日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

清流せせらぐ、いもせの丘に。
五百瀬01


奈良県吉野郡十津川村五百瀬は、新宮より熊野本宮大社を経由して国道168号線を北上、十津川温泉郷、湯泉地温泉、十津川村役場前を通過して更に上り、風屋ダム、川津大橋を越えて神納川沿いの細い道路を奥へ、奥へと進んだ先の小さな集落。
平維盛様の伝承と御血筋が今に伝えられる地で御座います。

五百瀬02…腰抜田は、この下の川底に埋もれてしまったようです


角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。
御供の衆には、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相摸、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎、彼此以上九人也。
宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。
 (中略)
数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。
御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。
御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはかばかしきも歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける


太平記巻第5“大塔宮熊野落事”にも伺う事が出来ますように、十津川は大塔宮様こと、護良親王様縁の村で御座います。
村内には幾つかの宮様の足跡が今に伝えられておりますが、ここ五百瀬も その1つ。
五百瀬は、維盛様伝承地であると同時に、大塔宮様の史跡が語り継がれる地でも御座います。

えっと…個人的に鎌倉中期以降は少し苦手な年代になってしまうので御座いますが、建武の新政期頃まではギリギリ守備範囲でも御座います(中途半端…/苦笑)
未だ未だ勉強中では御座いますが、大塔宮様は鎌倉宮の御祭神でも御座いますし、今後もっと深く追求して考えていきたいと思っている御方のひとりでも御座いますので、いずれ詳しく記したいとは思っております、

   腰抜田

 南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王は、五百瀬の荘司に行く手をさえぎられ止むなく錦の御旗を渡し通行を許された。
遅れてきた宮の家来 村上義光は大いに怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばし、御旗を奪い返す。
その時家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようになったが、明治の大水害で埋没し、今は川底にねむっている。
 (五十 米下手に石碑があります。)



伝承によれば、大塔宮様は五百瀬を通過された際に荘司の妨害を受け、御家来か錦の御旗を置いていかねば通さないと脅迫されたので、御旗をこの地に残されたといわれております。
その後、遅れて一行の後を追われていた宮様の御家来 村上彦四郎様が それを知って御怒りになり、荘司の御家来を水田へ投げ飛ばして御旗を取り返したという事で御座いました。
投げ飛ばされた荘司の御家来がかされた水である事から、以後はその田を“腰抜田”と呼ぶようになったと伝えられます。
“腰抜田”と書いて、そのまま“こしぬけた” “こしぬけだ”と読むそうで御座います。
駄洒落っぽいといいますか、若干の風刺が含まれている印象があると申しましょうか…上手に名付けられたなぁ〜と思わず感心してしまいました(笑)

   南朝史跡 腰抜田

腰抜田は この附近にあったが 明治二十二年の大水害で水没した
     平成六年三月 十津川村教育委員会 建之



   腰抜田

 南北朝の頃、大塔宮護良親王は北朝方の手を逃れ、一時戸津川郷に難を避けられ五百瀬を通過されようとした時、五百瀬の荘司に行手をさえぎられた。
 荘司は宮の通行を認める代わりに、
「家来か錦の御旗を置いていけ」
と要求した。
 宮は大事な家来を置いていくわけにはいかないと、止むなく錦の御旗を置いて通行を許された。
暫くして宮の一行に遅れた家来の村上彦四郎が荘司の館を通りかかり、錦の御旗があるのを見付け、大いに怒り、荘司の家来を水田の中に投げとばし、錦の御旗を奪い返して宮の後を追った。
 その時、投げとばされた家来が、腰を抜かしたのでその田を腰抜田というようになったという。
 腰抜田は明治の大水害によって埋没し、現在は歴史を秘めたまま川底にねむっている。



角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、
「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。
されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」
と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、
「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」
と問せ給へば、戸野兵衛、
「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」
とぞ申ける。 (太平記による)


