
和歌山県新宮市新宮字丹鶴。
新宮市街を一望する事の出来る この丘陵は、新宮城跡で御座います。
新宮城は、熊野川だけで無く太平洋まで見渡せる事から別名を“沖見城”、更に またの名を“丹鶴城”と呼ばれておりました。
“丹鶴”といえば――新宮に伝わる、鳥居禅尼様の出家前の呼称が“丹鶴姫”様で御座いましたね。
これは、無関係では無いのだろうなと思って観光案内等を眺めておりましたら、なんと こちらに初めて築城なさったのは鳥居禅尼様の同母弟 新宮十郎行家様との事…!
えー…新宮に御身を隠されておりながらも、築城を!?と疑問に思っておりましたら、どうやら それは平治の乱以前の事のようで……新宮では、御姉弟は新宮の熊野別当屋敷にて生まれ育たれたとも言い伝えられているそうで御座いますので、恐らくは御若い頃に この地で元服なさった行家様(当時は義盛様で御座いますね)が、熊野別当家の別荘地であった場所に居城を築かれたという事なので御座いましょう。
史実的には、江戸期に紀州藩主 浅野長晟様の重臣であった浅野忠吉様が、築城された事に始まっているようで。
それ以前にも新宮の別の場所には、行家様の御子孫を名乗られる堀内氏によって築かれた御城が御座いましたが、関ヶ原合戦の後に廃城となっておりました。
浅野氏が転封となった後は、徳川頼宣様が紀州藩主として入国。
新宮城は、その付家老であった水野氏を城主として明治維新まで存続されました。
現在は建物等は殆ど現存しておらず、石垣のみが遺されているという事で御座います。
〜新宮城の歴史〜
新宮城(別名‥丹鶴城)は、関ケ原合戦の後、和歌山城主となった浅野幸長の家臣・浅野忠吉が新宮領を与えられて慶長6年(1601)に築城を開始した城である。
元和元年(1615)の一国一城令でいったん廃城となるが、同4年、再建を許され、再び築城が始まる。
元和5年(1619)、浅野氏にかわり徳川家康の十男・頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として、新宮に水野重仲が入った。
義仲は、忠吉の築城工事を継続し、寛永10年(1633)、城は完成をみる。
以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで、紀州藩新宮領支配の中枢として機能した。
〜構造〜
この城は、独立丘陵上にあり、東の最高所に「本丸」と「天守台」が、その西方に「鐘ノ丸」と「松ノ丸」が配置される。
本丸の北には「出丸」があり、熊野川の河口、上流方面が見通せる。
熊野川岸の「水ノ手」には、船着場と一万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷する拠点となっていた。
また、隣接の現在保育園となっている場所は「二ノ丸」といい、領国支配の行政機関があった。
登城のための「大手道」は、二ノ丸の北側(市民会館横)に入口があるが、今は建ち並ぶ民家でふさがれ入ることはできない。
現在地からこの階段をのぼると、途中で元の大手道につながり、松ノ丸に至る。

こちらは、新宮駅からも熊野速玉大社からも近いので、割と良く登らせていただいております。
見晴らしが良いので、御天気の良い時には御弁当や御菓子等を持参して、の〜んびりと過ごさせていただいたり…時折、御散歩されていらっしゃる方と擦違う事も御座いますが、いつも静かで穏やかな公園だな〜という印象を持っております。
さて…新宮の丹鶴姫様伝説で御座いますが、どうやら この丹鶴城趾には“丹鶴姫の物の怪が出る”という言い伝えがあるようで御座いまして。
丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で子供をまねく。
招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。
その丹鶴姫の使いが黒い兎で、子供の通る道の前をひよいと横切ることがある。
やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。
(中略)
丹鶴姫といふのはどんな人だか知らないが、 城山の向ふの丘には一つの小さな社があつて、 そこを皆が丹鶴姫の祠だと言つてゐる。 (佐藤春夫 氏『わが生い立ち』による)
佐藤春夫氏によれば、丹鶴姫様は丹鶴城主の姫君という事になっているようで御座いますが……という事は、この丹鶴姫様は鳥居禅尼様とは また別の姫君様の事を指しておられるので御座いましょうか;
この地は、そもそも鳥居禅尼様が この地に東仙寺という御寺を開かれたといわれている事から、鳥居禅尼様の出家前の呼称に肖って“丹鶴城”と呼ばれるようになった…のだと思うのですけれど。。
ただ、そうして“丹鶴城”と呼ばれる御城に生まれた御姫様を“丹鶴姫”様と呼ばれていたと考える事も充分に出来るのでは無いかしらと思われます。
鳥居禅尼様が子供達を次々と連れて行ってしまう理由というのは思い付きもしませんが、子供好きというのは何と無く納得させられてしまいます。
けれど、黒兎を御使いに子供達を殺めていかれるというのは、何とも尋常では無い御話。
まるで何かの贄に、子供達の魂を奪われているかのようで御座います。
そのような恐ろしげな呪詛に鳥居禅尼様が関わられているとか、まさか成仏されていないのでは…等という事は考えたくも御座いませんね…;
だからといって江戸期の姫君様を疑うのも、悲しい事で御座います。
よし…今度、こちらを訪れる際は、子供っぽい格好で逢魔時に出掛けよっと!(←痛いオカルトマニアですみません;;)

