁ、直実と勝負せよ、勝負せよ!!」
と、上総五郎様にも戦相手を望まれております。
屋島合戦では、急襲をかけて来られた源義経様の軍勢に立ち向かわれました。
元暦二年二月十九日
十九日 癸酉
(中略)
此間左藤三郎兵衛尉繼信、同四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉實基、同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏并内府休幕以下舎屋。
黒煙聳天、白日蔽光。
于時越中二郎兵衛尉盛繼、上総五郎兵衛尉忠光、<平氏家人>等、下自舩、而陣宮門前、合戰之間、廷尉家人繼信、被射取畢。
(以下略)
吾妻鏡によりますと、佐藤継信様、忠信様、後藤実基様、後藤基清様等が内裏や宗盛様の陣営に火をかけられた事で、平家方の御船から降りられた上総五郎様が盛継様等と宮門前に陣営を構えられた事が記録されております。
ここで始まった合戦にて、源氏方では継信様が御曹司を庇って討死なさっておられます。
屋島の後は、壇ノ浦。
ここまで兄弟力を合わせて平家に従軍されて来られましたが、敗戦を悟り 平知盛様や他武将方が次々と入水されていく中、密かに壇ノ浦を脱し、落ち延びられたと平家物語に語られます。
新中納言
「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」
とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、
「いかに、約束は違ふまじきか」との給へば、
「子細にや及候」
と、中納言に鎧二領きせ奉り、我身も鎧二領きて、手をとりくで海へぞ入にける。
是を見て侍共廿余人遅れ奉らじと、手に手をとりくんで、一所にしづみけり。
其中に、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛・飛騨四郎兵衛はなにとしてかのがれたりけん、そこをも又落にけり。
壇ノ浦より逃れられた後は紀伊国に潜伏、平家方の残党と反撃の時を待たれたといわれます。
ここから先の上総五郎様については、平家物語と吾妻鏡とでは全く違う結末が伝えられております。
先ずは吾妻鏡より。
鎌倉にて建久3年1月21日(1192年3月6日)、源頼朝様が永福寺造営の視察を行われた際に、左目を魚鱗で覆って片目の盲目を装い、懐中に刀を忍ばせて人足に加わって頼朝様暗殺を企てたとして捕まった御方が上総五郎忠光様であったという事で御座います。
建久三年正月二十一日
廿一日 甲午
渡御于新造御堂地、犯土之間、運土石、疋夫等之中、有左眼盲之男。
幕下覽恠之、彼者自何國、誰人進哉之由、被尋仰。仍景時、雖相尋之、不分明。
被召寄御前。
佐貫四郎大夫、伺御旨面縛之處、懐中帶一尺餘打刀。
殆如寒氷。
又覽其盲、魚鱗覆眼上。
弥知食有害心者之間、被推問之。名謁申言、上総五郎兵衛尉也。
爲奉度幕下、數日經廻鎌倉中<云云>。
即下賜于義盛、可召尋同意輩之旨、被仰含之<云云>
身柄を和田義盛様に預けられられ、約1ヶ月の間、屈辱の日々を送り、自ら飲み水を断たれたといわれます。
建久三年二月二十四日
廿四日 丁卯
於武藏國、六連海邊、囚人上総五郎兵衛尉忠光梟首。
義盛奉之。
日來斷漿水<云云>。
推問之間、申云。
更無同類、但越中次郎兵衛尉盛繼、去年之比、隠居丹波國、彼同存會稽之志歟。
於當時者。
難知在所、曽不定一所<云云> (吾妻鏡による)
そして 建久3年2月24日(1192年4月8日)、武蔵国六連海辺にて斬首。
以上が、吾妻鏡による上総五郎様の御最期…生年不詳につき、享年も不明で御座います。
平家物語では、同7年7月(1196年8月)に知盛様の遺児 知忠様を大将として、源氏方に反乱を起こされた事が記されております。
小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の軍より落てゆくゑもしらずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重を頼んで、湯浅の城にぞこもられける。
