日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

黄金の都を落ちて開いた酒田の芽。
泉流寺01


山形県酒田市――泉流寺さん。
こちらには、酒田発祥の伝説として語られる奥州藤原家の女性 徳尼公に縁する御寺さんで御座います。

□ 徳(とく)

生年:長承元(1132)年?
没年:建保5(1217)年?


徳尼公について詳しい事は殆ど分かっておりませんが、藤原秀衡様の妹姫 徳の前、もしくは秀衡様の後室 泉の方であるといわれております。

文治5(1189)年、源頼朝様率いる鎌倉軍によって藤原氏が滅亡へと追いやられた時、この女性は秀衡様の遺された36人の家臣と共に立谷沢へ落ち延びられ、旅の途中で髪をおろし出家。
鎌倉幕府が羽黒山の堂社修造に動き出した事によって、更に逃避と続け、袖野浦の飯盛山まで落ち延びて来られました。
“徳尼公”と呼ばれた その御方は、飯森山の麓に“泉流庵”を結ばれたという事で御座います。

徳尼公の没後、付き従って来られた遺臣の方々は この地に住み着き、地侍となって湊を開かれたと伝えられております。

泉流寺02


□ 泉流寺(せんりゅうじ)

所在地:山形県酒田市中央西町
御開山:文亀年間(1501〜1504年)
御開祖:鳳室正全大和尚
御本尊:釈迦無尼仏
宗 派:曹洞宗
山 号:東永山


泉流寺さんは、徳尼公が奥州藤原一門の菩提を弔う為に建てた庵“泉流庵”に起源する御寺さんと伝えられます。

建保5(1217)年、徳尼公が御逝去。
享年85歳での往生で御座いました。
徳尼公亡き後、その御霊もこちらに御祀りされる事となりました。
廟所は、境内入口の場所に御座います。

現在の御本堂は天保年間(1830〜1843年)の建立だそうで御座います。
観光寺院とは違い、とても静かな御寺さんで御座いました。

泉流寺03


山門を潜って直ぐ左手に、徳尼公の廟所は御座いました。
廟には、明和元(1764)年に本間光丘公が寄進されたという徳尼公の木像が納められております。
この木像は、それ以前にあった木像が1度焼失してしまっている為、2代目の御仏像という事になります。

徳尼公が結ばれたという“泉流庵”とは、平かられて来た尼の、という意味が込められているという事で御座います。

  酒田市指定有形民俗文化財
   徳尼公廟

 文治五年(一一八九) 平泉滅亡の時 藤原家の遺臣三十六騎が 秀衡の妹(あるいは秀衡の後室・泉の方)と称する女性のお供をして平泉を逃れ やがてこの地に落ちのび 泉流庵を結び徳尼公となり 藤原一門の菩提と弔いながら静かに余生を送り 建保五年(一二一七) 四月十五日八十七歳で没した
 泉流庵とは平泉から流れてきたことを表し 後に泉流寺と改称された
 尼公没後 遺臣三十六人は地侍となり 廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築き 後三十六人衆と称された
 開祖徳尼公の木像は 宝暦元年(一七五一)に焼失した後 明和元年(一七六四) 本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせた
尼公像をまつる廟も 寛政二年(一七九〇) 本間光丘の寄進によって建立された
 境内には三十六人衆記念碑があり 毎年四月十五日には徳尼公の法要が行われる
 酒田発祥と繁栄の伝承を伝える遺産として 貴重なものである
     平成十六年三月十二日 指定 酒田市教育委員会



泉流寺04


廟所には、近年に建立されたと思われる五輪塔が御座いました。
徳尼公の供養塔で御座いましょうか。
また 廟所には、三十六人衆の碑も御座いました。

山門を潜った右手には、沢山の御地蔵菩薩が並ばれていらっしゃいました。
その傍には小さな御堂や庚申塔が建っておりました。

泉流寺05


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