
鶴岡市内の自動車学校を卒業した翌日、私は酒田市で朝を迎えました。
一緒に卒業した妹を先に東京へ帰して ひとり酒田までやって来たのは、泉流寺さんを参詣したかったから…という理由も御座いましたが、その翌日に酒田市の離島 飛島へ向かう為でも御座いました。
飛島行の定期船が酒田港を出向するのは、午前9時半。
それを逃すと もう次は無いので、朝の弱い私は酒田駅前のホテルに宿泊する事に致しました。
朝、チェックアウトの際に ホテルの方が酒田港行のバス時刻表を調べて下さったので御座いますが、残念ながら都合の良い時間にはバスが運行しておらず;
駅前から酒田港までは少々距離が御座いましたので、行きは兎に角確実に…と思いまして、タクシーで向かう事となりました。
飛島への渡島には、乗船手続が必要で御座います。
乗船時間は約1時間半。
ウトウトと眠りこけている内に、気付けば飛島に到着しておりました///

飛島は、酒田港より約39キロメートルの海上に浮かぶ 周囲約12キロメートル、面積約2.7平方キロメートルの小さな島。
鳥海山大噴火の際に島が誕生したといわれる説や、女鹿山から続いていた羽県という半島が 嘉承3(850)年の大地震によって陥没して出来た島であるという説等があり、出現からして謎に包まれている不思議な御島でも御座います。
有史以前は無人島であったと考えられておりますが、紀元前には既に人が住んでいたともいわれております。
島内から縄文土器が発掘されている事から、約6千年前には確実に人類が居住されていたようで御座います。
平安期には、陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏の元にありましたが、その後は秋田の仁賀保氏、武藤氏、最上氏、酒田氏の勢力下に置かれたという事で御座います。
“飛島”という名称に定められたのは、江戸初期の事。
それ以前は、“都島”“渡島”“分之島”“鶴路島”“潮島”“豊島”“とど島”…等、時代と共に様々な名称で呼ばれていたようで御座います。
御恥ずかしい話ですが、最初に“飛島”という地名を本で見た時、迷わず“あすかじま”と読んでしまったのは私だけ…では無いですよね!?と信じてみたかったりして…も…申し訳御座いません;;
正しくは、読んで字の如く“とびしま”で御座います(笑)
飛島は、昭和25年4月に酒田市と合併。
昭和38年7月には国定公園に指定され、釣りやハイキングを楽しむ方々で賑わう楽しい御島となっております〜。

↑今回、私が目指しましたのは こちら。
“法木”集落近くの山中、ハイキングコース沿いに御座います“源氏盛、平家盛”で御座います。
源平両氏の姓が名付けられておりますが、ぶっちゃけ源氏とは無関係で御座います(笑)
源氏盛と平家盛、そして法木地区は、山形県内に伝わる平家伝承地の1つで御座います。
“源氏盛”といわれるのは、恐らくは近世に至って 2つある平家縁の塚から源平合戦を連想されるようになった事によって自然とそう呼ばれるようになったので御座いましょう。
山形の他の場所では悉く冬季故の恐怖や不便さを味わっておりました;
離島である飛島への渡島も、矢張りこの時期は中々に不利な条件が伴っておりまして…先ず、難関に感じられたのは1日に1往復しか船の便が無く、更に欠航も多いという現実で御座いました。
無事上陸出来たとしても、島内の様子や交通の便について色々と不安や疑問が御座いましたので、事前に酒田市の窓口に問合せをさせていただいたので御座いますが、飛島に関する詳細は酒田市
では殆ど分からないのだそうで…そ、そんなー(涙)
恐らく雪は解けていると思いますが、詳しい事は実際に行ってみて下さいという事で御座いましたので、これは もう直接行ってみる以外に無いなぁと思いまして、強引に日帰り渡島をして参りました。
ちなみに…時間の都合で私は日帰りで御座いましたが、外部から観光にいらっしゃる方は1泊されるのが普通だそうで御座います。
また、島内では無料のレンタサイクルも実施されているという事で御座いましたが、こちらも冬季の貸出は行われていらっしゃらないのだそうで…。