丹鶴城跡には、丹鶴姫様の碑が建立されております。
とても大きくて御立派な石碑に、添えられた御花…愛されている証、なのでは無いでしょうか。
噂の丹鶴姫様の鎮魂碑なのかもしれませんが、御霊を鎮めて守護となさんとするのは、日本人が古くから行ってきた御霊信仰等に通ずる文化ともいえましょう。
丹鶴姫はその出自定かでない源為義と熊野別当の娘 立田御前を父母とし「たつたはらの女房」と呼ばれ 頼朝はその甥にあたる
弟に新宮十郎行家あり
共に新宮で育つ
長じて この丹鶴山に東仙寺を開基し熊野別当行範に嫁した
夫亡きのち鳥居禅尼と号し 紀伊国佐野庄を安堵され 没後山麓に葬られたという
□々八百有余年 丹鶴城址に立ちて弔えば源家興隆を祈念した姫の魂魄 見はるかす
わだつみより清風に乗って来たるの想いがする
□くは芳魄この地に留まりてとこしえに熊野の□地を守り給わらんことを
昭和六十年三月 新宮市暮らしを考える主婦の会

丹鶴姫様碑の直ぐ近くには、与謝野鉄幹氏の歌碑が御座います。
“高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰ぞ涙すや 城のゆふべに”の御歌が記されております。
与謝野氏は、与謝野晶子さんの夫で御座いますね。
個人的に、妻の晶子さんには惹かれるものが御座いまして。
情熱的な御歌で知られる『みだれ髪』の新しさは斬新だなぁと思うのですが、それよりも見事なのは源氏物語の現代語訳や、『君死にたまふことなかれ』で御座います。
いずれ機会があれば、晶子さんの作品や御生涯についても記せたら良いなと思います。
與謝野 寛 歌碑
明治三十九年秋、浪漫旅「明星」の総帥與謝野寛(鉄幹)は茅野蕭々、北原白秋、吉井勇を伴い来熊、城址に立ち即詠したのがこの歌である。
彼の来訪は当時の詩歌を志す若人達を刺激し、澎湃たる熊野文豪の夜明けは正にこの時に始まったといえる。
四十二年、寛は再遊し、年少多感の佐藤春夫にも強い影響を与えた。
晩年春夫は「丹鶴城」と題する詩で
「われらが師與謝野の大人は なつかしくここに歌へり 聞けや君清きしらべを碑に彫らまほしきは」
と詠じ、この寛の一首を結びとしている。
われらは今、先人の志を継ぎ、ここに記念の碑を建て、往時を追懐すると共に新しい文化展開のよすがとしたい。
新宮ロータリークラブ
この辺りは、佐藤春夫氏が育った場所でも御座います。
新宮市内には佐藤氏の旧跡等も数多く遺されておりますね。
佐藤春夫成育の家の跡
佐藤春夫先生は明治二十五年(一八九二)四月新宮町船町(現 新宮市船町三丁目)に生れ、同二十七年父豊太郎翁此所に熊野病院を新築開院する。
しかし同二十九年冬、船町の住居は新宮大火に遭い跡形もない。
一家はやむなく翌年この病院に移住し、先生五歳よりこの家で成育す。
第一尋常小学校(現 丹鶴小学校)から同四十三年旧制新宮中学を十八歳で卒業、上京して東京三田の慶應義塾大学予科に入学す。
のち作家を志してからもしばしば帰省し、名作『田園の憂鬱』を完成したのもこの家でのことである。
病院、家屋、庭など既になく、今はわずか石垣に往時を偲ぶのみである。
平成八年三月 財団法人 佐藤春夫記念会 / 新宮市教育委員会



ご存じかと思いますが,ちょうどこの城と対角線の位置にある水野家の墓地もかなり立派で趣があります。こちらは自分らのテリトリーで通称「椎山」と言って椎を拾って煎って食べたものです。
それなのに妖怪・・物の怪ですか!?
うむむ・・子供を連れて行く、何だかハーメルンの笛吹き男みたいな話ですね。(子供は殺めませんけどね。)
子供頃に読んだ、「うしおととら」を思い出しました♪
でも、何と無く分かります〜。
私も子供の頃には、何故かとても縄張り意識がありました。
特に小学校の区画が違うと、どんなに近くても警戒しちゃってましたね〜、時々喧嘩を売ったり買ったり(笑)
守備範囲外へ探検に出る事はありましたが、大抵は山とか海とか…無人エリアでした。
水野家墓地には未だ行った事が無いのですが、写真等で拝見する限りでも、とても凄い感じがひしひしと伝わってまいります…。
今月も熊野へ行く予定なのですが、久々に新宮に2〜3泊出来そうな予感ですので、またじっくりと巡って来たいと思います♪
あ、そろそろ椎の季節でしょうか…。
物の怪〜…は、非常に気になるところで…いけませんね、オカルトマニアの血が騒ぎます…逢ってみたい///
子供を連れて行ってしまうって、何処かで聞いた御話だなぁと思っていましたが、成る程!ハーメルン!!
神隠的で終わるならまだしも、翌日に死体で発見というのは悲しいですね;;
『うしおととら』も、そういう御話なのですか??
本屋さんで良く見掛けますけれど、よんだ事が無いのです。。
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