
こちらの建物は、広島県呉市音戸町鰯浜に御座います おんど観光文化会館うずしおさん。
音戸の瀬戸を開削された平清盛様にまつわる伝説等について調べる為の拠点の1つとして屡々利用させていただいております。
全国各地に平家伝承地は数多く伝えられておりますが、その全盛の頃の偉業を今も感じさせられる土地といえば、矢張り安芸国で御座いましょう。
安芸国は、私の故郷。
地元では英雄として称えられる清盛様や平家御一門で御座いますが、いざ関西関東へと出てみれば、何故か悪評の方が割と良く耳に入って参ります…。
人間という生き物は、どうして他者を見る時、良い面よりも悪い面の方で記憶するので御座いましょう。
確かに、平家物語にも語られておりますように、反論出来ないような場面は多々御座いますが…で、でも…;;
宮島に上陸する度、厳島神社の御社殿に立つ度に、先ず考えるのは清盛様の事で御座います。
今の宮島の姿は、清盛様あられてこそのもの。
この想いを、何と言葉に表したら良いのだろうかと いつも思います。
うずしおさんは、地元の名産品販売所や食事処等を兼ね備えた観光情報施設。
こちらの2階には、音戸に伝わる“清盛祭”を御人形等を使った再現を交えつつ紹介するミュージアムフロアがあり、
3階の しおさいホールでは、清盛様の日招き伝説を基に制作された瀬戸開削のアニメーション作品「小さな瀬戸の大きな物語」を観る事が出来ます。
2階3階については、また別の機会に記す事と致しまして…本日は、1階フロアに展示されている音戸の歴史と、そして 以前にも記してはおりますが清盛様の音戸開削、日招きの伝説について、改めて触れておきたいと思います。

現在は呉市に属する音戸の地で御座いますが、つい最近までは広島県安芸郡の音戸町で御座いました。
私が広島を離れる頃には未だ音戸町で御座いましたので、いつの間に!??という感じだったので御座いますけれど…。
音戸のある倉橋島には知人も住んでおりましたので、広島不在中とはいえ、知らなかった事が少し恥ずかしくも感じられました;
漁業が盛んで、牡蠣や炒子等を特産とする、瀬戸内の島の1つで御座いますね。
音戸という地名が、私は とても好きで御座います。
“音戸”と書いて“おんど”と読みますが、その地名には幾つかの説や経緯があるようで、同じ音でも様々な漢字が充てられていたようで御座います。
現在、統一されている“音戸”は、字画の複雑化を避ける為に明治39年に定められたもの。
それ以前には、“隠戸”や“音渡”“隠渡”と表記されたり“於牟登迫門”と呼ばれたり…また、清盛様の功績を讃えて建立された清盛塚に由来して“御塔”と記された事もあったようで御座います。

うずしおさん1階の情報プラザでは、音戸の歩みを太古の時代より辿った年表を見る事が出来ます。
古代、古墳時代の頃には、既に人々が居住し生活なさっていたといわれる倉橋島。
古墳から発見された人骨には、炭素化した米粒が見られ、その頃には既に水田を開き、稲作を行われていた事が伺えております。
奈良時代…倉橋島には万葉歌碑が御座います。
そちらについても いずれ記そうとは思いますが、万葉集によりますと、倉橋島は 現在の倉橋側を“長門島”、音戸側を“波多見島”と呼んでいたようで御座います。
伊予国の河野一族が こちらに向かわれる際に波が多く見られた事から波多見の島と名付けられたという事で御座います。
そして、平安末期。
平家御一門と安芸国との繋がりは、平正盛様、忠盛様が瀬戸内の海賊追討等を行われた事に始まるといわれております。
つまり、“源氏と平家”として扱われる“平家”は、その始まりと時を同じくして、安芸国との関係を持たれていったので御座いますね。
久安3(1146)年、清盛様は安芸守に任ぜられると、以後10年の歳月をかけて国司と知行国との絆を深め、厳島神社を平家御一門の氏神様として篤く信仰されるようになりました。
清盛様以後は、保元元(1156)年に経盛様、それから頼盛様も安芸守に任官されていらっしゃいます。
平家都落ちに際しては、屋島から壇ノ浦へと向かわれる途中に安徳天皇を奉じて近くの能美島へ御一門が立寄られたといわれ、それに纏わる伝承地等も島内に伝えられております。
室町期には、波多見島を巡って竹原小早川氏と野間氏が戦乱を繰り広げております。
野間氏は、伊予国の水軍出身であったといわれる、私の故郷 矢野の領主様。
天文24(1555)年に毛利氏によって矢野城を攻められ、降伏の後に一族を皆殺しにされて滅亡したと伝えられております…(現在も、末裔の御家は矢野にいらっしゃいますが)
竹原小早川氏は、沼田小早川氏の御分家筋で御座いますね。
小早川氏は元を辿れば、桓武平氏 土肥氏より繋がっております。
源頼朝様に仕えられた土肥実平様の御子様、遠平様が小早川姓を称されるようになり、安芸国沼田庄の地頭職を任じられた事に始まります。
沼田庄といえば、元は平家の所領であった土地…時代の変遷を感じます。
波多見島をめぐる闘争は、結果的に大内氏の仲介によって波多見島は“瀬戸島”と“渡子島”に二分される事で治められたといいますが、野間氏が滅んだ後は毛利元就様の統制の元、小早川氏によって支配されるようになりました。
その後、江戸時代に至ると、音戸の瀬戸には伝馬船が往来するようになり、舟渡が始まります。
そして明治、大正、昭和…現在と、時代の変化と共に大きく発展を遂げられながらも、港町としての風情を今に伝えておられます。

