日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

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高野山の熊谷寺さん。
高野山 熊谷寺01


高野山の山上に御座います熊谷寺さんは、奥の院への表参道入口 一の橋付近の平敦盛様、熊谷直実様の供養塔見真大師(親鸞様)宝篋印塔九条兼実様墓所覚信尼(親鸞聖人女)様墓所、それから 奥の院手前の法然様墓所を管理なさっている御寺さんで御座います。
一の橋からは、歩いて5分程度の場所で御座いましょうか。

こちらは“熊谷寺”と書いて、そのまま“くまがいじ”と読みます。
“ゆうこくじ”さん、では無いのですね〜(笑)

高野山 熊谷寺02


□ 熊谷寺(くまがいじ)

所在地:和歌山県伊都郡高野山町高野山
御創建:承和4(837)年
御開基:葛原親王
御開山:真隆阿闍梨
御本尊:阿弥陀如来
宗 派:真言宗
山 号:高野山
旧 称:智識院、持宝院


熊谷寺さんは、承和4(837)年 桓武平氏の祖で高望王の御父様ともいわれる葛原親王の御願によって建立されました。
初代住職は、弘法大師様の法孫、真隆阿闍梨と伝えられます。

法然様、親鸞様、直実様、兼実様に御縁の深い寺院として名高い熊谷寺さんで御座いますが、そもそもは こちらが直実様の御家の菩提寺であった事に始まる御縁のようで、当時は“智識院”さんと号されていたそうで御座います。

建久元(1190)年、直実様が敦盛様7回忌の法要を営まれる為に、師である法然様の指示に従って高野山に登られ、こちらへ寄寓なされれたと伝えられます。
その際に、直実様は敦盛様の位牌、供養塔を建立され、以降14年間に渡って高野山に留まられて専修念仏に励まれたという事で御座います。
吾妻鏡によれば、直実様の御出家は建久3(1192)年の事のようで御座いますが、熊谷家に伝わる文書によれば その前年の時点で蓮生様と御出家後の御名を伺う事が出来ます…が、この年に高野山に登られて以後14年間も留まられたとなると、その間に直実様が開かれたといわれている諸寺院さんは一体…;という事になってしまいますね〜(苦笑)

建仁元(1201)年、鎌倉幕府3代将軍 源実朝様の命によって、源平合戦における源平両氏うしの戦死者大追悼会が営まれる事となりました。
その際に特請を受けて高野山に登られたのが、法然様であったそうで御座います。
法然様は 親鸞様と兼実様を伴われ、一夏の間こちらに留まられて 称名念仏に励まれる24名の社友の方々と交誼を交えられたと伝えられております。

承元2(1208)年直実様が往生を遂げられると、御嫡男 直家様が亡き御父様の遺命に従って高野山に登山。
堂宇を改築、修造し、追孝の法要を営まれたといわれます。
これを伝え聞いた実朝様は、直実様が この地で詠まれたという御歌“約束の 念仏は申すまでに そうろうよ やろうやらじは 弥陀のはからい”の御歌に“熊谷寺”と記された扁額を寄進されたと伝えられます。
これにより智識院は熊谷寺となり、度々の火災にて 幾度かの再建を経られておりますが、現代も直実様をはじめ、法然様、親鸞様方の御旧跡として語り継がれておられます。

   熊谷寺略縁起

 当寺は弘法大師の孫弟子である真隆阿闍梨が初代なり。
葛原親王により創建す。
 寿永3年熊谷次郎直実、一の谷に於て平敦盛卿を討ちてより発心し、法然上人の弟子となり名を蓮生と改め念仏修行す。
健久元年敦盛卿の7回忌の法要勤修の為、法然上人の指示に従い高野山に登山し追善法要を営み自己及び卿の石碑を建立す。
 建仁元年鎌倉将軍の発願にて源平西海役死者の17回忌を当山に於て営む、依て円光大師も当寺に立ち寄り、一夏九旬法華経を読誦し日々弘法大師御廟に参詣せり。
その間に各々自らの石碑を建立し又当寺境内にありし井戸に姿を写し木像を彫刻せらる。
石碑木像及び井戸は現存す。
 又当寺は元智識院と称したるも鎌倉幕府実朝公より熊谷寺号をたまわる。
依って爾来熊谷寺と称するに至る。
その後再三類焼にあいながらも再建をかさね、有縁信者の参籠に供せり。