是をきいて平家に心ざし思ひける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国の住人等、われもわれもと馳集る。 (平家物語 高野本による)
平家物語では、壇ノ浦落ちメンバーは そのまま行動を共になさっていたような感じが致しますね。
知忠様は、頼朝様の妹婿である一条能保様の暗殺を企てられたと語られますが、この頃の吾妻鏡の記事は欠落しておりまして…詳細は定かでは御座いません。
上総五郎様は この時に討死なさったともいわれますが、諸本によって その辺りも様々なようで…確かな晩年の御様子や、その没年については謎に包まれた御方として伝えられております。
何処までも平家に付き従い、壇ノ浦敗戦の後にも尚、平家の武士として生きられたといわれる上総五郎様。
平家物語に残されるもの、吾妻鏡に伝えられるもの、各地の伝承として語り継がれるもの…真相は定かで無くとも、それらの行動に結び付く上総五郎様の御内心は、誰よりも御一門の滅亡を拒み、否定され続ける御生涯であったかのように…思えてしまいます。


忠光様は滅亡の時まで平家御一門に従われ、壇ノ浦にて戦場から逃れられた御方。
その後の消息、行方については諸説あり、詳しい事は謎だらけで…おまけに同名の武将が同時代に存在しておりますので、正直 私の頭はチンプンカンプンなので御座いますが(涙)今後も他伝承地等を訪れる機会もあるかと存じますので、えっと…分かる範囲で記しておきたいかな…と思います(弱気)
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□ 藤原忠光(ふじわらのただみつ) □
生 年:不詳
没 年:建久3年2月24日(1192年4月8日)?
父 :藤原忠清
母 :不詳
兄 弟:忠綱、男、男、男、忠経、景清、光景
妻 :不詳
子 :盛高(若菜五郎)
本 名:藤原忠光、伊藤忠光
俗 称:平忠光
通 称:上総五郎兵衛尉
官 歴:治承4年5月30日(1180年6月24日)、左兵衛尉
上総五郎様は、藤原忠清様の御子様。
後世、源平物を取り上げる芸能作品において屡々英雄として描かれるようになった藤原景清(平景清)様の御兄様で御座います。
元々は平氏では無く、藤原の御出自。
藤原秀郷様の御子孫と伝わり、伊勢を本拠地に伊藤姓を号されていたようで御座います。
…“平忠光”様という御名前の御方は、歴史上に他にも何名か存在されておられまして……平良文様の御三男 村岡小五郎様とか、塩田赤木氏の祖といわれる赤木左衛門尉様とか…うぅん…非常に紛らわしいところで御座います;;
平家方の武将であった事から景清様が平姓で呼ばれるようになりましたので、御兄様である上総五郎様も平の御方として扱われるようになったのかもしれませんが、当時は平忠光”とは名乗られていなかったものと思われます。
御父様の忠清様、御兄弟方と御一緒に以仁王の挙兵鎮圧に尽くされました。
忠清様が弟 飛騨守景家様と共に立てられた宇治川合戦での軍功によって、治承4(1180)年に左兵衛尉に任命されたといわれます。
その後、御兄様の上総太郎忠綱様、それから景清様と共に、侍大将として平維盛様を総大将とする木曾義仲様追討軍に参戦されておりますが、倶利伽羅峠にて平家軍は大敗。
この戦いで、忠綱様は討死なさいました。
大勝した義仲様軍は京への進撃を開始、平家は安徳天皇と三種の神器を奉り、西国へと落ちられる事となりました。
忠清様は都に留まられましたが、上総五郎様、景清様は御一門に伴って共に都落ちをなさっておられます。
以後、滅亡を迎えるその時まで、上総五郎様と景清様は平家方の武将として奮闘を続けられていきます。
さる程に、木曾、東山、北陸両道をしたがへて、五万余騎の勢にて、既に京へせめのぼるよし聞えしかば、平家はこぞよりして、
「明年は馬の草がひについて、軍あるべし」
と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵共、雲霞のごとくに馳まいる。
東山道は近江、美濃、飛弾の兵共はまいりたれ共、東海道は遠江より東はまいらず、西は皆まいりたり。
