折ふし法然上人御弟子十余人を引つれて、賀茂の大明神へ御参りありけるが、さがり松にて幼きものゝ泣く聲をきこしめして、立ち寄り御覧ずれば、いつくしき若君にてましますなり。
法然上人御覧じて、不思議や刀を添へ、衣に巻きて捨てけるやうは、たゞ人にては有べからず、いか様これは賀茂の大明神の、御利生也と喜びて、拾ひ給ひ御下向ありて、めのとを添へ、いつきかしづき育て給ふ。
さる程に成人ましまして、学問人にすぐれ、一字を二字とさとり給ふ児なり。 (御伽草紙「小敦盛」による)
御伽草紙の小敦盛、謡曲 生田敦盛等の作品では、浄土宗の御開祖 法然様が亡き平敦盛様の遺児を拾い育てられた人物として登場されており、平家物語を掘り下げられて創作されたと思われる この作品を よりドラマチックに演出する為の重要人物としても描かれているように感じます。
法然様も平安末期という激動の時代を生きられた御方で御座いますが、平敦盛様との直接の関係は伝えられておりません。
が、敦盛様を討たれた熊谷次郎直実様が後に法然様の元で御出家、弟子入りされている事から、後世“小敦盛”として描かれる敦盛様の御子息様と直実様との中間に立たれる御方として登場される事となったのでは無いかと思われます。
私にとって、法然様とは親鸞様の御師様であり、平重衡様に戒を授けられた御方。
そして、敦盛様を考える時に念頭に置いておきたいと思う人物の中の御ひとりでも御座います。
法然様は、親鸞様、直実様、九条兼実様等と共に、高野山とも深く結び付いておられる御方。
高野山 奥の院御参道沿いには、法然様の御墓も並んでおります。
明日は そちらについて記したいと思っておりますので、本日は 法然様という偉大な御方の御生涯について、簡単では御座いますが 私なりに纏めてみたいと思います。

□ 法然(ほうねん) □
生年月日:長承2年4月7日(1133年5月13日)
没年月日:建暦2年1月25日(1212年2月29日)
父 :漆間時国
母 :秦氏
師 :源光、皇円、叡空
弟 子:證空、親鸞、弁長、源智、幸西、信空、隆寛、湛空、長西 等
宗 派:浄土宗(開祖)
幼 名:勢至丸
房 号:法然房
諱 :源空
別 称:円明房善弘、藤井元彦
通 称:小矢児(幼少期)、吉水上人、黒谷上人
諡 号:円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師
法然様は長承2年4月7日(1133年5月13日)、美作国久米南条稲岡庄にて御誕生されました。
御父様は押領使の漆間時国様、御母様は秦氏の君と呼ばれる秦氏の女性であったと伝えられます。
幼名は、勢至丸様。
勢至観音菩薩様の“勢至”をとって名付けられたといわれています。
京都 黒谷の金戒光明寺さんの石段脇に何とも可愛らしい勢至丸様の御像が建立されていらっしゃいますね〜。
保延7(1141)年、御父様 漆間時国様が夜襲に遭われ、無念の御最期を遂げられました。
その頃、勢至丸様は僅か9歳…早過ぎる御父様の死を、どのように受け止められた事で御座いましょうか…。
時国様は亡くなられる間際、勢至丸様に“決して仇討等を考えてはならない。憎しみは憎しみの連鎖しか生まない。どうか、全ての悩める人を救う道を歩んで欲しい”と語られたと伝えられております。
亡き御父様の御遺言を受け 仇討を諦めた勢至丸様は追撃を逃れ、御母様の叔父様である観覚様の元へ移られ、そこで仏教の学びを受けられる事となりました。
観覚様は勢至丸様が常人に無い才能を秘められている事に気付き、より高度な勉学を学ぶべきだと比叡山へ登る事を勧められたといいます。
勢至丸様が比叡山へと登られたのは15歳の時、久安3(1147)年の事で御座いました。
才を秘めた蕾が翌朝 突然開花するように、叡山での勢至丸様は目覚ましい程の早さで御出家の日を迎えられる事となります。
当初、叡山西塔北谷の源光様の元で修行に励むも、源光様は直ちに勢至丸様が秘めた才能に気付かれ、皇円様に指示する事を勧められました。
