日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

こうやの御山の奥院。
高野山01


先月末、関西での用事が無くなってしまったからと唐突に思い立って行ってしまった高野山…。
平家の方々にも由縁ある地で御座います故、予てより参詣してみたいとの願望は御座いましたが、高野山は長い間“女人禁制”の聖地として崇められていた尊い霊山。
いくら禁制が解かれて観光客も参詣出来る時代になったとはいえ、私のような者が おいそれと足を踏み入れてしまって良いのだろうかと、中々思い切ることも出来ずに踏み止まっておりました。
……が、ついに…ついに、ついに、念願を果たす事が出来まして……本当に感無量で御座います。
とても ひと言ふた言では語り切れぬ高野山での感動を、一体どう表現すべきか…高野山の信仰の深さは量りきれなくて、ちゃんと纏める事も出来ないとは思います;
取り留めの無い感想文のようになってしまうかもしれませんが、それでも何とか自分の言葉で書き留めておきたいと思いますので、本日より高野山に関する諸々の事に触れていきたいと思っております。


大阪市内から高野山までは、約2時間ちょっと。
南海なんば駅より電車とケーブルを利用して高野山駅まで行く事が出来ます。
もっと事前から計画を立てていたならば、私はきっと熊野から古道経由で高野山参詣を目論んだ事と思われますが(笑)、今回は急な発案で御座いましたので、南海電車とケーブル往復と高野山上バスのフリーパスに各施設、御土産屋さんで使える割引券等がセットになった南海電鉄の“高野山フリーサービック”を利用させていただく事に致しました。

高野山に近づくにつれ、自分でもおかしいんじゃないかしらと心配する位にテンションが上がってしまいまして…(苦笑)
何に興奮していたのか分からないのですが、ケーブルの中でも先頭の窓際に貼り付いて、隣に立っていた御子様と一緒になってはしゃいでしまいました///
連休はじめとはいえ、平日で御座いましたので、そんなに人出も多くないかなぁと思っておりましたが、気付けば沢山の方々がケーブルに同乗されておりました。

高野山02


高野山は、平安時代 弘法大師空海様が修行場として開かれた仏教聖地――和歌山県の東北部に位置する 標高約千メートル前後の山々の総称で御座います。
“高野山”という名称は、特定の御山を指す固有名詞では無いのですね〜。
熊野の霊場と共に“紀伊山地の霊場と参詣道”として世界遺産にも登録されております。

周囲を山の峯々に囲まれる仏都は、それぞれを蓮華の花弁に例えられており、外八葉と呼ばれる峯は、金剛峯、小塔峯、山王峯、遍照峯、転軸山、楊柳山、摩尼山、姑射山であると考えられ、壇上伽藍を取り囲むように存在する剣崎峯、南虎峯、宝珠峯、薬師山、山王峯、神応岳、小塔峯、勝蓮花峯は内八葉と呼ばれます。
合計16葉の山々は金剛界曼荼羅の十六大菩薩に相当するとして、高野山は蓮華の中心にある仏教聖地であると説かれております。

千年以上も護られてこられた高野山の女人禁制が解かれたのは、明治5(1852)年の事。
国の政策によって事実上は解除された禁制で御座いましたが、実際は 山内の厳しい規制もあって、中々受け入れられず、むしろ禁制強化の傾向さえ伺えたそうで御座います。
翌年には女性の参詣者も増えますが、参拝を済ませた女人は さっさと下山しなくてはならなかったようで御座います。
本当の意味で禁制が解除されたのは、もう少し後の明治39(1906)年の事だといわれております。
高野山の女人禁制については、女人堂と合わせて 改めて考えてみたいなぁと思っております。

高野山といえば、かつては真言密教の一大道場で御座いましたが、現在は総本山 金剛峯寺を中心に117の寺院、53を超える宿坊が在るという事で御座います。
山上では、至る所に案内地図等を見る事が出来ます。
高野山について…とひと言に申しましても、広範囲な上に様々な要所が御座いますので、先ずは高野山における大師信仰の中心地で御座います 奥の院について、本日は記したいと思います。

