日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

妻として尼となり、母として子を育み。
鳥居禅尼

□ 鳥居禅尼(とりいぜんに)

生 年:不詳
没 年:承元4(1210)年〜貞応元(1222)年 頃
 父 :源為義
 母 :立田女房(熊野別当長快女)?or鈴木重忠女?
兄 弟:義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝、為仲、行家(同母)
 夫 :行範(第19代熊野別当)
 子 :範誉、行快(第22代熊野別当)、範命(第23代熊野別当)、行遍、行詮、行増、女(第21代熊野別当 湛増妻) 等
別 称:たつたはらの女房、丹鶴姫


鳥居禅尼様は、源為義様の娘様で源行家様の同母姉様。
源義朝様の御姉様で御座いますので、鳥居禅尼様から見れば頼朝様や範頼様、義経様は甥っ子という事になりますね。

御生母は第15代熊野別当 長快様の娘様で立田女房様で、後白河院の熊野御幸に随行された為義様に見初められ、新宮にて鳥居禅尼様と行家様を御出産なされたのだとか…。
もしくは、熊野速玉大社の神官 鈴木重忠様の娘様が御母様であられるともいわれております。
行家様が“新宮十郎”と名乗られていた事は平家物語にも伺える事で御座いますが、新宮の伝承によれば、鳥居禅尼様は元々“丹鶴姫”様、別名を“たつたはらの女房”とも呼ばれていたようで御座います。

また、鳥居禅尼様は第21代熊野別当 湛増様の御母様で、初め 第18代熊野別当 湛快様のもとへ嫁がれておりましたが、湛快様が早世された後に行範様と再婚なさったという説もあり……。
然し、湛増様は湛快様が32歳の頃の御子様…その後も湛快様は76歳まで御存命で御座いましたし、それに…確かに湛増様の御生母は不詳で御座いますが、湛増様は鳥居禅尼様の娘様を妻に迎え入れられているようで御座いますので、これは少々考え辛いかなと;

……何と申しましょうか、源平両氏との縁が大変深い御方であるだけに、一層ややこしく感じさせられる御立場でもあるのですけれど…然し、源平合戦期の熊野を考える上では、絶対に避けては通れぬ御方――正直、今の私では知識不足な部分が否めないので御座いますが、とりあえずは現時点で纏められる事だけでも記しておきたいかなと思います。

行幸の御儀盛んなるに従ひ、文武大官の□従するもの多く、熊野は京□の休息地となるに至りしか、其の比源為義は、熊野別當の娘田鶴原女房に通ひて一女を設けぬ、即ち丹鶴姫にして後に鳥居禅尼と称す。
       (東牟婁郡誌による)



はっきりとした年代は判りませんが、鳥居禅尼様は第16代熊野別当 長範様の御嫡男で速玉大社の社僧、神官を統率しておられた新宮在庁の行範様と御結婚、沢山の御子様に恵まれております。
承安2(1172)年に行範様は第19代熊野別当となられますが、就任後 1年足らずで御亡くなりになりました。
夫の死後は直ちに出家なさったようで、ここから“鳥居禅尼”と名乗られるようになります。
亡き行範様の菩提を弔いながらも、御立派に残された大勢の御子様方を御育てになられておられます。
範誉様は那智執となられ、行快様は後の第22代熊野別当になり、範命様は第23代熊野別当、行遍様は新古今和歌集の歌人、行詮様、行増様は権別当、娘様の御1方は湛増様の妻に…と、見事なまでに皆様が後に活躍される事となっております。
元々、平家寄りであった熊野別当家が源氏との縁を強める事となった理由の大きな1つには、矢張り 鳥居禅尼様の存在があったようで御座います。

源平争乱終結の後は、甥 頼朝様より紀伊国佐野庄、紀伊国湯橋、但馬国多々良岐庄等の地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人であり将軍家の御親族として重視されていた事が伺えます。

建久元年四月十九日
十九日 壬寅
造太神宮、役夫工米、地頭未濟事。
頻有職事奉書、神宮使又參訴之間、可致不日沙汰之旨、下知給。
於有子細所々者、今日令注進京都給。
因州、并盛時俊兼等、奉行之。
其状云内宮役夫大工、作料未濟、成敗所々事
  (中略)
 紀伊國  湯橋
 以消息、下知熊野尼上

  (中略)
抑此内、別紙注分所、廿箇所事、家人知行地内、未請取配府庄々、同分之由、分明也。
就之尋子細、造宮始之後、至于今不付配府<云云>
然者非地頭對捍之儀歟。
成于今、被始催之條、若是爲吹毛歟。
就中國々國司、庄々領家者、大略在京也。
先被催國司領家者、又可下知國衙庄家。
其時號地頭之對捍、直及奏達。
又令觸遣事、其理可然乎。
以于今不催之所、無分別。
家人地頭、未濟之由、被注申之條、未知其理矣
  文治六年四月十九日


建久五年閏八月十二日
十二日 己巳
以但馬國多々良岐庄、始爲地頭補任之地、可被付熊野鳥居禪尼<云云>。
是依所望也


建久五年九月二十三日
廿三日 庚戌
但馬國、多々良岐庄者、源宰相領所也。
而熊野鳥居禪尼、<故左典厩婦公>日者強所望彼邊事、異他之間、被遣地頭補任御下文。
但於有限領家乃貢課役等者、不可有懈怠之由、今日被遣御消息<云云>


紀伊国佐野庄、湯橋の地頭任命は建久元(1190)年の事、但馬国多々良岐庄は建久5(1194)年の事で御座いました。

鳥居禅尼様は養子を迎え入れられておられたようで、鎌倉幕府から任じられていた知行地の地頭職を養子に譲補したいと申し出られておられます。

承元四年九月十四日
十四日 戊戌
熊野鳥居禪尼知行地頭職、譲補養子事、有故 將軍御避状之上、不及左右之由、被仰出。
廣元朝臣、奉行之


承元4(1210)年、幕府は鳥居禅尼様の御申し出を許可されております。
恐らくは、御自身に残された御時間が余り長く無い事を察されての事であったので御座いましょう。
養子がどの御方を指しているのかは、不詳で御座います。

貞応元年四月二十七日
廿七日
以鳥居禪尼所領、紀伊國佐野庄地頭職、尼一期之後、子息長詮法橋、可相傳之由被仰<云云>
彼禪尼者、六條廷尉禪門妹、故右大將家姨母也。
仍令避數箇所地頭職給訖。

而子息法橋行忠、<長詮兄。>背母命、押領當庄、剰去年兵乱之時、候仙洞、致合戰、零落之後、猶立還當庄之由、長詮、就訴申如此。
長詮者、抽關東御祈祷之忠<云云> (吾妻鏡による)


はっきりとした年代は伝わりませんが、承元4(1210)年から貞応元(1222)年の間に御亡くなりになられておられるようで御座います。
生没年不詳につき、享年も不明。
当時の御方にしては、随分と長生きされたのでは無いかといわれておりますが、早くに夫を亡くされ、護るべきものの為に費やされた御時間は、鳥居禅尼様にとって果たして長く感じられるものであったのか……。
今も尚“女傑”と称えられる、鳥居禅尼様については今後も色々な角度から考えていけたらと思っております。

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