島内にはハイキングコースが整備されている事もあって、其処彼処で案内地図を発見する事が出来ますので、基本的に迷う心配は御座いませんでした。
ただ、日帰りの為、私が島内に滞在出来る時間は僅か2時間半…!
復路の定期船に遅れないように確実に戻って来なくてはならない事が、今回最大の課題で御座いました;
距離的にはどの程度のものかな…という不安も御座いましたので、極力早歩きや小走りでちょこまかと移動致しました。
定期船停泊の勝浦港から海沿いの道を只管進み、中村地区の小中学校脇から山道に入って少し登った場所に、源氏盛、平家盛への道標を発見致しました。
下船からこの場所到着まで、所要時間は40〜50分程度。
とりあえず、ほっとひと息吐きたくなる瞬間で御座いました(笑)

道標に従って細道に入ると、直ぐに案内板が目に入りました。
奥には囲いが少し見えておりますが、手前と置くに並んで築かれた囲いの中に、どちらがどうという事も無く“源氏盛、平家盛”と呼ばれている塚が御座います。
源氏盛・平家盛
屋島、壇の浦の戦いに敗れた平家の武者たちは、海上に活路を求め、軍船で伯耆を船出しました。
北へ北へと押し流され、さらにいくどかの強風にもあって破船し、この飛島に漂着しました。
陸に上がった武者たちは、追手から逃れるため、弓矢、具足を捨てて土着し、漁の道に入りました。
この饅頭塚のひとつは、落ちのびる船中で最期をとげた武者たちを葬り、いまひとるてゃ、漁具に持ち替えた刀剣、甲冑を埋めたものと伝えられています。
酒田市

