日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

しんらんさま。
親鸞さま


□ 親鸞(しんらん)

生年月日:承安3年4月1日(1173年5月14日)
没年月日:弘長2年11月28日(1263年1月9日)
  父  :日野有範
  母  :吉光、貴光?(皇太后宮大進/源義家孫娘?)
兄  弟:兼有、尋有、行兼
  妻  :玉日(九条兼実女)?、三善為教女(恵信尼)?
  子  :信蓮、益方、印信、小黒女房、善鸞、明信(信蓮房)、道性(有房)、高野禅尼、覚信尼、
  師  :法然
弟  子:善鸞、如信、河和田唯円、性信、真仏、順信、乗然、信楽、成然、西念、證性、善性、是真、
無為信、善念、信願、定信、入西(道円)、穴沢入信、念信、八田入信、明法(弁円)、慈善、唯仏、戸森唯信、畠谷唯信、鳥喰唯円、等
宗  派:浄土真宗(宗祖)
幼  名:松若、十八公麿?、鶴満丸?、忠安?
改  称:範宴、綽空、愚禿釋親鸞
俗  名:藤井善信
諡  号:見真大師(けんしんだいし)
尊  称:親鸞聖人


親鸞様は、承安3年4月1日(1173年5月14日) 京の貴族 日野有範様の御長男として御生まれになりました。
幼名には諸説御座いますが、大抵の資料には“松若丸”様と記されておられるように思います。
藤原北家の御公家様といわれておりますが御家の身分は低かったようで、更に 時代は後白河上皇の院政下で平家御一門が全盛の頃…この時点で、既に松若丸様の将来に出世の道は望めなかったと考えられます。

松若丸様は4歳で御父様を、8歳の時に御母様を亡くされ御年9歳にて御出家、治承5(1181)年 比叡山延暦寺に登って天台宗の僧となられ“範宴”様と名乗られました。
この年は高倉上皇平清盛様が御亡くなりになられて時代の波が大きく揺れ動いた時でもあり、 また自身や疫病、飢饉等といった天災が多発した頃でも御座います。
まさに末法の世の到来とばかりに慌ただしく世知辛い背景の中、20年に渡って修行に専念されましたが、今日語られるのは それが苦難の日々であったという事…。
仏門に入っても矢張り そこが人の世である事は変わらず、どんなに修行に励み努力を重ねたとて、後から入ってきた身分の高い貴族の子弟に易々と追い越され、いつまでも低い地位に留められる御身に もどかしさを感じられておられたのかもしれません。
29歳に至るまで、叡山にて只管に学問、修行に明け暮れる毎日を送られましたが、その中では己の抱く煩悩を掻き消す事が出来ず、救いの道を見出す事が出来なかったといわれます。

悩み抜かれた末の建仁元(1201)年 叡山を下山され、京 烏丸の六角堂に籠り、百日間の祈りを捧げられました。
参籠に入って95日目の明け方、夢の中に観音様の化身といわれる聖徳太子が現れ、教えを諭されたと伝えられます。
この御告げに従って、東山吉水にいらっしゃった法然様の草庵を訪ねられました。
ここでの説法に感動された親鸞様は、法然様に弟子入りをなさいます。
“綽空”という御名を与えられた親鸞様は、以後 毎日 法然様の元へと通われ、専修念仏の教えを御聞きになられたといいます。
この時、法然様は69歳…親鸞様との年の差は40で御座いました。

専修念仏とは、只管 心を込めて念仏だけを唱えさえすれば、他の修行をせずとも誰でも極楽へ行けるという教えで御座いました。
修行を積まれた親鸞様は次第に高い評価を得、法然様の優れた弟子の御1人として認められるようになります。

然し、専修念仏の教えは、天台宗等の古い仏教に属する門徒から激しく非難、攻撃されるもので御座いました。
元久元(1204)年、叡山僧徒が天台座主に対して専修念仏の停止を訴えました。
この時、法然様は門弟等の署名と共に七箇条制誡を延暦寺へと送る事で収束となりますが、翌年の南都の興福寺の訴えによって、結局 専修念仏は停止させられる事となりました。
そして建永2(1207)年、興福寺の強訴により2名の僧が処刑となり、法然様は讃岐に流罪、他6名の僧も流罪となり、親鸞様もまた越後へと流罪される事となりました。
その際、僧籍を剥奪された親鸞様は還俗させられ、“藤井善信”の御名を名乗られる事となります。

配流先の越後の国府へと赴かれたのは、親鸞様35歳の事。
非僧非俗の破戒僧“愚禿釋親鸞”と自ら名乗られるようになりますが、ここで初めて“親鸞”の御名が登場するようで御座います。
“親鸞”とは、“親菩薩”と“曇大師”より、それぞれ1字をいただいて名付けられた御名のようで御座います。
親鸞様は、仏門に帰依する僧として あるまじき肉食妻帯の生活を行われた…と取り上げられる事が御座いますが、これは越後にて現地の豪族の女 得信尼様と結婚され、御子様をもうけられていると伝わる説によるもので御座います。

