昨日の一ノ谷を題材にした唱歌が御座います。
「青葉の笛」
一の谷の軍破れ
討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか青葉の笛
更くる夜半に門を敲き
わが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌
私は声楽(日本歌曲に重心を置いて勉強中です)の練習曲として「青葉の笛」を唄っているのですが、もともとこの唄は明治、昭和初期辺りの尋常小学校教科書に載っていたそうで、当時は「青葉の笛」では無く、題名を「敦盛と忠度」とされておりました。
確かに、歌詞を見れば一目瞭然ですが、1番の歌詞が敦盛様を…2番の歌詞は忠度様の事を詠ってあります。
この唱歌の影響で、敦盛様の笛が「青葉の笛」という銘であると知れ渡ったと良く言われておりますね〜(※平家物語では“小枝”)
長〜い前置きとなってしまいましたけれど、今日は敦盛様と並んで哀れまれる忠度様の出生伝承地、紀伊国熊野の音川について。

実は、最初に熊野へ訪れた時、本宮方面へ向かうバスの中で↑この表示を発見しておりました(笑)
新宮から本宮へは、バスで2時間半位だったかな…その間の一瞬の出来事でしたので、とっさに付近のバス停の名前や民家の具合等を記憶しておいて後で運転手さんに聞いてみたりしたのですけれど、
「えー…そんなトコありましたか?」と言われたりしまいまして(苦笑)
私が「平忠度」という文字を見間違える筈が無いわ…!!と激しく激しく思い込んだ結果、先日ようやっと訪れる事が出来ました〜♪
愛と根性さえあれば、大抵の事はやってやれない事が無いのですよネ!←強引。

□ 平 忠度(たいらのただのり) □
生 年:1144(天養元)年
没 年:1184年3月20日(元暦元年2月7日
父 :平忠盛
母 :藤原為忠女 or 濱女房(熊野別当堪快女)?
兄 弟:忠重、家盛、清盛、教盛、経盛、教盛、頼盛
冠位官職:従四位上(治承2年)
伯耆守(治承3年11月)
薩摩守(治承4年)
左兵衛佐(治承4年正月)、正四位下(尊卑分脈による)
歌人であり、武人であり、才武に長けた貴人として有名です。
生母、出生については随分と謎が多く、色んな説が飛び交っておりますね。
藤原為忠女とされるのが割と一般的のようで御座います。
歌人としても大変優れていらっしゃった忠度様は、藤原俊成に師事し、自身も歌合を主催したり、他家の歌会に参加したりしております。
さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな
こちらは、千載集66に収録された御歌ですが、当時は朝敵とされた立場であった為、“よみびとしらず”として記されております。
平家物語巻7「忠度都落」によりますと、都落ちの最中、忠度様は俊成の屋敷へ立寄り、自作した和歌を纏めた巻物を俊成に託したとされております。
家集に「忠度集」が御座います。

□ 甲明神社 □
所在地:熊野川町相須96
御祭神:平忠度公
えーと…時間帯的に暗かった私の視力が低すぎる為、↑の画像の神社が甲明神社であると断定は出来ないのです…が…、忠度様の事を記した碑を斜め下に見下ろす位置に、こちらの御社は鎮座されておりました。
微妙にアヤシイ情報になってしまいまして、も、申し訳ありませ…ん;

音川に残された伝承によりますと、忠度様の生母は、
鳥羽上皇の御所に仕えていた、熊野別当堪快の娘、浜の女房とされております。
忠盛様と結ばれた浜の女房は、懐妊の後、熊野へと帰郷。
ここ、音川の館にて、忠盛様を出産されたのだそうです。
その後、14歳迄熊野で育った〜とか、色々な噂も耳に致しますが、詳細は不明で御座います。
元暦二年二月十九日
十九日 癸酉
(中略)
其後熊野山領、參河國、竹谷、蒲形兩庄事、有其沙汰。
當庄根本者、開發領主、散位俊成、奉寄彼山之間、別當湛快、令領掌之、讓附女子。
始爲行快僧都之妻。
後嫁前薩摩守平忠度朝臣。
忠度、於一谷被誅戮之後、爲没官領、武衛令拜領給之地也。<女子腹云云>
(以下略 / 吾妻鏡による)
気が付けば、都に出て来て兄弟達と合流し、出世したり和歌の才能を認められたり武勇を靡かせてみたり……なんて、多彩で謎多き人生なのでしょう(笑)
忠度様の奥方は、熊野別当堪増の妹君とされておりますし、熊野と忠度様との関係は、切っても切れないものがあったのやもしれません。
奥方と結ばれた後に、出生から熊野に由縁があったように後付された可能性も無いとは言えませんが、それ程に愛され惜しまれた御方であった事が伺えますね。