そして 戒壇院にて授戒を受け、僧としての人生を進まれる事となったので御座います。
…ちなみに、源頼朝様が御誕生になられたのも、丁度この頃の事で御座いますね。
比叡山は、天台宗の修行道場であると同時に、大きな武装勢力を持つ寺院でも御座いました。
末法思想を背景に、争いや派閥の絶えない世の中…それは、比叡山でも同じ事であったようで御座います。
18歳の頃、勢至丸様は俗世的な風から少しでも遠ざかって修学に励む為、比叡山の黒谷 青竜寺への入門をなさいます。
叡空様の弟子として修行を積まれ、“法然房源空”様という御名を授けられました。
“持宝房源光”様と“慈眼房叡空”様より1字ずついただいての改名であったようで御座います。
ここで初めて“法然”様となられたので御座いますね。
ただし、諱は“法然”では無く“源空”で御座います。
“法然様”と御呼びするのは、実名で御呼びする事が憚られる為の通称として呼ばれていた当時の習慣によるものが、今も尚 続けられている為なのかもしれません。
保元元(1156)年、嵯峨 清凉寺に詣でられた法然様は、御父様が遺された御言葉にあった全ての人々を救う為の教えを見付けられるように祈願なさり、続けて 京、奈良と、様々な寺院を訪ねてあらゆる高僧に教えを乞われました。
然し、どんなに立派な方をどれだけ訪ねようとも、万人の救われる道についての教えを示して下さる御方は誰ひとりとしていらっしゃらなかったようで御座います。
青竜寺に戻った後も、只管 一切経と向き合う日々を繰り返されましたが、積み重なる智慧によって明かされる物事ように本願は叶わず、苦悩を抱えられていたと語られます。
そして、承安5(1175)年――法然様43歳の時。
善導大師によって著された観経疏を繰り返し読まれる中で、本願念仏こそが全ての人々を救う教えであるという事を悟られました。
こうして開かれたのが、浄土宗で御座います。
直接の師匠では御座いませんが、善導様の教えを受けて確信を得られたという事に因み、多くの浄土宗の御寺さんでは、阿弥陀如来様を中心に、向かって左側が法然様、右側には善導様を御祀りされる事とされております。
叡山を下りられた法然様は、東山吉水に庵を結ばれ、専修念仏の教えを広められるようになりました。
求められれば、身分を問わず誰にでも念仏の教えを説かれたといわれる法然様。
高倉、後白河、後鳥羽と3帝に授戒を行われ、身分の無い庶民や遊女、賊にさえ、分け隔て無い説法を語り与えられました。
これ程までに損得を問わず奉仕的ともいえる存在であられた宗派の御開祖様を、私は法然様以外には存じ上げておりません。
三位中将、土肥次郎をめして、
「出家をせばやと思ふはいかがあるべき」
とのたまへば、実平此由を九郎御曹司に申す。
院御所へ奏聞せられたりければ、
「頼朝にみせて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでかゆるすべき」
と仰ければ、此よしを申す。
「さらば年ごろ契たりし聖に、今一度対面して、後生のことを申談ぜばやと思ふはいかがすべき」
との給へば、
「聖をば誰と申候やらん」。
「黒谷の法然房と申人也」。
「さてはくるしう候まじ」
とて、ゆるし奉る。
(中略)
其時上人涙に咽て、しばしは物もの給はず。
良久しうあて、
「誠に受難き人身をうけながら、むなしう三途にかへり給はん事、かなしんでもなをあまりあり。しかるを今穢土をいとひ、浄土をねがはんに、悪心を捨て善心発しまさん事、三世の諸仏も定て随喜したまふべし。それについて、出離の道まちまちなりといへども、末法濁乱の機には、称名をもて勝れたりとす。心ざしを九品にわかち、行を六字につづめて、いかなる愚智闇鈍の者も唱ふるに便あり。罪ふかければとて、卑下したまふべからず、十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。功徳すくなければとて望をたつべからず、一念十念の心を致せば来迎す。“専称名号至西方”と釈して、専名号を称ずれば、西方にいたる。“念々称名常懺悔”とのべて、念々に弥陀を唱ふれば、懺悔する也」
