熊野と平家の御関係。
本日は、平維盛様と熊野について、記してみようと思います。

□ 平 維盛(たいらのこれもり) □
生 年:1157(保元2)年
没 年:1184年5月10日(寿永3年3月28日)
法 名:浄円
別 称:権亮三位中将、紅梅少将
戒 名:千手院殿前三位中将義山貞公大居士
官位官職:従五位下、美濃権守(仁安2年2月7日)
従五位上(仁安4年1月5日)
右近衛権少将(嘉応2年12月30日)
丹波権介(嘉応3年1月18日)
正五位下(嘉応3年4月7日)
中宮権亮(承安2年2月10日)
従四位下(承安3年3月9日)
伊予権介(安元2年1月30日)
従四位上(安元2年12月5日)
春宮権亮(治承2年12月15日)
昇殿(治承2年4月27日)
蔵人頭、右近衛権中将(治承5年6月10日)
従三位(治承5年12月4日)
伊予権介(養和2年3月8日)
解官(寿永2年8月6日)
父 :平重盛
母 :不詳
弟 :資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実
妻 :新大納言(藤原成親次女)
子 :高清(六代)、夜叉御前
清盛様直系の孫で、重盛様の御嫡男で御座います。
愛しの小松の中将様…
←例の如く浮気性な私ですが、敦盛様は好みのタイプで、維盛様は理想のタイプで御座います〜
(←イカれた脳味噌ですみませんすみません;;)
維盛様といえば、桜梅の少将様!
1176(安元2)年に行われた後白河法皇50歳祝賀の席で、烏帽子に桜と梅の枝を挿し「青海波」を舞った時の美しさから、女房達に“桜梅少将”と称されました。
美しい容姿に豊富な学識、雅な御人柄…平家の公達の中では際立って素敵な男性と憧れられた維盛様でしたが、部門の嫡男としては、随分と不評が囁かれていたようです;
1180(治承4)年の富士川の戦いでは、追討大将軍として出陣致しますが、水鳥の羽音を敵の襲撃と勘違いし、敗走したと散々語られておりますねー……(涙)
都落ちの際、家族を連れ立って京を去る一門の人間が多い中、維盛様は妻と幼い子供達を残して行かれたと伝えられます。
歌舞伎等でも有名なシーンですね〜。
そして、1184(寿永3)年の屋島の戦いにて、数名(3人だったと思います)の従者のみを連れ添って、密かに陣中を抜け出します。
高野山に入り出家した後、熊野三山を参詣して、最期に那智沖で補陀洛渡海(入水自殺)をされたと一般的に言われております。
これは私の個人的見解なのですけれど、維盛様が内密に熊野に入ったのは、熊野を平家側に付ける為の捨て身の策だったのでは無いかしら…と思います。
屋島での戦況から、当時どちらとも付かずの熊野を平家軍に付ければ、また状況は変わるでしょうし、戦力としては力不足でも維盛様は平家の嫡流。
その存在が直接出向く事で、少しでも一門の波を巻き返す可能性となるのであれば、もしかすると……もしかしないかな、なんて…考えたりしております。
この頃、平家一門の主動権は宗盛様に移っておりまして、一般的に良い印象の持たれない宗盛様が戦動力の無い嫡男の維盛様を差し置いて…等と色々言われておりますが、これも、予め考慮した上での結論だったのでは――?と思うのです。
清盛様、重盛様亡き後の平家とはいえ、一門の面々が嫡流を無視しての指揮者変更に簡単に納得するとも思えませんし…勿論、上部の一部だけでの決定だったとは思いますが…。
あくまでも、私の個人的な想像です。
「えー、それはちょっと…」と思われる方も、当然いらっしゃると思いますので、どうか寛大な心でスル〜してやって下さいませー(笑)
……それと、この周辺の地域にとても多いのが、維盛様の落人伝承地。
湯の峰や、吉野等、諸説御座います。
この件につきましては、また後日、改めて記そうと存じます。

九十九王子の1つ、浜の宮王子の社跡で御座います。
当時は、この辺りまで砂浜が広がっていたそうです。
王子社殿は、宝永の津波で決壊してしまったのだそうで…。
浜の宮大神社とも呼ばれておりまして、神仏習合の名残が色濃く残っているのが良く解ります。

□ 熊野三所大神社 □
所在地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮
主祭神:夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神
創 建:欽明帝代

□ 補陀洛山寺(ふだらくさんじ) □
所在地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
山 号:白華山
宗 派:天台宗
御本尊:三貌十一面千手千眼観音
開 基:裸形上人?
創 建:仁徳天皇治世?4世紀?
補陀洛=ポータラカ
古代サンスクリット語の観音浄土を意味している言葉だそうです。