高野山03


こちらが、一の橋を渡った先に御座います 奥の院への表参道入口。
ここから2キロメートル程続く御参道を通って御廟へ向かうのが正式な参拝路で御座いますが、もう少し御廟寄りの場所までバス停が設けられておりますので、体力的に難しい方でも奥の院まで行く事が出来るようになっております。
思ったより石段等も少なく、車椅子の方とも擦れ違いましたが、特に進行に不自由無く進まれていらっしゃる様子で御座いました。

ここから奥の院までの御参道沿いには、樹齢千年を超える杉の木さん方と共に、20万基以上もの御墓や慰霊碑、祈念碑等が立ち並んでおりました。
噂には聞いておりましたが、実際に その間を歩いておりますと、何とも不思議な感覚に包まれるようで御座いまして…。
大阪の切符売場で、
「高野山は3時間もあれば、余裕で全体を見てまわれますよ」
…等と伺っておりましたが、ところがドッコーイ!(笑)
私は、この参道入口から奥の院に辿り着くまでに3時間以上の時間を費やしておりました。


何だかあちらこちらから呼ばれるような気がして、いろんな方々の御墓参りをさせていただいて参りました。
歴史上に御名を残される有名な方々の御墓から、無名の小さな石塔まで、実に様々な御墓が所狭しと密集して並んでおり、歴史好きには堪らなく魅力的な墓所で御座います。
また、近代の有名財閥や著名人の方々の御墓も良く目立っておりました。
中にはユニークな御墓もあって、白蟻除去を主とされる企業さんが とても立派な白蟻さんの御墓を建てられておられたり…。
こちらの墓所群については、明日以降じっくりと記していこうかと……。

胸の高鳴りは感じておりましたが、流石に御墓で御座いますので あくまでも冷静に…と心掛けて行動していたのですが、何故だか少し浮いてしまっていたようで、歩いていると時々 道行く方に呼び止められて話し掛けられたり致しました。
私が道標も出ていない細道の奥にある墓所を拝んでおりますと、
「貴女は他の方とは違いますね、一体何者なんですか?」
と、わざわざ追い掛けて聞いてこられる方もいらっしゃったりして……え…えぇ!??
そ…そんなに私は不審な人間に見えてしまったので御座いましょうか…凹。
若い方が余りいらっしゃらない中、やたらとウロチョロしていた所為で御座いますよね、きっと;
うぅぅ…申し訳御座いません;;

高野山04


そして、辿り着いた この御廟橋を渡った先に御座いますのが、奥の院。
空海様入定の地とされている、高野山霊域の拠点で御座います。

ここから先は当然の事ながら、写真撮影は禁止で御座います。
写真どころか、私の立入りも禁止なのでは…と、暫く手前に立ち止まってしまいましたが、折角 ここまで来させていただいたのだから、ここで引き返す方が寧ろ大師様に失礼だわと思い直し、勇気を出して進ませていただく事に致しました。

↑橋を渡った奥に見えております御堂は灯籠堂。
神社の拝殿的役割を兼ねる御堂となっており、こちらには 長和5(1016)年に様という女性が両親の菩提供養の為に髪を売って献されたという“貧女の一燈”と、寛治2(1033)年に白河天皇によって献燈された“白河燈”が、千年以上の時を経ても尚 燃え続けているそうで御座います。
昭和23年には昭和天皇も“昭和燈”を献上されており、これを合わせた3燈は“常明燈”として、全国より参詣された信者の方々が献じられた万燈と共に消える事無く灯されております。

灯籠堂の向こう…最奥には、国の史跡にも指定されております弘法大師御廟が御座います。
承和2年3月21日(835年4月22日)、空海様は御年62歳にて入定されたと伝えられます。
“逝去”では無く、あくまでも“入定”とされるのは、空海様が 今も そこに在られると信じられているからで御座います。
大日如来の印を結んで座禅を組み、永遠の悟りに入られたといわれる空海様は、今この瞬間も静かに時を数えておられるので御座います。

その他、奥の院には記念燈籠堂、御供所、不動堂、納骨堂、経堂、水掛地蔵様等があり、流れる清流の水音に心が洗われ、満たされるような気持ちにさせられました。

高野山05


高野山は、平家物語とも様々な関わりが御座いますが、奥の院といえば、有王様の事が思い浮かんで参ります…。

□ 有王(ありおう)