とをしへたり。
「“利剣即是弥陀号”をたのめば、魔閻ちかづかず。“一声称念罪皆除”と念ずれば、罪みなのぞけりとみえたり。浄土宗の至極、をのをの略を存じて、大略是を肝心とす。但往生の得否は信心の有無によるべし。ただふかく信じてゆめゆめ疑をなし給ふべからず。」
若此をしへをふかく信じて、
「行住座臥時処諸縁をきらはず、三業四威儀において、心念口称をわすれ給はずは、畢命を期として、此苦域の界を出て、彼不退の土に往生し給はん事、何の疑かあらむや」
と教化し給ひければ、中将なのめならず悦て、
「此ついでに戒をたもたばやと存候は、出家仕候はではかなひ候まじや」
と申されければ、
「出家せぬ人も、戒をたもつ事は世のつねの習ひなり」
とて、額にかうぞりをあてて、そるまねをして、十戒をさづけられければ、中将随喜の涙をながいて、是をうけたもち給ふ。
上人もよろづ物あはれに覚えて、かきくらす心地して、泣々戒をぞとかれける。
御布施とおぼしくて、年ごろつねにおはしてあそばれける侍のもとにあづけをかれたりける御硯を、知時してめしよせて、上人にたてまつり、
「是をば人にたび候はで、つねに御目のかかり候はんところにをかれ候て、某が物ぞかしと御覧ぜられ候はんたびごとに、おぼしめしなずらへて、御念仏候べし。御ひまには、経をも
一巻御廻向候はば、しかるべう候べし」
など、泣々申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是をとて懐にいれ、墨染の袖をしぼりつつ、泣々帰りたまひけり。
此硯は、親父入道相国砂金をおほく宋朝の御門へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、日本和田の平大相国のもとへとて、をくられたりけるとかや。
名をば松蔭とぞ申ける。 (平家物語 高野本による)
平家物語によると 一ノ谷で生捕りにされた後、捕虜として鎌倉へ下られた平重衡様には出家の御意思が御座いましたが、南都からの催促もあって それは叶わず、せめてもの情けとして法然様との面談の場が設けられたと語られております。
出家する事が叶わない御身である重衡様に対し、剃刀を当て髪を剃る真似をして戒を授けられた法然様は、深く信じて念仏を唱える事を説かれました。
重衡様は、御布施として亡き清盛様が宋帝より賜ったという硯“松陰”を法然様に渡さたという事で御座います。
建久4(1193)年頃、熊谷直実様が御出家、弟子入りされたといわれます。
建仁元(1201)年、親鸞様が弟子入り。
九条兼実様は建仁2(1202)年の御出家以前から法然様と御縁があり、幾度か授戒もされておりました。
元久元(1204)年、比叡山僧徒が専修念仏の停止を訴え蜂起しますが、法然様は門弟等の署名を添えた七箇条制誡を草して延暦寺へと送る事で収拾をつけられました。
兼実様の御力も大きかったようで御座います。
然し、興福寺の奏状によって念仏停止の断が下されてしまいます。
更に法然様の弟子であった住蓮様、安楽様の影響で後鳥羽上皇の女官 鈴虫様、松虫様が出家してしまった事で上皇の怒りを買い、住蓮様と安楽様が死罪に…法然様は還俗の後、四国への流罪が言い渡されてしまう事となりました。
その際の俗名は、“藤井元彦”様。
建永2(1207)年の この時、法然様は75歳という御年齢で御座います。
流罪に処された4年後、建暦元(1211)年。
法然様は赦免されて帰京なさいますが、翌年 建暦2年1月25日(1212年2月29日)に80年の御生涯を終えられました。
法然様は、御生前の建暦2年1月23日(1212年2月27日)、遺言書として一枚起請文を書き遺しておられます。