華厳経では、補陀洛はインドの南端に位置しているとされており、日本から遥か南洋上に“補陀洛”が存在すると信じられておりました。
そこを目指して船で海へ出ること=補陀洛渡海で御座います。
極楽浄土を目指して小舟で沖へ出て行く訳ですが、平たく言ってしまえば、手段入水自殺……です。
運良く漂流して戻ってきた住職を、撲殺して海に流したり…と、とにかく1度出たら戻れない死への旅路だったのだそうです。
中世から、日本各地で補陀洛渡海は行われておりますが、その内、少なくとも25件は補陀洛山寺から出発していると記録に残っているようです。
↑境内には、再現された渡海船が展示されております。
船上の屋形には扉が無く、人が入った後に出入り口を板で塞がれ脱出不可能となっているようです。
屋形の四方に4つ鳥居が建っておりますが、これは“発心門”“修行門”“菩薩門”“涅槃門”の4出=死出の4門を表わしているとされております。
熊野が死の国と言われる謂れの1つにもなっているようですね。

↑補陀洛渡海の終点は意外と近く、那智の浜から肉眼で見えるこの島に死体が流れ着いたりしていたようです。
維盛様が入水されたのは紀の松島の小島と言われておりますが……ここ、では無いのかなぁー…???
ちょっと怪しいですよね…すみません;

補陀洛山寺の裏山には、渡海者の供養塔が建てられております。
で、気になって仕方が無いのが…維盛様と並んで建てられている、平時子様の供養塔の存在で御座います………何故、こちらに……?????
補陀洛山寺の御住職さんに御伺いしてみたのですけれど、これは御寺さん的にも謎な所なのだそうで……うーん、確かに…謎ですよ…ね;;
時子様が御亡くなりになられたのは安徳天皇と共に壇ノ浦で、とされておりますし、維盛様の父・重盛様の母は、時子様では無い為、維盛様との直接的な血縁関係も御座いませんしー…。。
色々調べてはみたのですけれど、結局の所、誰にも判らないようです;
不思議ですね〜(苦笑)
※タイトルは、建礼門院右京大夫の和歌(家集218)より。
維盛様を“光源氏の再来”とまで称した女性歌人ですね〜。
維盛様の腹違いの弟君・資盛様との恋愛が有名です。
詞書“あだならぬ便りにて、確かに伝ふべきことありしかば、
「かへすがへす、かくまでも聞こえじと思へど」など言ひて」
↓
“信頼出来る便りがあって、確かに資盛様に文を送る機会があったので、
「よくよく、こんな便りも差し上げまいと思っておりましたけれど」
などと言って”
“まだ同じ世にいるのだと、矢張り思っているのですが、
それが悲しいのです…生きていても、生きているとは
言えないようなこの世なのですもの”

本日は、平維盛様と熊野について、記してみようと思います。

□ 平 維盛(たいらのこれもり) □
生 年:1157(保元2)年
没 年:1184年5月10日(寿永3年3月28日)
法 名:浄円
別 称:権亮三位中将、紅梅少将
戒 名:千手院殿前三位中将義山貞公大居士
官位官職:従五位下、美濃権守(仁安2年2月7日)
従五位上(仁安4年1月5日)
右近衛権少将(嘉応2年12月30日)
丹波権介(嘉応3年1月18日)
正五位下(嘉応3年4月7日)
中宮権亮(承安2年2月10日)
従四位下(承安3年3月9日)
伊予権介(安元2年1月30日)
従四位上(安元2年12月5日)
春宮権亮(治承2年12月15日)
昇殿(治承2年4月27日)
蔵人頭、右近衛権中将(治承5年6月10日)
従三位(治承5年12月4日)
伊予権介(養和2年3月8日)
解官(寿永2年8月6日)
父 :平重盛
母 :不詳
弟 :資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実
妻 :新大納言(藤原成親次女)
子 :高清(六代)、夜叉御前
清盛様直系の孫で、重盛様の御嫡男で御座います。
愛しの小松の中将様…
←例の如く浮気性な私ですが、敦盛様は好みのタイプで、維盛様は理想のタイプで御座います〜
(←イカれた脳味噌ですみませんすみません;;)維盛様といえば、桜梅の少将様!
1176(安元2)年に行われた後白河法皇50歳祝賀の席で、烏帽子に桜と梅の枝を挿し「青海波」を舞った時の美しさから、女房達に“桜梅少将”と称されました。
美しい容姿に豊富な学識、雅な御人柄…平家の公達の中では際立って素敵な男性と憧れられた維盛様でしたが、部門の嫡男としては、随分と不評が囁かれていたようです;
1180(治承4)年の富士川の戦いでは、追討大将軍として出陣致しますが、水鳥の羽音を敵の襲撃と勘違いし、敗走したと散々語られておりますねー……(涙)
都落ちの際、家族を連れ立って京を去る一門の人間が多い中、維盛様は妻と幼い子供達を残して行かれたと伝えられます。
歌舞伎等でも有名なシーンですね〜。
そして、1184(寿永3)年の屋島の戦いにて、数名(3人だったと思います)の従者のみを連れ添って、密かに陣中を抜け出します。
高野山に入り出家した後、熊野三山を参詣して、最期に那智沖で補陀洛渡海(入水自殺)をされたと一般的に言われております。
これは私の個人的見解なのですけれど、維盛様が内密に熊野に入ったのは、熊野を平家側に付ける為の捨て身の策だったのでは無いかしら…と思います。
屋島での戦況から、当時どちらとも付かずの熊野を平家軍に付ければ、また状況は変わるでしょうし、戦力としては力不足でも維盛様は平家の嫡流。
その存在が直接出向く事で、少しでも一門の波を巻き返す可能性となるのであれば、もしかすると……もしかしないかな、なんて…考えたりしております。
この頃、平家一門の主動権は宗盛様に移っておりまして、一般的に良い印象の持たれない宗盛様が戦動力の無い嫡男の維盛様を差し置いて…等と色々言われておりますが、これも、予め考慮した上での結論だったのでは――?と思うのです。
清盛様、重盛様亡き後の平家とはいえ、一門の面々が嫡流を無視しての指揮者変更に簡単に納得するとも思えませんし…勿論、上部の一部だけでの決定だったとは思いますが…。
あくまでも、私の個人的な想像です。
「えー、それはちょっと…」と思われる方も、当然いらっしゃると思いますので、どうか寛大な心でスル〜してやって下さいませー(笑)
……それと、この周辺の地域にとても多いのが、維盛様の落人伝承地。
湯の峰や、吉野等、諸説御座います。
この件につきましては、また後日、改めて記そうと存じます。