   高野山熊谷寺略縁起

 當寺は円光大師・見真大師・熊谷蓮生法師の御旧跡、新撰元祖大師二十五霊場第八番の札所であります。
 當寺は桓武天皇の皇子葛原親王の御願に因り承和四年(八三七)に建立せられ宗祖弘法大師の法孫真隆阿闇梨(果隣大徳の高足)が初代住職であります。
寿永三年(一一八四)二月七日接州一の谷に於ける源平の合戦に於て敗れた平家方の将兵は友軍の軍船にのがれました。
此の時遠浅の海に駒を乗入れた武将を呼び返した熊谷直実は格斗数合やがて組敷いて首級をあげようとよく見ると一子小次郎直家と同年輩十六・七の美少年平家の大将参議経盛の末子敦盛でありました。
直実は同じ日の末明敵の矢に傷ついた直家の
「父よこの矢を抜いてたべ」
との願いを耳にするも敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起し敦盛の首を斬るに忍びず、しばしためらったのでありますが心を鬼にして首を掻き切ったのであります。
かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し當時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与へられ専心念仏の行者となったのであります。
建久元年(一一九〇)は敦盛卿の七周忌に当るにつき追福の法要を営まんと思い立ち師法然上人の指示に依り高野山に登り父祖の菩提寺であった當院に寄寓し敦盛郷の位牌及び石塔を建立し懇ろに敦盛の菩提を析ったのであります。
爾釆十四年間山に留まり念仏に専心いたしました。
建仁元年(一二〇一)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会を此の山に営んだ時法然上人その特請に遭われ親鷲上人及び圓証入道関白兼実公と共に登山一夏九旬の間当寺に留錫 その頃新別所に於て称名念仏していた二十四人の社友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのであります。
或る時御三方庭前の井戸の水鏡にて各々御姿を写され自らその像を彫まれました。
その御尊像を奉安してあるのが表門の横に在る圓光堂であります。
又法然上人は龍華三会の暁にわが大師に値遇の良縁を結ばんが為亦末世道俗摂化の方便にもと五輸の石塔を奥の院のほとりに建立し自ら梵宇を書し「源空」の二宇を刻んで置かれました
上人の滅後弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられています。
高野山円光大師廟というはこの五輸塔の事であります。
 蓮生法師承元二年(一二〇八)九月十四日念仏を唱え睡るが如く往生されました。
その後直家は亡父の遺命により登山當寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。
この事時の将軍実朝公の知るところとなり蓮生房の詠まれた「約東の念仏」の歌と「熊谷寺」と書いた扁額を寄進されました。
當寺は元智識院持宝院と号していたのをこの因縁に依り熊谷寺と改称し今日に及んでいるのであります。
弘長四年親鷲聖人の三回忌に当り覚信尼公(上人の息女)聖人の遺命に依って御臨終の名号並に御遺骨及び御母公玉日の前の木像を使者日野家の士下条専右衛門頼一を遣して當寺に納められ且つ聖人が師の流れを汲んでかねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
 上述の如く當寺は承和四年創立以来こゝに一千百有余年高野山の歴史とその運命を共にしてきたのでありますが明治廿一年三月当山大火あって当寺もその災に罹り堂舎悉く焼失したのであります。
爾来先師の並々ならぬ努力により再建され遂次坊舎の増築するあり旧に倍する規模を呈するに至
ったのであります。
 これ偏へに宗祖大師の御冥護と加ふるに上来御三方の御霊光の賜物と渇仰の微衷禁ずる能はざるものがあります。
冀くは円光見真両大師の芳蜀を慕ひ念仏唱名し往生の素懐を遂げんと願ふ信者は両大師の流れを汲み登山して弘法大師に龍華値遇の良縁をお結び下さい
篤信の善男善女希はくは當寺に参籠して仏恩報謝せられんことを。
 ○空海の心の中に咲く花は 弥陀より外に知る人はなし(空海)
 ○極楽もかくやあらまし あら楽し はやまいらばや 南無阿弥陀仏(法然)
 ○にはかなる南無阿弥陀仏の一聲に たのめばすてぬちかいなりけり(親鸞)
 ○約束の念仏は申すまでにそうろうよ やろう やらじは 弥陀のはからい(蓮生)
 ○晴れやらぬ心のうちのくもりども 南無阿弥陀仏の風にはれけり(円証)