一枚起請文は、弟子の御ひとりである 源智様の要請によって記されたもので、浄土宗の教えである念仏の意味や心構え等について簡潔に纏められており、現在は金戒光明寺さんにて保存されているという事で御座います。
法然様といえば…平家物語そのものとの関連が説かれている御方でも御座います。
平家物語は作者不明の軍記物語として今に伝えられておりますが、幾つか挙げられる作者説の中に、多く法然様に御縁のあったと思われる人物の御名を見掛けられるという事で…。
平家物語に伺える仏教的真理は、法然様の教えに基づくと考えられてもいるようで御座いますが……。
源平両氏との関わりが極端に強い御方では御座いませんでしたが、それだけに 同じ世を生きられる中で感じられる事は多かった事で御座いましょう。
当時、専修念仏に反意を唱える方々も大勢いらっしゃいましたが、同時に その教えに感動され、法然様の元に集われる方々も多くいらっしゃいました。
そんな人々から見た、時代背景というものについても考えてみたいなぁと思っております。
※タイトルは、続千載和歌集より法然様の御歌。
浄土宗宗歌にもされておりますね。
詞書“光明遍照 十方世界 といへる心を”
“月の光が届かない里は無いけれども、眺める人の心が澄んでいるからこそ、その光が美しいと感じられるのです。
眺める人の心にこそ、月の光が在ると気付くもの…御仏もまた、念仏を唱える人の心の中に在られるものなのですよ。”

法然上人御覧じて、不思議や刀を添へ、衣に巻きて捨てけるやうは、たゞ人にては有べからず、いか様これは賀茂の大明神の、御利生也と喜びて、拾ひ給ひ御下向ありて、めのとを添へ、いつきかしづき育て給ふ。
さる程に成人ましまして、学問人にすぐれ、一字を二字とさとり給ふ児なり。 (御伽草紙「小敦盛」による)
御伽草紙の小敦盛、謡曲 生田敦盛等の作品では、浄土宗の御開祖 法然様が亡き平敦盛様の遺児を拾い育てられた人物として登場されており、平家物語を掘り下げられて創作されたと思われる この作品を よりドラマチックに演出する為の重要人物としても描かれているように感じます。
法然様も平安末期という激動の時代を生きられた御方で御座いますが、平敦盛様との直接の関係は伝えられておりません。
が、敦盛様を討たれた熊谷次郎直実様が後に法然様の元で御出家、弟子入りされている事から、後世“小敦盛”として描かれる敦盛様の御子息様と直実様との中間に立たれる御方として登場される事となったのでは無いかと思われます。
私にとって、法然様とは親鸞様の御師様であり、平重衡様に戒を授けられた御方。
そして、敦盛様を考える時に念頭に置いておきたいと思う人物の中の御ひとりでも御座います。
法然様は、親鸞様、直実様、九条兼実様等と共に、高野山とも深く結び付いておられる御方。
高野山 奥の院御参道沿いには、法然様の御墓も並んでおります。
明日は そちらについて記したいと思っておりますので、本日は 法然様という偉大な御方の御生涯について、簡単では御座いますが 私なりに纏めてみたいと思います。

□ 法然(ほうねん) □
生年月日:長承2年4月7日(1133年5月13日)
没年月日:建暦2年1月25日(1212年2月29日)
父 :漆間時国
母 :秦氏
師 :源光、皇円、叡空
弟 子:證空、親鸞、弁長、源智、幸西、信空、隆寛、湛空、長西 等
宗 派:浄土宗(開祖)
幼 名:勢至丸
房 号:法然房
諱 :源空
別 称:円明房善弘、藤井元彦
通 称:小矢児(幼少期)、吉水上人、黒谷上人
諡 号:円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、明照大師、和順大師
法然様は長承2年4月7日(1133年5月13日)、美作国久米南条稲岡庄にて御誕生されました。
御父様は押領使の漆間時国様、御母様は秦氏の君と呼ばれる秦氏の女性であったと伝えられます。