北陸道は若狭より北の兵共一人もまいらず。
まづ木曾冠者義仲を追討して、其後兵衛佐を討んとて、北陸道へ討手をつかはす。
大将軍には小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、三河守知度、淡路守清房、侍大将には越中前司盛俊、上総大夫判官忠綱、飛弾大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、然るべき侍三百四十余人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日辰一点に都を立て、北国へこそおもむきけれ。
一ノ谷合戦では、熊谷直実様、直家様親子の先陣に際して登場されておりますね。
さる程に、しののめやうやうあけゆけば、熊谷は先に名乗たれども、平山がきくに名乗らんとやおもひけん、又かいだてのきはに歩ませより、大音声をあげて、
「以前に名乗つる武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣ぞや、われと思はん平家の侍共は直実に落ちあへや、落ちあへ」
とぞののしたる。
是をきいて、
「いざや、夜もすがら名乗る熊谷親子ひさげてこん」
とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、越中二郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経、これをはじめてむねとのつはもの廿余騎、木戸をひらいてかけ出でたり。
「我と思う平家の武将共は、この直実と勝負せよ、勝負せよ!」
直実様の名乗り挙げに、
「どれ、夜通しに名乗る あの熊谷の親子を引っ提げて来ようか」
とばかりに、越中二郎兵衛盛嗣様、五藤内定経様と並んで、20騎余の兵と共に、上総五郎様と景清様も出陣なさいました。
熊谷は鎧にたたる矢どもかなぐりすてて、城の内をにらまへ、大音声をあげて、
「こぞの冬の比鎌倉を出しより、命をば兵衛佐殿に奉り、かばねをば一谷でさらさんとおもひきたる直実ぞや。室山、水島二ケ度の合戦に高名したりと名乗る越中次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿はましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。人ごとにあふてはえせまじものを。直実に落ちあへや落ちあへ」
とののしたる。
直実様は馬を射られて下馬、直家様も矢傷を負われますが、その矢を抜き払った直実様は尚も大声で、
「今年の冬の頃に鎌倉を出てから、命を兵衛佐殿に奉り、屍を一ノ谷で晒そうと思う直実である!室山、水島と2度の合戦で高名を挙げられたという越中二郎兵衛殿はおられぬか、上総五郎兵衛殿は、悪七兵衛殿はおられぬか、能登殿はおられぬか!?高名は敵によってこそ上がるというもの、誰でも相手にしていては上がるものも上がらなくなってしまう。さぁ、直実と勝負せよ、勝負せよ!!」
と、上総五郎様にも戦相手を望まれております。
屋島合戦では、急襲をかけて来られた源義経様の軍勢に立ち向かわれました。
元暦二年二月十九日
十九日 癸酉
(中略)
此間左藤三郎兵衛尉繼信、同四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉實基、同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏并内府休幕以下舎屋。
黒煙聳天、白日蔽光。
于時越中二郎兵衛尉盛繼、上総五郎兵衛尉忠光、<平氏家人>等、下自舩、而陣宮門前、合戰之間、廷尉家人繼信、被射取畢。
(以下略)
吾妻鏡によりますと、佐藤継信様、忠信様、後藤実基様、後藤基清様等が内裏や宗盛様の陣営に火をかけられた事で、平家方の御船から降りられた上総五郎様が盛継様等と宮門前に陣営を構えられた事が記録されております。
ここで始まった合戦にて、源氏方では継信様が御曹司を庇って討死なさっておられます。
屋島の後は、壇ノ浦。