太平記の成立年代は定かでは御座いませんが、室町期には編纂されていたものと考えられております。
室町といえば、古典芸能作品等で源平合戦物が流行した時代でも御座いますけれど……五百瀬の維盛様伝承は、その影響を受けてのものでは無いように思います。
太平記の記述には、様々な根拠から作者の想像が多く描かれている物語といわれている為、断言は出来ませんが、この頃の十津川では維盛様の落ち延びられた伝承が語られていたようで御座いますね。

五百瀬03


五百瀬トンネルの左手前、現在は機能していない五百瀬小学校の傍にある“政所”と、その背の中腹に御祀りされた祠が、五百瀬に伝わる維盛様の御屋敷跡と御墓であるといわれております。

伝承によれば、屋島を抜け、五百瀬へ落ちて来られた維盛様は、御子孫を残され この地で没されたという事で御座います。
御命日は、寿永3年3月8日(1184年4月20日)との事――史実上、維盛様が那智沖で入水して果てられた御命日は、寿永3年3月28日(1184年5月10日)という事になっております。
……それ以前、という事に少々驚いてしまいますね…。
落ち延びて来られたというのであれば、もっと長生きなさったのでは無いかしらと思いたいところなのですけれど…。
大和名所図会の記述には“平維盛墓戸津川五百瀬村にあり、古老曰く寿永年中、乱を避けてここに来たり、姓を変じ老死すとなん”とあるようで御座いますし、もしかすると、この御命日は 維盛様が“亡くなられた事にする為”に定められたものなのかもしれませんね。

明治期以前まで この辺りにあったという南望山宝蔵寺という御寺さんには、“千手院殿前三位中将義山貞公大居士”と、維盛様の御戒名が過去帳に記されていたのだそうで御座いますが、廃仏毀釈に際して宝蔵寺さんは廃寺となってしまったようで…その記録は現存しないのだそうで御座います。

維盛様の御子孫は、“小松”姓を名乗られ、家宝として平家の宝刀 小烏丸を代々伝えられて来られたという事で御座います。
然し、明治期になって 御家の事情により、小烏丸をはじめとする諸々の伝承物は何処かへと流されてしまったのだとか…以後、その行方は知れず、残念ながら こちらも現在のところ、確認出来ない状況のようで御座います。

五百瀬04


こちらが、政所と呼ばれる辻家住宅。
この地方で最も古い建造物であるといわれており、主屋、表門、棟札は奈良県の有形文化財に指定されております。
棟札には“享保十乙巳年十一月□日”、薬医門形式の表門には“嘉永六年丑十一月二十三日 奉修覆”とと記されているそうで御座います。

平安時代の“政所”といえば、親王様や従三位以上の公家が荘園等の領地を管理する私的な家政機関の意で御座いますね。
維盛様は従三位で御座いましたので、居を定められたこの地に政所と呼ばれる建物を築かれたとしても、目立ちはしそうですけれど不思議な事では無いように思えます。

   政所

五百瀬小学校近くに山家では珍しく格式のある表門をもつ家があります。
政所と呼ばれ、この地方で最も古い建物といわれています。
棟札には享保十乙巳年(1725)と記されており、表門は薬医門形式で嘉永六年(1853)奉修覆となっています。
1980年、主屋、表門、棟札が県指定有形文化財になりました。
平維盛伝説によれば、小松姓を名乗る維盛の子孫が、平家の宝刀小烏丸を代々伝えて住んでいたといわれますが、明治になって没落、宝刀の行方も一家離散と共にわからなくなりました。



元々は維盛様直系と伝わる小松の御家が代々管理されておられましたが、現在 こちらには小松家とは別の御家の方が御住まいで御座います。

五百瀬05


政所の背に見える祠へは、案内板裏を登って行く事が出来ます。
政所の敷地内に御祀りされている御社で御座いますので、かつては直結した御参道が使用されていたので御座いましょう。

五百瀬06


こちらが、維盛様の御墓と伝えられる御社で御座います。

□ 平維盛の墓(たいらのこれもりのはか)

