
京都府八幡市男山山上に鎮座される石清水八幡宮。
こちらは、その西の麓…駐車場の奥に御祀りされる 石清水八幡宮の摂社 高良神社で御座います。
何だか、写真の色がとても微妙で御座いますね…WB設定を誤ってしましました;;(反省)
院の御気色よかりければ、さまざまの祈をぞはじめられける。
八幡に百人の僧をこめて、信読の大般若を七日よませられける最中に、甲良の大明神の御まへなる橘の木に、男山の方より山鳩三飛来て、くいあひてぞ死にける。
鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。
宮寺にかゝる不思議なしとて、時の検校、匡清法印、奏聞す。
神祇官にして御占あり。
天下のさはきとうらなひ申。
但、君の御つゝしみにあらず、臣下の御つゝしみとぞ申ける。 (平家物語 高野本による)
平家物語巻第一“鹿谷”の冒頭部分に伺える“甲良の大明神”は、高良神社の事で御座いますね。
後白河院の聞こえも良かった藤原成親様は、祈願成就の為に様々な御祈祷を始められ、石清水八幡宮に百人の僧を籠らせて6百巻の大般若波羅蜜多経を7日間に渡って読誦させました。
その際、高良大明神の御神前にある橘の木に、男山の方より3羽の山鳩が飛んで来て互いに啄み合って死んでしまったという事で御座います。
鳩は八幡大菩薩の御使いとされておりますので、宮寺にこのような不思議な事がある筈は無いと、検校 匡清法印は この事を内裏へ報を致します。
これは唯事では無いと神祇官に占わせた結果、臣下は重く慎むべきであると出ましたが、成親様は、更に 人目につかない時間帯を選んで賀茂上社へ7夜の参詣を行われておられます。
平家全盛の世の中でも貪欲に出世を望まれた成親様の執念は、平治の乱の後に重盛様によって助命された事への恩よりも、出世を妨げる敵として映ってしまうので御座いますね…。
これは“ひとえに天魔の所為とぞ見えし”と語られておりますが、世の中 綺麗事だけでは収まらない…そんな妙な生々しさや人間らしさを怖い程 感じさせられるように思います。

□ 高良神社(こうらじんじゃ) □
所在地:京都府八幡市(石清水八幡宮境内)
御創建:貞観2年6月15日(860年7月7日)
御祭神:高良玉垂命
旧 称:瓦社、河原社、川原神、河原大明神、甲良大明神
高良神社は、石清水八幡宮の摂社であると同時に、八幡様の産土神様でも御座います。
“高良神社”と書いて“こうらじんじゃ”と読みますが…迂闊な私は、長い間“たかよしじんじゃ”とか“たからじんじゃ”等と間違えたまま認識しておりました…御恥ずかしい限りで御座います;
古くは“カワラ社”と称されておられたようで御座いますが、カワラ(瓦、河原、川原)がカウラ(甲良)となり、更にコウラとなって“高良神社”という御社名になったといわれております。
“高良”の字が当てられたのは、筑前国の高良大社と音が似ていた為でもあると考えられており、御祭神も高良大社と同じく高良玉垂命が御祀りされております。
御創建は貞観2(860)年、行教様による建立と伝えられております。
本地仏は勢至菩薩、もしくは竜樹菩薩とされており、御神体は木造の男女の像であったという事で御座います。
現在の場所から少し離れた場所に鎮座されており、また御社殿も随分と大きく御立派なものであったようで御座います。
慶應4(1868)年、鳥羽伏見の戦いの際に御社殿が炎上、御神体は一時的に上院の若宮社に避難され、明治9年に下院の頓宮殿内に安置される事となりました。
その翌年に石清水八幡宮の摂社として定められ、明治17年に再建された新しい御社殿に遷座。
明治39年には御神体と共に御社殿を現在地に遷されております。
現在の御社殿は、大正4年に再建されたもので御座います。
明治以前までは、境内社として六所小神社と呼ばれる祠や四大神社、松原社等も存在していたそうで御座いますが、それらの御祠、御社等は現存していないようで御座います。