幼名は、勢至丸様。
勢至観音菩薩様の“勢至”をとって名付けられたといわれています。
京都 黒谷の金戒光明寺さんの石段脇に何とも可愛らしい勢至丸様の御像が建立されていらっしゃいますね〜。
保延7(1141)年、御父様 漆間時国様が夜襲に遭われ、無念の御最期を遂げられました。
その頃、勢至丸様は僅か9歳…早過ぎる御父様の死を、どのように受け止められた事で御座いましょうか…。
時国様は亡くなられる間際、勢至丸様に“決して仇討等を考えてはならない。憎しみは憎しみの連鎖しか生まない。どうか、全ての悩める人を救う道を歩んで欲しい”と語られたと伝えられております。
亡き御父様の御遺言を受け 仇討を諦めた勢至丸様は追撃を逃れ、御母様の叔父様である観覚様の元へ移られ、そこで仏教の学びを受けられる事となりました。
観覚様は勢至丸様が常人に無い才能を秘められている事に気付き、より高度な勉学を学ぶべきだと比叡山へ登る事を勧められたといいます。
勢至丸様が比叡山へと登られたのは15歳の時、久安3(1147)年の事で御座いました。
才を秘めた蕾が翌朝 突然開花するように、叡山での勢至丸様は目覚ましい程の早さで御出家の日を迎えられる事となります。
当初、叡山西塔北谷の源光様の元で修行に励むも、源光様は直ちに勢至丸様が秘めた才能に気付かれ、皇円様に指示する事を勧められました。
そして 戒壇院にて授戒を受け、僧としての人生を進まれる事となったので御座います。
…ちなみに、源頼朝様が御誕生になられたのも、丁度この頃の事で御座いますね。
比叡山は、天台宗の修行道場であると同時に、大きな武装勢力を持つ寺院でも御座いました。
末法思想を背景に、争いや派閥の絶えない世の中…それは、比叡山でも同じ事であったようで御座います。
18歳の頃、勢至丸様は俗世的な風から少しでも遠ざかって修学に励む為、比叡山の黒谷 青竜寺への入門をなさいます。
叡空様の弟子として修行を積まれ、“法然房源空”様という御名を授けられました。
“持宝房源光”様と“慈眼房叡空”様より1字ずついただいての改名であったようで御座います。
ここで初めて“法然”様となられたので御座いますね。
ただし、諱は“法然”では無く“源空”で御座います。
“法然様”と御呼びするのは、実名で御呼びする事が憚られる為の通称として呼ばれていた当時の習慣によるものが、今も尚 続けられている為なのかもしれません。
保元元(1156)年、嵯峨 清凉寺に詣でられた法然様は、御父様が遺された御言葉にあった全ての人々を救う為の教えを見付けられるように祈願なさり、続けて 京、奈良と、様々な寺院を訪ねてあらゆる高僧に教えを乞われました。
然し、どんなに立派な方をどれだけ訪ねようとも、万人の救われる道についての教えを示して下さる御方は誰ひとりとしていらっしゃらなかったようで御座います。
青竜寺に戻った後も、只管 一切経と向き合う日々を繰り返されましたが、積み重なる智慧によって明かされる物事ように本願は叶わず、苦悩を抱えられていたと語られます。
そして、承安5(1175)年――法然様43歳の時。
善導大師によって著された観経疏を繰り返し読まれる中で、本願念仏こそが全ての人々を救う教えであるという事を悟られました。
こうして開かれたのが、浄土宗で御座います。
直接の師匠では御座いませんが、善導様の教えを受けて確信を得られたという事に因み、多くの浄土宗の御寺さんでは、阿弥陀如来様を中心に、向かって左側が法然様、右側には善導様を御祀りされる事とされております。
叡山を下りられた法然様は、東山吉水に庵を結ばれ、専修念仏の教えを広められるようになりました。
求められれば、身分を問わず誰にでも念仏の教えを説かれたといわれる法然様。
高倉、後白河、後鳥羽と3帝に授戒を行われ、身分の無い庶民や遊女、賊にさえ、分け隔て無い説法を語り与えられました。