所在地:奈良県吉野郡十津川村五百瀬
御創祀:不明


実は私、事前に資料等で写真を拝見していたにも関わらず、何故か全然違う“祠”の御姿を想像しておりました。
遠目に彼処の御社が御墓だと確認しつつも、それで祠は何処にあるのだろうか等と全く意味不明な事を考えておりまして……も…申し訳御座いません;;

最初に御祀りされた年代等、詳しい事は伝えられていないようで御座いますが、御墓というよりは、御家の守護神様として建立された祖霊社なのでは無いでしょうか。
もしかすると、覆殿になっていて中に墓石や供養塔のようなものが御神体として奉安されているのかもしれないな…等と、色々な想像を巡らせてしてしまいます。

幾度かの修復や再建を経て、現在の御社となられたようで御座います。

   平維盛の墓

 平安時代末期の武将で平清盛の孫・源平合戦の最中、屋島から逃れ高野山に入り出家。
まもなく、那智の海で入水したといわれている(享年二十七歳)
しかし、十津川村に残る伝承によれば、
「維盛は五百瀬に亡命し、その血統は代々小松性を名乗り、平家重代の宝刃小烏丸を伝え、屋敷は政所屋敷といった」
とある。
ここにある祠が、平維盛の墓と伝えられている。



五百瀬07


何と無く気になったのは、基壇の上に残されていた何かの台座?のような跡…。
単純に、自然災害等の影響で燈籠か何かが倒壊してしまったのかもしれませんけれど、宝蔵寺さんの事を思うと、つい 廃仏毀釈運動で何かが取り払われたのだろうかとも考えてしまいます。
私の勝手な憶測で御座いますので何の根拠も無いのですけれど、維盛様の御墓が御社の形を取られたのは近代に至っての事なのでは……という気も致します。
実際に五百瀬を訪れて、新たに抱いた疑問等も御座いますので、その辺りも今後調べていきたいところで御座いますね。

小高い中腹に位置する維盛様の御墓からは五百瀬の集落が一望出来、とても見晴らしが良かったです。
現在は道路両脇に家々が軒を連ねておりますけれど、当時は もっと民家も少なかった事と思われますので、今見えない場所までも見通せていたので御座いましょうね。
絶え間無く聞こえる清流の旋律も心地良くて…あぁ、だから この場所を選ばれたのかなぁと感じる場所で御座いました。

五百瀬08


御墓から政所前まで降りて来た時、五百瀬トンネル側から走って来た自動車の運転手さんが、腰抜田について訊ねて来られました。
直ぐ傍の案内板には、維盛様の御墓の事と並んで 大塔宮様の五百瀬通過伝説の事が記されておりますので、通り掛かりに それを御覧になって御興味を持たれたのだそうで御座います。

腰抜田は明治期の大水害にて川底に水没してしまい、石碑と案内板のみで 現在は面影を感じる事が出来ないのが残念で御座いますが、見えないけれど あの辺りに…!と思うと、とってもわくわくしてしまいますよね♪
目に見えるものだけが、歴史を伝える術では御座いませんもの。
形に遺せないものは、人が語り継いでいく事で遺していく事で後世へ繋いでいけたら素敵だと思うのです。
時代の変化と共に その形が変わっていく事も御座いますが、変化もまた歴史の流れの大切な一部。
それを感じられる事を、心から幸せだと思います。

五百瀬09


今回、五百瀬の伝承について教えていただきました、小松家の奥様で御座います。
維盛様直系の御家系という事で、御家に伝わる御話等を聞かせて下さいました。
その他にも、色々な御話をさせていただきまして…楽しい時間を過ごさせていただきました。
とても御優しい奥様で、笑顔が大変素敵で御座いました〜♪
日差しの強い暑い午後、一緒に歩いてまわって下さいまして、有難う御座いました。