厳島神社を崇敬された清盛様は、厳島の海上に見事なまでに美しい御社殿を建立。
幾つ島神社に伝わる史料には、厳島参詣の便を整える為に清盛様が音戸に芸海の航路を開かれた事が記されております。
ここで有名なのが、清盛様の“日招き伝説”で御座いますね。
清盛様の瀬戸の音頭 開削時期については諸説御座いますが、一般的にいわれているのが長寛2(1164)年、清盛様 御年48歳の時の事。
10ヶ月に及ぶ難工事の末、竣工まであと僅かとなった永久元年7月16日(1113年8月28日)の夕刻…引潮を見計らっての作業には限度があり、あと一歩というところで日没が近付いてしまいました。
何が何でも この日の内に完成させねばならぬと判断された清盛様は、右手に金の扇を掲げられ、西へと沈んでいく太陽に向かって、
「返せ、返せ」
と呼び止められました。
すると……不思議な事に、沈み掛けていた筈の日輪が天へと舞い戻り、その明かりで更に工事が続けられ、無事に その日の内に開削成就と相成ったので御座いました。
自然の理をも動かされ、天地を照らす日輪をも味方に付けられたという、清盛様の この伝説は、最早 広島っ子だけの郷土昔話では御座いませんよね。
地元には、清盛様が好いておられた厳島の巫女の気を引く為に1日で開削されたという伝承も御座いますが、1日は流石に神業過ぎで御座いますよね〜(笑)

また 清盛様は、音戸の瀬戸開削に際して、それまでは このような難工事には不可欠であった人柱を立てての祈願を行われなかったと言い伝えられております。
「人柱等といった、くだらぬ迷信に惑わされる私では無い」
神仏を畏れ、占いや祈祷といった儀礼が重要視されていた この当時、これだけの偉業を成し遂げようとされる信心深い清盛様が、これを拒まれたという事は、土地の方々にとっては さぞ驚愕の事実だったので御座いましょう。
されど、誰しも身近な人命は尊いもの…もしも、ここで人柱が立てられていたとすれば、当然 悲しまれる方も居られた事で御座いましょう。
清盛様は、人柱の代わりに御自ら記されたという一字一石経を海に沈められ、工事に臨まれたという事で御座います。

清盛様の瀬戸の音戸開削は、史実では無いという見方をされる場合も御座います。
瀬戸内の歴史を様々な方面から考えた時、平安末期には既に瀬戸の音戸は海峡としての機能を持っていた…つまりは、元々 海峡であったのでは無いかという説も挙げられるようで。
音戸には、清盛様の偉業を讃え偲んで踊られるようになった念仏踊や、そこから発展して行われるようになった清盛祭が、現在も続けられております。
そこで感じられるのは、清盛様に対する感謝の心と、郷土への愛…。
真偽云々よりも、伝えたいのは そんな文化で御座いますね。

開削された音戸の瀬戸は、大変な急流であったといいます。
向かい潮で船が波に乗らない事に御怒りになられた清盛様は、舳に立たれて海上を睨まれたのだとか…。
その途端、急流がぴたりと止まり、航海に便利な海峡になったと伝えられております。
人の域を超えた、伝説的人物――平清盛様は、瀬戸の英雄で御座います。


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