
音戸の瀬戸開削伝説と、広島県呉市音戸町に伝わる平家の伝承地。
音戸大橋を渡って倉橋島に入り、音戸観光文化会館うずしおさんと清盛塚の間の国道487号線を波多見方面へと進んで行きますと、高須3丁目辺りに“御所の浦”というバス停が見付かります。

バス停の向かいには、藤三 御所の浦ショッピングセンターさん。
その他には、特に これといったもの等は無いのですけれど……。
この場所は、長寛2(1164)年 平清盛様が、音戸の瀬戸を開削された際に仮御殿を建てられた事に因んで“御所の浦”と呼ばれているようで御座います。
清盛様は、一時的に こちらに御住まいになられ、工事の監督をなさっておられたという事で御座います。
そもそも、“御所”とは皇族の御方や将軍様等の貴人と その御住まいに対する尊称で御座います。
音戸の瀬戸を開削された頃といえば、清盛様は従二位。
最盛期には未だ至られておりませんが、着々と御一門を高みに盛り上げる為の手筈を整えておられ、時勢は平家を中心に動いていくようになっていた頃の事で御座います。
清盛様が初めて大臣職に就かれるのは、これより2年後の永万2(1166)年の事。
その翌年、仁安2(1167)年には ついに従一位 太政大臣の地位に上り詰められる事となる訳では御座いますが……そんな政治的な事とは関係無く、都から離れた この音戸の地で清盛様は
「御所様、御所様」
と土地の方々に尊ばれ、親しまれておられたので御座いましょう。
後年、福原の地に築かれた別荘が“雪見御所”と呼ばれておりますが、これは栄華を極めた後の事。
もしかすると、音戸の この場所が“御所の浦”と呼ばれるようになったのは後付けであったかもしれませんが、そこに敬愛の心が無ければ“御所”とは呼ばなかったのでは無いかと思います。
形として残される御所の遺跡等は御座いませんが、そんな心が地名となって伝えられているというのは、本当に素敵な事で御座いますね。
ちなみに…開削の同年12月17日(1165年1月30日)に、清盛様は京にて後白河上皇の為の三十三間堂こと蓮華王院本堂を完成させられております。

また この辺りは、瀬戸の渦潮が酷くて船の航行が出来なくなった時に、避難場所として潮待ちをした事から“泊”とも呼ばれているそうで御座います。
開削当時、大変な急流であったといわれる音戸の瀬戸。
清盛様は波に睨みを利かせて その難を乗り切られたと伝えられておりますが、もしかしたら時には この辺りで激しい渦潮を眺められた事もあったのやもしれません。


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