
沖縄県読谷村には沢山の慰霊碑、慰霊の塔が建立されておりますが、その殆どは戦後に建てられたもので御座います。
その中で、唯一 戦前から建立されていた碑を慰霊碑として使用されているのが、字渡慶次の忠魂碑。
忠魂碑は、明治新政府誕生以降に自国の為に戦い、亡くなられた方々の御霊を御祀りする為に建立された慰霊碑。
日清、日露での戦没者供養を目的として各地に立てられるようになりました。
皇民化教育を背景に、小中学校の校庭に建立される事も御座いました。
戦後、GHQによって撤去されたものも多いといわれますが、現在でも忠魂碑の残る学校、神社等が多く存在しております。
渡慶次に建立されている この忠魂碑は、沖縄戦の戦禍によって壊滅的な損傷を受けたようで御座いますが、土地の方々の誠意と懸命な努力によって修復と重ね、現在の姿に至っているそうで御座います。

渡慶次の忠魂碑が建立されたのは、大正2年10月の事。
在郷軍人会によって建てられたもので御座いました。
台風により破壊されてしまった為に、昭和4年10月 改築。
同胞を 護りて 逝きし 御霊をば
まつりて 永久に 平和願はむ
こちらに御祀りされている御霊は、全部で121柱。
内、軍人が67柱、軍属が31柱、そして23柱の一般住民等が合祀されております。
天皇中心の国家政策の一環として建立された忠魂碑が、何故今も この地に伝えられているのだろうか…、最初は そんな疑問が御座いました。
実際に訪れてみて、とても綺麗に整備されている事に更に驚き、土地の方々の想いの深さを知りました。
戦後は、昭和25年に台風にて倒壊、修繕が行われております。
同年12月には大東亜戦争犠牲者刻銘碑が建立され、昭和41年の美化工事、昭和59年の改修を経て、現在に至ります。
慰霊碑として再利用
忠魂碑は 国のため 天皇のため 戦争で犠牲になった軍人軍属の忠義の魂を顕彰する碑である。
読谷村には二基現存するが、渡慶次区の建立年月日は古く区民は長年慰霊碑としての意識を持ち続けている。
この心情に配慮して、この歴史的構築物に困窮平和の願いをこめ慰霊碑として利用することを合意するものである。
平成十八年八月十五日 読谷村字渡慶次

渡慶次の忠魂碑付近には、アタトーヤーと呼ばれる琉球王朝時代より伝わる史跡が御座いました。
神事や御祈祷所が行われる為の施設のようで、興味をそそられました。
アタトーヤー(渡慶次之殿)
アタトーヤーは巫女や根神が集って祭事やその他神への祈願等が行われた所で、神アサギと同一のものであると思われる。
昔、神アサギは村屋がある所にあったようで、首里王朝尚清王時代(一五三二)に行政上の便宜の為各地方的信仰を統一する目的で首里王府より任命された巫女があった。
任命された巫女は根神の上位にあって祭事を行ったようである。
これが即ちサチ原巫女である。
大正の末期頃迄は巫女や各村の根神が集まり、ツタを頭に巻き、村から村の神サギを鐘を打ち鳴して廻り歩き祭事を行っていた。
因みにサチ原巫女の詰め所は瀬名波だったようで、現在でも瀬名波巫女殿内(野殿内)と呼ばれている。
尚このサチ原巫女は各村の根神の上位にあって高志保より以北を受持っていたようである。
各門中もアタトーヤーで御願するが、クディー(神人)がいる時は、その人は白衣装で祭事を行うのである。
アタトーヤーは神アサギともいう。
殿とも言う。
読谷村北部では通称アタトーヤー、南部地域では殿といっている。
一九九九年七月二十日改築

渡慶次集落の中央部地下には、千人程の大人数を収容出来る自然洞窟群があるそうで御座います。
自由に立ち入る事は出来なくなっているという事で御座いましたので、もしかして このフェンスの先に入口があるのかなと思いましたが、何と無く人には聞けず…詳細は不明で御座いました。
沖縄県洞穴実態調査の記録によれば、洞長は500メートル。
内部には立って歩けるような広い部分もあれば、身を縮めないと奥へは進めないような場所もあるそうで御座います。
奥深い地下鍾乳洞の為、日の光は届かぬ暗闇。
昭和19年、県や村当局の勧めにより、集落の各家庭では それぞれの庭先に防空壕が造られるようになりました。
然し、戦況が悪化する中で それらの簡易な防空壕では身を守る事が出来なかった為、爆撃にも耐えられる避難壕として、この洞窟が利用される事となりました。
同年3月23日夕刻、米軍上陸が迫っており、この付近は激戦地になる為、非戦闘員は国頭方面へ避難せよという命令が守備軍より下されました。
それによって多くの方々が国頭方面へと避難されましたが、100人余の住民方は 依然として、この洞窟内に留まられておりました。
その方々は4月10日頃、米軍に投降、収容所へ送られる事となりました。
然し、それでも未だ洞窟内に残っておられた方々もいらっしゃったようで。
翌年の秋、読谷村再建の為に入られた先遣隊の方々によって、ようやく この暗闇から脱出されたという事で御座います。

こちらは、長浜地区の真砂之塔。
昭和34年に建立された この慰霊塔は、海を背に104柱の方々の御霊が御祀りされております。
長浜は、読谷村内の北に位置する、恩納村と隣接した地域で御座います。
戦前はフィリピンや南洋諸島等へ出稼ぎに出る方々が多かったといわれますが、戦時中の県外への疎開は殆ど行われなかったそうで御座います。
長浜の集落には日本軍施設が殆ど無く、その為 兵隊を見掛ける事は少なかったといいます。
民家への日本軍駐屯も少なく、付近の軍施設は集落の南台地にあったという高射砲陣地のみであったそうで御座います。
地上戦開始前、長浜集落の方々は空襲時にウフガマとカンジャーヤーガマという避難壕に避難されておりました。
地上戦が始まるに際して国頭方面へ避難するよう伝達を受けた後も、故郷を離れず長浜に残った方の方が多かったといいます。
米軍が上陸した後、ウフガマへ避難されていた住民は全員無事に救出されましたが、カンジャーヤーガマでは中々投降しなかった為、ガス弾を投げ込まれ、それによって亡くなられた方もおられました。
沖縄地上戦初期の頃に捕虜となった長浜の方々は、保護された後 暫くは長浜に留まっておられましたが、後に米軍によって様々な収容所へ送られ、約2年の間を収容所にて過ごす事となりました。
その際に起こった行き違いで一家離散になった家庭もあったようで御座います。
沖縄戦で亡くなられた長浜出身戦死者数は定かとなっておりませんが、平和の礎に刻まれた刻銘者名簿記載の人数等を合計すると、1100人以上の方々が犠牲になっております。


何だか自分はもっと学ばないと駄目かなと思います、防空壕代わりの洞窟、戦争時代のものが残っている事で歴史をつないでいく。
忘れてはいけない歴史だから、とても大切な事ですね。
矢張り、実際に戦争を経験している訳では無いので、本当の意味で 当時の方々の全てを理解するという事は出来ないのかもしれません。
でも、知らないという事がどれだけ幸せな事か…過去を学び、疑似体験をしていく中で、何度も感じた恐怖や絶望を現実にしない為に、私はいろんな事を知って、それを伝えていかなくてはならないのだなぁと感じます。
遺された戦跡は何も語りませんが、様々な想いを感じさせてくれます。
そんな小さな きっかけのひとつひとつを未来に活かしていきたいですね。
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