高野山 熊谷寺03


こちらは、円光堂。
熊谷寺の護摩堂を兼ねる、法然上人二十五霊場番外札所の御堂で御座います。

高野山 熊谷寺04


熊谷寺さんの御坊様は とても御優しくて、御親切に御寺内を一緒に歩きつつ、御寺の事、仏教の事、高野山の事等 様々な事を教えて下さいました。
御本堂、円光堂では、共に内部に安置される仏様について説明をいただき、理解を深める事が出来ました。
本当に、有難い事で御座います。

高野山 熊谷寺05


円光堂内、向かって右奥に安置されている御尊像。
上段中央に安置されているのが、直実様こと蓮生法師御尊像で御座います。
その左隣が蓮如上人御尊像、右隣が見真大師御尊像、その直ぐ下段には覚信尼御尊像が御祀りされておりました。

↑右側の画像は、授与所の窓に飾られておりました歌会絵巻より。
圓光大師様、見真大師様、九条兼実様、熊谷蓮生様が一堂に会して歌会を催された事を描かれた絵巻物だそうで御座います。
この歌会の開かれた場所というのは、熊谷寺さんより もう少し奥へ入った場所だといわれているそうで。
こちらの絵巻は、司馬遼太郎さんも拝見されたそうで御座います〜。

高野山 熊谷寺06


円光堂に入った直ぐの所には、“熊谷頭痛除の兜”と名付けられた兜が御座いました。
直実様が奉納された兜なのかなぁと、まじまじ眺めておりましたら、御坊様が
「被ってみますか?」
と被せて下さいまして(笑)
小さく見えましたが、実際に被ってみると意外に大きくて、全然前が見えませんでした///

高野山 熊谷寺07


境内には、図鑑等で見覚えのある植物が…!
これは…これって、もしかすると…もしかするのでは!??とにじり寄って観察しておりましたら、そんな私の怪しい行動に気付かれた御坊様が
「あぁ、それは“クマガイソウ”という珍しい草なのだそうですよ」
と仰られまして……うわぁ!や、矢張り!!!
生で拝見するのは初めての事で、感動致しました〜。

高野山 熊谷寺08


熊谷草を教えて下さった直後に宅配便業者さんがいらっしゃり、
「ちょっと、この辺で待っていて下さいね」
と御坊様が奥へ入って行かれたので、私は その間 熊谷草に齧り付いていたのですけれど…。
ふと、熊谷草がある…という事は、も…もしかすると、近くには敦盛草もあったりなんかするのでは無いかしら!!?という考えが芽生えまして。
でもでも、敦盛草は“幻中の幻”といわれる程の特定国内希少野生動植物種指定の植物…そう簡単に拝める訳も無いだろうと思いつつ、周囲を見回しておりましたら…熊谷草に向き合うような位置に、何だか熊谷草に似ているけれど少し違う植物が…!
もももも!もしかすると、もしかするのかもしれません…が、実物を知らない私は これが敦盛草だと断言する事が出来ず、残念ながらタイミングを逃してしまって御寺の方に確認する事も出来ませんでした…あわあわわ(涙)

高野山 熊谷寺09


御本堂から円光堂へと向かう途中には、法然様の姿見の井戸が御座いました。
法然様や親鸞様方が一夏九旬の間こちらに留まられたと伝えられる時分、各々方は境内のこの井戸に御姿を写され、木像を彫刻されたと伝えられております。

高野山 熊谷寺10


直実様は、とても真摯な御方として伝えらえております。
直実様が関東へ向かわれる際、西方の極楽浄土に御尻を向けるような真似は出来ぬ、と馬上で後ろ前に座われ、礼拝されつつ東下りをなさったという逸話も語られておりますね。

熊谷寺円光堂前の直実様立像は、とても御優しそうで、清々しい表情をなさっておられるのが印象的でございました。

高野山 熊谷寺11


* * * * * * * *
(※以下、追記です)


↑本文中で、私が敦盛草かも…?と思っていた植物は、全然違うものなのだそうで御座います(苦笑)

↓で…本物の敦盛草の御写真が、こちら。
 東京都のはっぴぃさんにいただきました!
 どうも有難う御座います〜///


敦盛草(はっぴぃさん)

はっぴぃさんは私の住んでいる御部屋の大家さんで、いつも大変御世話になっております。
はっぴぃさんの御邸は、直ぐ近くなのですが、こんなにも身近に敦盛草が生息されていたなんてー!と衝撃で御座いました。
残念ながら、今年は御花が咲かなかったそうなので御座いますが、これまでの御写真を大切にとっておられた事に愛情を感じますね〜。
本当に、有難う御座いました。
今度とも、よろしく御願い致します。 (平成20年8月1日/追記)


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