小山のような塚を想像していたので御座いますが、そんなに大きく盛り上がっているという事も無く、少し こんもりと盛り上がっている小さな丘が2つ綺麗に並んでいるといった感じで御座いました。
とびしま総合センター様にていただいた資料によりますと、この2つの饅頭塚は、それぞれ直径約4メートル、高さは1.5メートル程度であるという事で御座います。
2つの塚の内、1つには 落ち延びる途中の船内にて亡くなられた平家武者の方々が葬られていると言い伝えられており、もう1つには この島に土着する事を決意された元平家武者の方々が甲冑、刀剣等、武士である証を封印なさったといわれております。
こちらが史跡として扱われていないのは、物的証拠が発掘されていない為……と申しますか…言い伝えによれば、この場所は平家武者の御墓でもある訳で御座いますので“掘り返すと祟りがある”と古くより戒められており、それによって今も尚 発掘調査等は行われていないのだそうで御座います。
何十年か前に、意欲有る この島の若者達が真実を突き止めようと発掘を試みたのだそうで御座いますが、祟りを恐れた大人達の抑制によって、結局 計画は阻止されてしまったのだそうで。
また、“この塚の下には御宝が埋蔵されている”という伝説も語られているようで、かつて塚を掘り起こそうとする人も居たそうで御座いますが、完全に掘り返す前に見付かって元に戻されたという事で御座います。
そこまでして、頑なに護られてきた2つの塚。
それが今も続く、飛島の住民の方々と平家武者の方々との絆の証であるのか否かは定かでは御座いませんが、墓所を暴いてまで真実を知ろうとは思わない…その御気持ちは、とても大切なものだと私は思います。
もしも土地の方々が反対を唱える中、発掘が実施されて 本当に平家縁と思われる白骨や骸が発見されたとしても……それを知って手放しに喜ばれる御方は、一体何処の何方なので御座いましょう。
歴史的証拠を確証付けられる場所だけが“史跡”だとは、私は思いません。
長い年月を、只管に隠して護り通して来られたという事も、また1つの歴史であり大切な文化で御座います。
それを中断して白黒ハッキリさせずとも良い場所、そんな場所がある事も素敵だと思いませんか。
源氏盛・平家盛
文治もすえのむかし、この島の東海岸院の島(いまの寺島)も漂着した一艘の軍船があった。
院の島は、当時円福院が拝領していたため、名主は住職とつれだってでかけたが、船はながいあいだ、波風とのはげしいたたかいを物語るかのように、帆柱は折れ、舵もちぎれ、舷もまた無残にやぶれて、見るかげもないありさまであった。
船内には具足をまとった武者どもが、息もたえだえにつかれはてて、寄りそい、あるいは折りかさなって、すでにこときれた者も多く、目をおおうばかりの惨状であった。
この者たちは、屋島、壇ノ浦の戦いにやぶれた平家の武者たちで、きびしい源氏の探索をのがれて、海上に活路をもとめ伯耆の国をあとに船出したが、岸にももどれず沖へ沖へとおし出され、黒潮の流れと、南の風にのっていつとはなしに、北へと流されてしまったのであった。
途中いくたびか強風にあい、巨浪にほんろうされながら、能登の岬をかすめ、佐渡が島をそれ、栗生島もはずれて、この島にたどりついたものであった。
名主は、代官所からの触れで、すでに落武者であることをさっしたが、あまりにも無残なこのありさまに呆然とし、せめて生存した者の救い出しを決意して、ひそかな扱いを島びとに達した。
島びとの手厚い看護のかいあって、この者たちは一命をとりとめることができたが、天下のお尋ね者とはいえ、肉親もおよばぬ思いで助けた人たち、恩愛の情が自然にわいて、ひそかに島に土着させることを名主に願いでた。
「仏法ゆかりの院の島に漂着したのも、なにかの因縁……」
と、名主も島の北側の崖かげの地へひそかに住まわせることを心に決め、万一探索の手がのびても、いっさい口をふうずることを命じた。
それからのち、この者たちは武者姿をかなぐり捨て、弓矢を魯櫂に、刀を漁具にもちかえて漁の道にはいった。
法木の部落は、落武者の住みついたところといわれているが、船出した伯耆にちなんでつけた部落名ともいわれている。
また高森山麓の二つの饅頭塚は、源氏盛、平家盛といわれ、1つは落ちのびる船中で無念の最期をとげた武者たちを葬ったものといわれ、いま1つは武士を廃業したこの者たちが、甲冑、刀剣を埋めた鎮魂の塚と伝えられている。
さらにこの部落に古くから伝わる、被ったフロシキの上を手拭いでハチマキに結び、顎にたれた端を頭の上にゆわいつけるかぶり方は、武者なごりの「兜被り」とよばれている。 (飛島 伝承ばなしによる)
元平家武者の方々が、現在の法木地区へ住まわれるようになったのは、少し後の事とともいわれております。
逃れて来られた当初は、追手が来る事を想定してか山中で生活されており、次第に漁をするのには海辺に近い方が便利である事から平地に集落を作られたのでは無いかと考えられているようで御座います。
飛島の先住民族説
飛島の昔の生活は、どのように進んできたか。
源氏と平家が戦って、源氏から戦いに負け、東北地方に、落ちのびる時舟にのってきたが、波が高く、強いあらしのために、ちんぼつした。
その時、平家の人々は、島をみつけ、およぎついた。
その場所が、今の法木部落である。
離れ島のため、大陸に帰れず飛島に住むようになったのだと言われています。
のみ水もきれいにすんでいるし、家の建物、道路の広さ、寺院の歴史、姓名を見ても法木部落は、他の部落とことなっている。
尚、法木部落にある「多宝寺」の過去帳を見ると、約六百年前の歴史があるとされ、勝浦部落にある「円福院」は、それより後に建っていることが分かる。
又、説によれば、武家政治のため、各地で戦いがおこった。
そのために負けた方の大将は打ち首か切腹し、その家族などは島流しにされたもので、東日本では一番つみの重い人々は、この島に流されたといわれています。 (石巻・酒田沿線 道にまつわる「ふるさとの伝承」 酒田市 ふるさとの民話 による)
法木地区の方々の苗字についてで御座いますが、“齋藤”さん、“進藤”さん、と仰る御宅が多いようで御座います。
“藤”が付くから藤原氏の子孫の平家…?ともいわれてもいるようで御座いますが、うぅん…む、難しい問題で御座いますね〜(苦笑)
齋藤姓、進藤姓は、共に藤原利仁様の御子孫であるといわれる事が多いようですが、利仁様は平安期の伝説的武人で御座いますので、その御子孫を名乗られた人物で平家に縁がある方が居られても、おかしな話では無いのかもしれませ…ん…が。
利仁様の後裔を名乗られた源平合戦の頃の御方で、平家方として戦われた武将といえば、斎藤実盛様で御座いますね。
実盛様は篠原合戦の際に木曾軍によって討取られておられますが、実盛様の御子息である五様、六様 兄弟は、平家方として最後まで御仕えされておられます。
然し、同年の平家御一門都落ちに、御兄弟は維盛様の御嫡男 六代御前の御傍に残られておりますので、西国落ちには同行されておらず…壇ノ浦に敗れて舟で敗走という事には繋がらないように思います。
ただし、五様、六様に他の御兄弟が居た可能性は十分にあるかと思いますし、その御兄弟が御一門に従って都落ちされていたという事も考えられる事では無いかなとも思います。
…等と、色々な想像を巡らせている私で御座いますが…考え過ぎで御座いましょうか(苦笑)
平家落武者の話はこんな形でも残っている。
法木集落の男だけは「兜被り」という、フロシキの被り方をしたという。
被ったフロシキの上を手ぬぐいで鉢巻きに結び、あごに垂れた端を鉢巻きに結び付けた。
平家落武者の名残と伝えられるが、今では、そうした光景も見なくなった。 (「飛島ゆらゆら一人旅」による)