九十九王子の1つ、浜の宮王子の社跡で御座います。
当時は、この辺りまで砂浜が広がっていたそうです。
王子社殿は、宝永の津波で決壊してしまったのだそうで…。
浜の宮大神社とも呼ばれておりまして、神仏習合の名残が色濃く残っているのが良く解ります。

□ 熊野三所大神社 □
所在地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮
主祭神:夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神
創 建:欽明帝代

□ 補陀洛山寺(ふだらくさんじ) □
所在地:和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
山 号:白華山
宗 派:天台宗
御本尊:三貌十一面千手千眼観音
開 基:裸形上人?
創 建:仁徳天皇治世?4世紀?
補陀洛=ポータラカ
古代サンスクリット語の観音浄土を意味している言葉だそうです。

華厳経では、補陀洛はインドの南端に位置しているとされており、日本から遥か南洋上に“補陀洛”が存在すると信じられておりました。
そこを目指して船で海へ出ること=補陀洛渡海で御座います。
極楽浄土を目指して小舟で沖へ出て行く訳ですが、平たく言ってしまえば、手段入水自殺……です。
運良く漂流して戻ってきた住職を、撲殺して海に流したり…と、とにかく1度出たら戻れない死への旅路だったのだそうです。
中世から、日本各地で補陀洛渡海は行われておりますが、その内、少なくとも25件は補陀洛山寺から出発していると記録に残っているようです。
↑境内には、再現された渡海船が展示されております。
船上の屋形には扉が無く、人が入った後に出入り口を板で塞がれ脱出不可能となっているようです。
屋形の四方に4つ鳥居が建っておりますが、これは“発心門”“修行門”“菩薩門”“涅槃門”の4出=死出の4門を表わしているとされております。
熊野が死の国と言われる謂れの1つにもなっているようですね。

↑補陀洛渡海の終点は意外と近く、那智の浜から肉眼で見えるこの島に死体が流れ着いたりしていたようです。
維盛様が入水されたのは紀の松島の小島と言われておりますが……ここ、では無いのかなぁー…???
ちょっと怪しいですよね…すみません;