これ程までに損得を問わず奉仕的ともいえる存在であられた宗派の御開祖様を、私は法然様以外には存じ上げておりません。
三位中将、土肥次郎をめして、
「出家をせばやと思ふはいかがあるべき」
とのたまへば、実平此由を九郎御曹司に申す。
院御所へ奏聞せられたりければ、
「頼朝にみせて後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかでかゆるすべき」
と仰ければ、此よしを申す。
「さらば年ごろ契たりし聖に、今一度対面して、後生のことを申談ぜばやと思ふはいかがすべき」
との給へば、
「聖をば誰と申候やらん」。
「黒谷の法然房と申人也」。
「さてはくるしう候まじ」
とて、ゆるし奉る。
(中略)
其時上人涙に咽て、しばしは物もの給はず。
良久しうあて、
「誠に受難き人身をうけながら、むなしう三途にかへり給はん事、かなしんでもなをあまりあり。しかるを今穢土をいとひ、浄土をねがはんに、悪心を捨て善心発しまさん事、三世の諸仏も定て随喜したまふべし。それについて、出離の道まちまちなりといへども、末法濁乱の機には、称名をもて勝れたりとす。心ざしを九品にわかち、行を六字につづめて、いかなる愚智闇鈍の者も唱ふるに便あり。罪ふかければとて、卑下したまふべからず、十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。功徳すくなければとて望をたつべからず、一念十念の心を致せば来迎す。“専称名号至西方”と釈して、専名号を称ずれば、西方にいたる。“念々称名常懺悔”とのべて、念々に弥陀を唱ふれば、懺悔する也」
とをしへたり。
「“利剣即是弥陀号”をたのめば、魔閻ちかづかず。“一声称念罪皆除”と念ずれば、罪みなのぞけりとみえたり。浄土宗の至極、をのをの略を存じて、大略是を肝心とす。但往生の得否は信心の有無によるべし。ただふかく信じてゆめゆめ疑をなし給ふべからず。」
若此をしへをふかく信じて、
「行住座臥時処諸縁をきらはず、三業四威儀において、心念口称をわすれ給はずは、畢命を期として、此苦域の界を出て、彼不退の土に往生し給はん事、何の疑かあらむや」
と教化し給ひければ、中将なのめならず悦て、
「此ついでに戒をたもたばやと存候は、出家仕候はではかなひ候まじや」
と申されければ、
「出家せぬ人も、戒をたもつ事は世のつねの習ひなり」
とて、額にかうぞりをあてて、そるまねをして、十戒をさづけられければ、中将随喜の涙をながいて、是をうけたもち給ふ。
上人もよろづ物あはれに覚えて、かきくらす心地して、泣々戒をぞとかれける。
御布施とおぼしくて、年ごろつねにおはしてあそばれける侍のもとにあづけをかれたりける御硯を、知時してめしよせて、上人にたてまつり、
「是をば人にたび候はで、つねに御目のかかり候はんところにをかれ候て、某が物ぞかしと御覧ぜられ候はんたびごとに、おぼしめしなずらへて、御念仏候べし。御ひまには、経をも
一巻御廻向候はば、しかるべう候べし」
など、泣々申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是をとて懐にいれ、墨染の袖をしぼりつつ、泣々帰りたまひけり。
此硯は、親父入道相国砂金をおほく宋朝の御門へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、日本和田の平大相国のもとへとて、をくられたりけるとかや。
名をば松蔭とぞ申ける。 (平家物語 高野本による)
平家物語によると 一ノ谷で生捕りにされた後、捕虜として鎌倉へ下られた平重衡様には出家の御意思が御座いましたが、南都からの催促もあって それは叶わず、せめてもの情けとして法然様との面談の場が設けられたと語られております。
出家する事が叶わない御身である重衡様に対し、剃刀を当て髪を剃る真似をして戒を授けられた法然様は、深く信じて念仏を唱える事を説かれました。