五百瀬10


五百瀬への道程は、初心者の私には ビクビクハラハラの連続で御座いました。
然程広くも無い道路幅なのに、後続車も対向車も工事用のでっかいトラックばかりで…とにかく避けるのに必死で御座いました〜;
どうやっても避ける幅が無いー!!!と明らかに慌てていると、トラックから運転手さんが出て来て誘導して下さったりも致しましてー……色々と御迷惑を御掛けしてしまいました…も、ももも申し訳御座いません;;
あわあわしたり、ペコペコと頭を下げるばかりの私に、窓越しに笑顔を返して下さる運転手さんもいらっしゃいまして…あぁ人情が身に沁みますー(涙)

既に免許取得後の帰省の際に、広島と島根の県境付近にて険しい山越えルートは経験済みで御座いましたが、あの時は助手席に母が居てくれましたので……矢張り、ひとりだと流石に怖いなぁという気持ちと延々葛藤する羽目になりました(苦笑)

えー…っと、この後 何が起こったかについては、恐ろしくて思い出したくも御座いませんので敢えて語るまいとは思いますが…龍神への道程は本当〜に、恐怖…で御座いました;|||
久々に、本気で死を覚悟した あの瞬間の絶望感は、きっと一生忘れられません;;
今後も、十津川村内、龍神村内の史跡は巡っていく予定で御座いますけれど、もう2度と あの道路だけは走りませぬ…と、心に強く誓った私で御座いました。

* * * * * * * *
(※以下、私信で御座います)


この度、五百瀬の伝承地巡りをさせていただくに際して、色々な方に御助力を賜りました。
このようなところで御礼申し上げるのは大変失礼な事かと存じますが、こうして記事を書かせていただけるのも、偏に皆様の御蔭で御座いますので…先ずは こちらにて一言御礼を伝えさせて下さいませ。


小松昭子
本当に御世話になりました。
御話をさせていただいた上、政所や御墓へ御案内下さいまして、有難う御座います。
美味しい御茶とあたたかい御心遣いが、とても嬉しかったです。
共に慣れない運転にワタワタしてしまいましたけれど、無事に 夜には龍神へ到着し、熊野三山へ御参りを済ませて東京に戻って来る事が出来ました。
五百瀬には、そろそろ蛍も飛び交っている頃で御座いましょうか。
また是非、遊びに行かせて下さいませ。
この度は本当に有難う御座いました。


*全国平家会 小松和夫
小松の奥様を御紹介いただきました。
唐突な申し出にも関わらず、快く応じて下さいまして、有難う御座います。
維盛様の伝承地を巡る為に免許を取得したと言っても過言で無い程に行きたかった五百瀬の地を、自分の足で歩く事が出来て嬉しかったです。
事前、事後まで、色々と気にかけていただきまして、何よりも心強く感じました。
小松家縁の方々と御話出来る機会は、日常には無い事で御座いますので、私には この上無い幸せで御座います。
今後とも、どうぞよろしく御願い申し上げます。


十津川村教育委員会
最初に村役場に質問させていただきましたところ、教育委員会さんの方へ…と御紹介いただきまして、御連絡をとらせていただきました。
御忙しい中、地図や資料等を送付していただきまして、大変助かりました。
本当に、有難う御座いました。



前々から、十津川を通る度に ちょこまかと情報収集はしておりましたが、矢張り資料の上で見るのと実際に訪れて見聞するとでは、全く違うものだなぁと改めて実感させられました。
公共の交通機関を使わず、自分ひとりで車を運転して…というのも初体験で御座いましたので、とにかく緊張しっ放しで…それだけに、いつも以上に達成感のような感動を味わう事が出来ました。
今後も、十津川村について追及してみたい事、行ってみたい場所が色々と御座います。
十津川に伝わる諸々の大塔宮様関連地も巡りたいですし、歴史民俗資料館や公民館等で調べたい事も御座いますし、十津川温泉にも入ってみたいですし、谷瀬の吊橋も渡ってみたいですし、玉置神社にもまた参拝したいです〜。
併せて、車の運転にも慣れていきたいなぁと思っております。
初心を忘れず、精進して参ります〜!


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