補陀洛山寺の裏山には、渡海者の供養塔が建てられております。
で、気になって仕方が無いのが…維盛様と並んで建てられている、平時子様の供養塔の存在で御座います………何故、こちらに……?????
補陀洛山寺の御住職さんに御伺いしてみたのですけれど、これは御寺さん的にも謎な所なのだそうで……うーん、確かに…謎ですよ…ね;;
時子様が御亡くなりになられたのは安徳天皇と共に壇ノ浦で、とされておりますし、維盛様の父・重盛様の母は、時子様では無い為、維盛様との直接的な血縁関係も御座いませんしー…。。
色々調べてはみたのですけれど、結局の所、誰にも判らないようです;
不思議ですね〜(苦笑)
※タイトルは、建礼門院右京大夫の和歌(家集218)より。
維盛様を“光源氏の再来”とまで称した女性歌人ですね〜。
維盛様の腹違いの弟君・資盛様との恋愛が有名です。
詞書“あだならぬ便りにて、確かに伝ふべきことありしかば、
「かへすがへす、かくまでも聞こえじと思へど」など言ひて」
↓
“信頼出来る便りがあって、確かに資盛様に文を送る機会があったので、
「よくよく、こんな便りも差し上げまいと思っておりましたけれど」
などと言って”
“まだ同じ世にいるのだと、矢張り思っているのですが、
それが悲しいのです…生きていても、生きているとは
言えないようなこの世なのですもの”
Comment
秋に補陀洛山寺を訪れてみようと検索していたら
こちらに辿り着きました。
私もぜひ維盛様の供養塔まで足を延ばしてみたいのですが
裏山までの道は険しいのでしょうか?
こちらに辿り着きました。
私もぜひ維盛様の供養塔まで足を延ばしてみたいのですが
裏山までの道は険しいのでしょうか?
しずか | URL | 2007/09/01/Sat 15:12[EDIT]
こんにちは、はじめまして。
コメント有難う御座います〜。
維盛様、時子様の供養塔は、補陀洛山寺の直ぐ裏手に御座いまして、道標に沿って5分もかからない位の場所に御座います。
登っていくと広い墓地に出るのですが、更にその一段上にある墓地の並びに供養塔が建てられております。
足場が不安定な部分も少しありますが、そんなに険しい山道では無いかなぁ…と。
少しでも 御参考になれば幸いで御座います
コメント有難う御座います〜。
維盛様、時子様の供養塔は、補陀洛山寺の直ぐ裏手に御座いまして、道標に沿って5分もかからない位の場所に御座います。
登っていくと広い墓地に出るのですが、更にその一段上にある墓地の並びに供養塔が建てられております。
足場が不安定な部分も少しありますが、そんなに険しい山道では無いかなぁ…と。
少しでも 御参考になれば幸いで御座います

どうゝね | URL | 2007/09/01/Sat 23:05[EDIT]
どうゝねさん、詳しく教えていただいてありがとうございます。
供養塔まで行ってみようと思います。
また質問があったらお邪魔しますね。
供養塔まで行ってみようと思います。
また質問があったらお邪魔しますね。
しずか | URL | 2007/09/02/Sun 11:33[EDIT]
はい〜、気を付けて行ってらして下さいね。
また何か御座いましたら(何も無くても…/笑)、御気軽に話し掛けてやって下さいませ♪
また何か御座いましたら(何も無くても…/笑)、御気軽に話し掛けてやって下さいませ♪
どうゝね | URL | 2007/09/03/Mon 01:30[EDIT]
こんばんは!
その節はいろいろと教えていただいてありがとうございました。
おかげさまで、予定していた史跡めぐりをすることができ、
維盛の供養塔の写真も撮れました!
次回の旅は紅葉の頃、京都を予定しています。
また遊びに来ますね。
その節はいろいろと教えていただいてありがとうございました。
おかげさまで、予定していた史跡めぐりをすることができ、
維盛の供養塔の写真も撮れました!
次回の旅は紅葉の頃、京都を予定しています。
また遊びに来ますね。
しずか | URL | 2007/10/09/Tue 23:15[EDIT]
おかえりなさいませー!
田辺の弁慶まつり当日、今頃 しずかさんは田辺辺りを楽しまれている頃かしら…等と思っておりました。
熊野はいかがでしたか??
維盛様の供養塔にも行けたようで何よりです。
今度は、京都で紅葉狩りでしょうか…素敵ですね〜!
私も紅葉の頃には熊野経由で京都かなぁと考えていたのですが、仕事の都合で年末になりそうな予感です;;
寒いの苦手なんだけどな……と思いつつも、行ってしまうのは 愛ゆえに…で御座いますね(笑)
はい,是非また遊びに来てやって下さいませ〜♪
田辺の弁慶まつり当日、今頃 しずかさんは田辺辺りを楽しまれている頃かしら…等と思っておりました。
熊野はいかがでしたか??
維盛様の供養塔にも行けたようで何よりです。
今度は、京都で紅葉狩りでしょうか…素敵ですね〜!
私も紅葉の頃には熊野経由で京都かなぁと考えていたのですが、仕事の都合で年末になりそうな予感です;;
寒いの苦手なんだけどな……と思いつつも、行ってしまうのは 愛ゆえに…で御座いますね(笑)
はい,是非また遊びに来てやって下さいませ〜♪
どうゝね | URL | 2007/10/10/Wed 17:50[EDIT]
Track Back
| TB*URL |
3月も残り10日。チームは開幕の最終布陣を固めつつある。マイナー契約からの昇格を目指すパイレーツの桑田にとって、1球1球が生命線になる。 [続きを読む]
お得な情報多数掲載!! 2007/03/23/Fri 11:31
| ホーム |