ここまで兄弟力を合わせて平家に従軍されて来られましたが、敗戦を悟り 平知盛様や他武将方が次々と入水されていく中、密かに壇ノ浦を脱し、落ち延びられたと平家物語に語られます。
新中納言
「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」
とて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召して、
「いかに、約束は違ふまじきか」との給へば、
「子細にや及候」
と、中納言に鎧二領きせ奉り、我身も鎧二領きて、手をとりくで海へぞ入にける。
是を見て侍共廿余人遅れ奉らじと、手に手をとりくんで、一所にしづみけり。
其中に、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛・飛騨四郎兵衛はなにとしてかのがれたりけん、そこをも又落にけり。
壇ノ浦より逃れられた後は紀伊国に潜伏、平家方の残党と反撃の時を待たれたといわれます。
ここから先の上総五郎様については、平家物語と吾妻鏡とでは全く違う結末が伝えられております。
先ずは吾妻鏡より。
鎌倉にて建久3年1月21日(1192年3月6日)、源頼朝様が永福寺造営の視察を行われた際に、左目を魚鱗で覆って片目の盲目を装い、懐中に刀を忍ばせて人足に加わって頼朝様暗殺を企てたとして捕まった御方が上総五郎忠光様であったという事で御座います。
建久三年正月二十一日
廿一日 甲午
渡御于新造御堂地、犯土之間、運土石、疋夫等之中、有左眼盲之男。
幕下覽恠之、彼者自何國、誰人進哉之由、被尋仰。仍景時、雖相尋之、不分明。
被召寄御前。
佐貫四郎大夫、伺御旨面縛之處、懐中帶一尺餘打刀。
殆如寒氷。
又覽其盲、魚鱗覆眼上。
弥知食有害心者之間、被推問之。名謁申言、上総五郎兵衛尉也。
爲奉度幕下、數日經廻鎌倉中<云云>。
即下賜于義盛、可召尋同意輩之旨、被仰含之<云云>
身柄を和田義盛様に預けられられ、約1ヶ月の間、屈辱の日々を送り、自ら飲み水を断たれたといわれます。
建久三年二月二十四日
廿四日 丁卯
於武藏國、六連海邊、囚人上総五郎兵衛尉忠光梟首。
義盛奉之。
日來斷漿水<云云>。
推問之間、申云。
更無同類、但越中次郎兵衛尉盛繼、去年之比、隠居丹波國、彼同存會稽之志歟。
於當時者。
難知在所、曽不定一所<云云> (吾妻鏡による)
そして 建久3年2月24日(1192年4月8日)、武蔵国六連海辺にて斬首。
以上が、吾妻鏡による上総五郎様の御最期…生年不詳につき、享年も不明で御座います。
平家物語では、同7年7月(1196年8月)に知盛様の遺児 知忠様を大将として、源氏方に反乱を起こされた事が記されております。
小松殿の御子丹後侍従忠房は、八島の軍より落てゆくゑもしらずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重を頼んで、湯浅の城にぞこもられける。
是をきいて平家に心ざし思ひける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国の住人等、われもわれもと馳集る。 (平家物語 高野本による)
平家物語では、壇ノ浦落ちメンバーは そのまま行動を共になさっていたような感じが致しますね。
知忠様は、頼朝様の妹婿である一条能保様の暗殺を企てられたと語られますが、この頃の吾妻鏡の記事は欠落しておりまして…詳細は定かでは御座いません。
上総五郎様は この時に討死なさったともいわれますが、諸本によって その辺りも様々なようで…確かな晩年の御様子や、その没年については謎に包まれた御方として伝えられております。
何処までも平家に付き従い、壇ノ浦敗戦の後にも尚、平家の武士として生きられたといわれる上総五郎様。
平家物語に残されるもの、吾妻鏡に伝えられるもの、各地の伝承として語り継がれるもの…真相は定かで無くとも、それらの行動に結び付く上総五郎様の御内心は、誰よりも御一門の滅亡を拒み、否定され続ける御生涯であったかのように…思えてしまいます。

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