建暦元(1211)年、流罪となって5年の後に、親鸞様は法然様と共に赦免される事となりました。
然し翌年 建暦2年1月25日(1212年2月29日)、法然様が京にて御入滅。
師との再会は叶わなくなってしまった事は、親鸞様にとって都へ戻る意義を失くされる事でもあったのかもしれません…親鸞様は罪が許された後も越後に留まられ、念仏の布教に尽力されました。

健保2(1214)年、親鸞様は42歳にして関東への移住を決められたようで御座います。
常陸国稲田を拠点として念仏の教えを広められたという事で御座いますが、矢張りここでも朝廷、鎌倉幕府による弾圧、旧仏教徒との諍いに悩まされた御様子で御座います。

天福元(1235)年頃、親鸞様は帰京なさっておられます。
この理由は定かでは御座いませんが、天福2(1234)年に幕府が念仏者取締令を発している事から、関東での念仏布教弾圧は相当なものであったのかもしれません。
帰京後は信者への指導の傍ら著作活動に励まれたといわれ、 教行信証浄土和讃高僧和讃唯信鈔文意浄土文類聚鈔尊号真像銘文浄土三経往生文類愚禿鈔皇太子聖徳奉讃入出二門偈頌文如来二種回向文一念多念文意大日本国粟散王 聖徳太子奉讃尊号真像銘文正像末和讃等…数多くの書物を残されておられます。

そして 弘長2年11月28日(1263年1月9日)、善法院にて、御入滅。
享年90歳という、当時にしては かなり長命ともいえる御生涯を終えられました。


親鸞様は、人は阿弥陀仏に救われると信じた時、既に もう救われているのだと説かれました。
そして、“南無阿弥陀仏”と念仏を唱えるのは、阿弥陀仏に対する感謝の気持ちを込めた御礼の言葉なのであると教えられました。
歎異抄には、いつも善い行いをして心に悩みの無い善人でさえ極楽往生する事が出来るのだから、心が弱い為に悪事を犯して悩んでいる人間が、どうして往生出来ない事があろうか、と親鸞様が述べられた事が記されております。
親鸞様の教えは、法然様の開いた浄土宗を更に推し進めた教えであるとして“浄土真宗”と呼ばれ、今日まで篤く信仰されて参りました。

広島には浄土真宗の安芸門徒が多いので御座いますが、例に漏れず、私の実家も浄土真宗で御座いますので、幼い頃より祖先と共に阿弥陀仏様や親鸞様を拝む習慣が御座いました。
私自身は神道寄りな信仰心の方が強いのですが、浄土真宗の御寺さんが経営する幼稚園へ通っていた事や、宗教色は全く見られなかったものの中学高校も一応 浄土真宗の学園で御座いましたので、矢張り決して無縁であるとは感じておりません。
歴史上の人物としてだけで無く、親鸞様の御生涯に触れる事で少しでも実家の宗教を理解する事が出来れば、今度 帰省した際に祖父母と語れる話題も増えるかしら…と考えてみたりしております。

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Comment

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うちの実家も浄土真宗ですが
親鸞さんは曹洞宗の良寛さんと共に私の好きな仏教僧です。

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」
については、
「自分を善人だと思っている人間ですら救われるのだから、自分を悪人だと思っている人間が救われないはずがない」
という解釈もあるようで、私はこの解釈が気に入っています。
「自分を善人だと思って」親鸞さんたちを迫害した僧侶たちに対する痛烈な皮肉ともとれるのではないかと、勝手に考えたりします。


あと、神道寄りな信仰心を持っていながら仏教にも理解を示そうとしているどうゝねさんの姿勢は素晴らしいですね。
居眠りフクロウ | URL | 2008/05/16/Fri 22:05[EDIT]
>居眠りフクロウさん
“自分を善人だと思っている人間”
成程…確かに奥の深い御言葉ですね〜。
一体、善悪とは何を基準に定められるものなのだろうかと思えてしまいます。

良寛様の御生涯や、伝えられる御人柄には、私も惹かれております。
現代人にとって“宗教”は、何か怪しい信仰のように映ってしまう事も多いですが、そもそも何故そのような各宗派が生まれる事となったかを考える事は、とても大切な事だと思います〜。
私は神道寄りではありますが、実は神仏習合の名残を感じさせられる社寺等が特に好きで…。
日本は八百万の神仏がいらっしゃる国で御座いますので、神様も仏様も尊い存在で御座いますね。
どうゝね | URL | 2008/05/19/Mon 20:45[EDIT]
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