重衡様は、御布施として亡き清盛様が宋帝より賜ったという硯“松陰”を法然様に渡さたという事で御座います。
建久4(1193)年頃、熊谷直実様が御出家、弟子入りされたといわれます。
建仁元(1201)年、親鸞様が弟子入り。
九条兼実様は建仁2(1202)年の御出家以前から法然様と御縁があり、幾度か授戒もされておりました。
元久元(1204)年、比叡山僧徒が専修念仏の停止を訴え蜂起しますが、法然様は門弟等の署名を添えた七箇条制誡を草して延暦寺へと送る事で収拾をつけられました。
兼実様の御力も大きかったようで御座います。
然し、興福寺の奏状によって念仏停止の断が下されてしまいます。
更に法然様の弟子であった住蓮様、安楽様の影響で後鳥羽上皇の女官 鈴虫様、松虫様が出家してしまった事で上皇の怒りを買い、住蓮様と安楽様が死罪に…法然様は還俗の後、四国への流罪が言い渡されてしまう事となりました。
その際の俗名は、“藤井元彦”様。
建永2(1207)年の この時、法然様は75歳という御年齢で御座います。
流罪に処された4年後、建暦元(1211)年。
法然様は赦免されて帰京なさいますが、翌年 建暦2年1月25日(1212年2月29日)に80年の御生涯を終えられました。
法然様は、御生前の建暦2年1月23日(1212年2月27日)、遺言書として一枚起請文を書き遺しておられます。
一枚起請文は、弟子の御ひとりである 源智様の要請によって記されたもので、浄土宗の教えである念仏の意味や心構え等について簡潔に纏められており、現在は金戒光明寺さんにて保存されているという事で御座います。
法然様といえば…平家物語そのものとの関連が説かれている御方でも御座います。
平家物語は作者不明の軍記物語として今に伝えられておりますが、幾つか挙げられる作者説の中に、多く法然様に御縁のあったと思われる人物の御名を見掛けられるという事で…。
平家物語に伺える仏教的真理は、法然様の教えに基づくと考えられてもいるようで御座いますが……。
源平両氏との関わりが極端に強い御方では御座いませんでしたが、それだけに 同じ世を生きられる中で感じられる事は多かった事で御座いましょう。
当時、専修念仏に反意を唱える方々も大勢いらっしゃいましたが、同時に その教えに感動され、法然様の元に集われる方々も多くいらっしゃいました。
そんな人々から見た、時代背景というものについても考えてみたいなぁと思っております。
※タイトルは、続千載和歌集より法然様の御歌。
浄土宗宗歌にもされておりますね。
詞書“光明遍照 十方世界 といへる心を”
“月の光が届かない里は無いけれども、眺める人の心が澄んでいるからこそ、その光が美しいと感じられるのです。
眺める人の心にこそ、月の光が在ると気付くもの…御仏もまた、念仏を唱える人の心の中に在られるものなのですよ。”
Comment
詞書“光明遍照 十方世界 といへる心を”
「 眺める人の心にこそ、月の光が在ると気付くもの」
毎日、書き続けられるこの情熱は貴女の何処から来ているのでしょうか?
今日も貴女に感謝です!
「 眺める人の心にこそ、月の光が在ると気付くもの」
毎日、書き続けられるこの情熱は貴女の何処から来ているのでしょうか?
今日も貴女に感謝です!
宮彦丸 | URL | 2008/05/17/Sat 11:56[EDIT]
私の原動力は、未知への探究心と羨望…そして、矢張り愛ゆえで御座いましょうか。
「まるで大学生のレポートのようで重い」と言われてしまう事も御座いますが、そう言っていただけると、とても嬉しいです。
そんな嬉しい気持ちもまた、ひとつの原動力で御座います。
有難う御座います。
「まるで大学生のレポートのようで重い」と言われてしまう事も御座いますが、そう言っていただけると、とても嬉しいです。
そんな嬉しい気持ちもまた、ひとつの原動力で御座います。
有難う御座います。
Track Back
| TB*URL |
| ホーム |