「青葉の笛」
一の谷の軍破れ
討たれし平家の公達あわれ
暁寒き須磨の嵐に
聞こえしはこれか青葉の笛
更くる夜半に門を敲き
わが師に託せし言の葉あわれ
今わの際まで持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌
私は声楽(日本歌曲に重心を置いて勉強中です)の練習曲として「青葉の笛」を唄っているのですが、もともとこの唄は明治、昭和初期辺りの尋常小学校教科書に載っていたそうで、当時は「青葉の笛」では無く、題名を「敦盛と忠度」とされておりました。
確かに、歌詞を見れば一目瞭然ですが、1番の歌詞が敦盛様を…2番の歌詞は忠度様の事を詠ってあります。
この唱歌の影響で、敦盛様の笛が「青葉の笛」という銘であると知れ渡ったと良く言われておりますね〜(※平家物語では“小枝”)
長〜い前置きとなってしまいましたけれど、今日は敦盛様と並んで哀れまれる忠度様の出生伝承地、紀伊国熊野の音川について。

実は、最初に熊野へ訪れた時、本宮方面へ向かうバスの中で↑この表示を発見しておりました(笑)
新宮から本宮へは、バスで2時間半位だったかな…その間の一瞬の出来事でしたので、とっさに付近のバス停の名前や民家の具合等を記憶しておいて後で運転手さんに聞いてみたりしたのですけれど、
「えー…そんなトコありましたか?」と言われたりしまいまして(苦笑)
私が「平忠度」という文字を見間違える筈が無いわ…!!と激しく激しく思い込んだ結果、先日ようやっと訪れる事が出来ました〜♪
愛と根性さえあれば、大抵の事はやってやれない事が無いのですよネ!←強引。

□ 平 忠度(たいらのただのり) □
生 年:1144(天養元)年
没 年:1184年3月20日(元暦元年2月7日
父 :平忠盛
母 :藤原為忠女 or 濱女房(熊野別当堪快女)?
兄 弟:忠重、家盛、清盛、教盛、経盛、教盛、頼盛
冠位官職:従四位上(治承2年)
伯耆守(治承3年11月)
薩摩守(治承4年)
左兵衛佐(治承4年正月)、正四位下(尊卑分脈による)
歌人であり、武人であり、才武に長けた貴人として有名です。
生母、出生については随分と謎が多く、色んな説が飛び交っておりますね。
藤原為忠女とされるのが割と一般的のようで御座います。
歌人としても大変優れていらっしゃった忠度様は、藤原俊成に師事し、自身も歌合を主催したり、他家の歌会に参加したりしております。
さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな
こちらは、千載集66に収録された御歌ですが、当時は朝敵とされた立場であった為、“よみびとしらず”として記されております。
平家物語巻7「忠度都落」によりますと、都落ちの最中、忠度様は俊成の屋敷へ立寄り、自作した和歌を纏めた巻物を俊成に託したとされております。
家集に「忠度集」が御座います。
又此の比平忠盛も同しく、又別當の娘なる濱の女房に通ひて一男を設けぬ、即ち薩摩守忠度是れなり。
近衛天皇の元養元年に九重村大字宮井字音川にて生る。
平家物語にも、薩摩守は聞ゆる熊野そたちの大力とあり
(東牟婁郡誌 上巻による)

□ 甲明神社 □
所在地:熊野川町相須96
御祭神:平忠度公
えーと…時間帯的に暗かった私の視力が低すぎる為、↑の画像の神社が甲明神社であると断定は出来ないのです…が…、忠度様の事を記した碑を斜め下に見下ろす位置に、こちらの御社は鎮座されておりました。
微妙にアヤシイ情報になってしまいまして、も、申し訳ありませ…ん;

音川に残された伝承によりますと、忠度様の生母は、
鳥羽上皇の御所に仕えていた、熊野別当堪快の娘、浜の女房とされております。
忠盛様と結ばれた浜の女房は、懐妊の後、熊野へと帰郷。
ここ、音川の館にて、忠盛様を出産されたのだそうです。
その後、14歳迄熊野で育った〜とか、色々な噂も耳に致しますが、詳細は不明で御座います。
元暦二年二月十九日
十九日 癸酉
(中略)
其後熊野山領、參河國、竹谷、蒲形兩庄事、有其沙汰。
當庄根本者、開發領主、散位俊成、奉寄彼山之間、別當湛快、令領掌之、讓附女子。
始爲行快僧都之妻。
後嫁前薩摩守平忠度朝臣。
忠度、於一谷被誅戮之後、爲没官領、武衛令拜領給之地也。<女子腹云云>
(以下略 / 吾妻鏡による)
別當堪増の妹は、當代の□門にして熊野に関係深き平忠度に嫁する等、抜くへからさるの因縁を生し来れり、
(東牟婁郡誌 上巻による)
気が付けば、都に出て来て兄弟達と合流し、出世したり和歌の才能を認められたり武勇を靡かせてみたり……なんて、多彩で謎多き人生なのでしょう(笑)
忠度様の奥方は、熊野別当堪増の妹君とされておりますし、熊野と忠度様との関係は、切っても切れないものがあったのやもしれません。
奥方と結ばれた後に、出生から熊野に由縁があったように後付された可能性も無いとは言えませんが、それ程に愛され惜しまれた御方であった事が伺えますね。

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