生年:不詳
没年:不詳


平家物語によると、有王様は幼少の頃より俊寛様に御仕えしていた童という事で御座いますが、それ以外の事は不明で御座います。

鬼界ヶ島に流された方々が京へ帰られると聞いた有王様は、御主人に御逢い出来ると喜んで鳥羽まで迎えに行かれましたが、そこに俊寛様の御姿は御座いませんでした。
主に逢いたい一心で、平家の邸宅が並ぶ六波羅辺りをうろつき、少しでも俊寛様に関する情報を得ようとされましたが、これといった収穫も無く…。
俊寛様の娘より手紙を預かった有王様は、御両親にも告げず、ただひとり鬼界ヶ島へ渡る決心をなさいました。

ひとり鬼界ヶ島に残された俊寛様に逢う為、幼い頃より御仕えしておられた有王様が苦難にもめげずに遥々海を越え、辿り着かれた末に痩衰えた俊寛様と再会を果たされますが、京で健在であろうと信じていた妻子の死を知った俊寛様は、いつまでも生きているのは心苦しいと食を絶たれ、只管に念仏を唱えられるようになります。
そして、有王様が島に着いて23日目…俊寛様は粗末な小屋で37歳の御生涯を終えられる事となりました。

有王わたて廿三日と云に、其庵りのうちにて遂におはり給ぬ。
年卅七とぞ聞えし。
有王むなしき姿に取つき、天に仰ぎ地に伏て、泣かなしめ共かひぞなき。
心の行程泣あきて、
「やがて後世の御供仕べう候へ共、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ、後世訪ひまいらすべき人も候はず。しばしながらへて御菩提訪ひまいらせ候はん」
とて、ふしどをあらためず、庵をきりかけ、松のかれ枝、蘆の枯葉を取おほひ、藻塩のけぶりとなし奉り、荼毘事をへにければ、白骨をひろひ、頸にかけ、又商人船のたよりに九国の地へぞ着にける。
 (中略)
有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へのぼり、奥院に納めつつ、蓮花谷にて法師になり、諸国七道修行して、主の後世をぞ訪ける。
か様人の思歎きのつもりぬる平家の末こそおそろしけれ。 (平家物語 高野本による)


俊寛様の遺体を火葬した有王様は、骨を拾って袋に入れ、それを首に下げて九州へと引き返し、唯一残された俊寛様の娘の元を訪ねた後、高野山にのぼって遺骨を奥の院に納められました。
その後、有王様は奥の院入口の蓮花谷で出家。
諸国へ修行の旅に出られ、俊寛様の御霊を慰められたと語られております。

悲しい御話で御座いますね…悲しいというか、何というか…もどかしい御話で御座います。
この場面を音読していると、有王様の御心が痛い程に切なく感じられて……涙を堪える事が出来ません。
この段は奢る平家の行末の恐ろしさを思わせる1文で締め括られており、次いで記される重盛様の御逝去によって、更に平家御一門への不安を大きく感じさせられる事となっていきます。

有王様の墓所は、全国各地に伝わっているといわれます。
柳田邦男氏の説によると、これは高野聖と呼ばれる人々が、有王様になりかわって諸国を巡り、布教活動の1つとして俊寛様の物語を広められたという事で御座います。
自らを“有王”と名乗る高野聖の方々が旅の途中で亡くなられると、人々はそれを有王様の死として受け止め、その地に御墓を築かれたのであろうと考えられております。

高野山06


奥の院は、古から伝わる この聖地で最も神聖な場所。
擦れ違う人は多かったのに、気が付けば深い静寂が保たれている不思議な場所で御座いました。

独特の雰囲気の中に身を置くと、何故 大師様がこの地を選ばれたのかという事が無条件に理解出来るような気が致します。
自分は今そこにいるのに“ここへ行きたい…私は、ここに憧れている”という気持ちが何処からとも無く込み上げてしまって…東京へ戻った今も、それは同じもので御座います。

高野山07


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