御参道に建立された石鳥居を潜り、石段を上りますと、正面に拝殿、左側にはタブの巨木さんが聳えておられます。
山上の八幡宮とは違って、こちらを参拝される方は余り御見掛け致しません。
少し淋しいかな…とは思いますが、それ故に 静かな境内に漂う独特な雰囲気をより身近に感じられる気も致します。
高良社
石清水八幡宮の摂社で高良王垂命を祀る
宇佐宮より八幡大神を勧請した行教律師が貞観二(八六〇)年社殿を建立したと伝えられ吉田兼好の「徒然草」も、その名が見える
往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、明治初年の戊辰戦争の兵火に□□□た。
現在の社殿は明治十二年に再建されたもので、一間社入母造檜皮葺である
また高良社は八幡の産土神としての崇敬篤く、毎年七月十七・十八両日の祭礼には市内各区から太鼓みこしがかつぎ出され、この提灯が献灯される等、夜遅くまで賑わう
高良社祭献灯について
例年七月十八日斎行の高良社祭は今から約二百年前、高良社を氏神と仰ぐ地元町民が陰暦六月十七。十八両日を定め、境内各所に提灯を奉納したことに始まる、とされています。
地域に根差した伝統文化の継承を活動目標の一つに掲げる当青年会では、高良社祭献灯の古儀復興を目途とし、神社と地域社会とを結ぶ橋渡しのお役が務まればと、八幡市内はもとより広く崇敬者の皆様に献灯を御願いし、また八幡宮様には境内使用のご許可を賜り、祭典当日まで前後約五日間、ご覧の通り多数奉納されました提灯を、拝殿周囲及び参道に掲げさせていただいております。
神様に真心こめて捧げられた提灯の数々、皆様には参拝の往き帰りゆっくりご覧下さいます様ご案内申し上げます
石清水八幡宮青年会

高良社にまつわる物語といえば、徒然草 第52段で御座いますね。
仁和寺に、ある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。
極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、
「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意本意なれと思ひて、山までは見ず」
とぞ言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。 (徒然草による)
↓簡単に現代語訳致しますと、こんな感じの内容になります。
仁和寺の法師様が、御高齢になるまで石清水参拝をした事が無かった事を憂いておられましたが、ある時 思い立って たった1人、徒歩にて詣でられました。
男山山麓にある極楽寺、高良等を拝まれ、成程これが あの有名な石清水か〜と納得して京へ帰られました。
さて、京に帰って同僚の僧に会って、
「長年思い願っていた事を、果たす事が出来ました。色々と噂には聞いておりましたが、それよりもずっと尊く素晴らしかったです。ところで、沢山の人が山へと登っていかれておりましたが、何事かあったようですね、私も言ってみたいと思ったのですが、神様を御参りする事が何よりの本意で御座いましたから、山までは行かなかったのですよ」
と言いました。
少しの事にも、案内人があった方が良いものです。
つまりは、早とちり…勘違いの御話で御座いますね〜。
私もたまに史跡巡りをしていて勘違いをしてしまう事が御座いますので、この御話には必要以上に頷いてしまいます(苦笑)
遥々赴いた先で冒した失態を、帰った後に気付いてから「しまった…!!」と後悔する時程、遠い目をしてしまう事は無いような…;
この法師様のように本人が気付かないのであれば、それはそれで幸せな事のようにも感じられますよね。
史跡巡りの場合は、そうはいきませんが……凹。
ちなみに、当時は石清水参拝の折は、鴨川から舟でというのが主流であったようで御座います。
この法師様は、徒歩で行かれたという事で御座いますが…どれ位の日数を掛けて辿り着かれたので御座いましょう。
山上の八幡宮まで行けずとも、心はそこを目指して麓まで来られたのですから、きっと八幡様は御存知であった事でしょう〜と前向きに捉えたいもので御座います。
その後、勘違いで八幡宮参拝を果たせていなかったと知ってしまったら、かなり大きなショックを受けられる事と思われます……それは流石に可哀想過ぎますよね;
“知らぬが仏”と読める物語として終わっている事が、また面白く共感させられるポイントで御座います〜。

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