源氏盛、平家盛を訪れた後、未だ少し時間に余裕があると思いましたので、直ぐ麓の小中学校脇に御座いました とびしま総合センターを訪ねて参りました。
総合センターは、飛島の役場や公民館、福祉会館的な要素を統括した総合施設のような感じで御座いました。
突然の訪問で色々と御迷惑を御掛けしてしまいましたのに、とても御親切に対応して下さいまして…本当に嬉しかったです。
所有されている資料等を調べてコピーをして下さったり、酒田で資料を所蔵している場所を教えていただきまして、図々しくも立ち寄らせて貰って良かったなぁと心から思いました。

↑飛島に関する様々な御話は、とびしま総合センターにて御紹介いただいた 齋藤正一先生に教えていただきました。
丁度この日の便で酒田へ行かれる用事があったとの事で、総合センターより電話で直前アポをとらせていただいた後、復路の船内で御一緒して御話を聞かせていただきました。
齋藤先生は平家武者伝承の伝わる法木地区の御方で、飛島に御祀りされている八幡神社、小物忌神社の宮司さんでも御座います。
法木地区の中には更に“亻法(※にんべんに法と書くようです)木”という地域があるそうで、そちらが特に平家に縁ある方々の集落であると伺いました。
齋藤先生には、その他 飛島に関する様々な伝説や経験談等を御話いただきました。
とびしま総合センターの職員さん、齋藤正一先生、この度は大変御世話になりました。
御忙しい中、快く応じて下さいました事、本当に嬉しく思っております。有難う御座いました。
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823年前の昨日は、寿永4年3月24日(1185年4月25日 ※ユリウス暦です/グレゴリオ暦では1185年5月2日で御座います)…長門国 壇ノ浦にて平家御一門が滅亡の時を迎えられた日で御座いました。
本当は昨年のように、今年も赤間神宮にて行われる先帝祭に参加したかったので御座いますが……どうしても抜けられない仕事の為、残念ながら今年は東京に居残って自宅の神棚より遠い長門国を遥拝、御一門の冥福を御祈りさせていただきました。
何処に居たって、私が平家の方々を想う気持ちは変わりません…けれど、矢張り少しでも御傍近くへ参りたかったというのも本音で御座います。
夏の帰省の際、下関にも足を運んで 改めて御一門の御霊に御挨拶させていただきたいと思っております。
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