平敦盛様には、妻が居られたという伝承が御座います。
あくまでも伝承で御座いますので、史実として確かな記録が残されている訳では御座いませんし、平家物語や源平盛衰記等の諸本にも、その存在を伺う事は出来ません。
然し、各地に僅かでは御座いますが 敦盛様室と伝わる女性の史跡等が伝えられているのも また事実で御座います。
室町時代以降、平家物語を基に創作されたと思われる作品等に敦盛様の妻、もしくは妻子が登場するようになるのは、幸若舞曲の「敦盛」が最初では無いかと思われます。
世阿弥作の謡曲「敦盛」には、敦盛様に妻や子が居た等という筋書きは御座いません。
室町時代、源頼朝様直系の御子孫は既に絶え、源氏と平家の争乱は、既に遠い昔の物語となっておりました。
この頃は、芸能の発展に乗じて源平合戦を題材とする作品が多く生み出され、世間で源平モノが流行り始めた時代でも御座います。
同時に、この頃から各地に源平合戦の史跡、伝承なるものが多く登場したともいわれております。
元々史跡として存在していたものも多く在った事とは思いますが、石碑や供養塔等がこの時代に多く建てられているのは確かな事で御座いましょう。
私の知る限り、敦盛様に妻や子が存在したという伝承も、それと同時期、もしくはそれ以降の発生では無いかと考えられているようで御座います。
悲しい運命によって御最期を迎えられた 若き公達に対する追悼の念、そこから生まれた過去への希望…とでも申しましょうか。
以前、広島県庄原市に伝わる敦盛様伝承を調べに伺った際、敦盛様の妻と伝わる“姫御さん(=玉織姫)”の伝承地に足を運ぶ事が出来ましたが、その御姫様の御出自について詳細な事は語られておりませんでした。
庄原には“敦盛さん”という民謡が伝えられており、その中に“姫君”についても謡われております。
敦盛さん
二条行殿大納言 すけかた公の姫君は
いつぞや三井寺お室の御所 月のうたげのありしその時に
敦盛卿は笛のやく その姫君は琴のやく
琴をだんずる そのすがた 一と目ごらんじ敦盛卿
敦盛卿は十五才 その姫君は十四才
十四でこしいれあそばされ あけて十五の春のころ
やよい桜のちるころに むほんのたくみめぐみして
ついに平家はうち破れ 一の谷にぞ落ち給ふ
あとに残りし姫君は 源氏のせんぎきびしさに
かしづきわずか供につれ 花の都をあとにして
心細くも落ちて行く 流れ流れて北の吉備
うきも永江の里近き 黒田が茶屋にかくれ住み
つもるなげきのやるせなく 敦盛卿のご最後を
とむろう唄を後の世に 唄い伝えて今もなお
永江の里のそのあたり 古きかたみののこりしは
あわれなりける次第なり
哀れなりけるしだいなり
これは、その時に現地にていただいた“敦盛さん”の歌詞なのですが、私が事前に調べて知っていた歌詞とは少し違う部分が御座いました。
民謡は口伝継承で御座いますし、明治期に歌詞を改められてもいるようで御座いますね。
これには“玉織姫”という御名前は登場致しませんが、“二条行殿大納言 すけかた公の姫君”と御座いますので、恐らくは古典芸能作品に“玉織姫”として登場する御姫様と同一の人物を指しておられるのであろうと思われます。
私の勝手な解釈で図々しいのですが、敢えて御名前を伏せられているのでは無いかなぁと想像致しております。
この“玉織姫”と呼ばれる御方で御座いますが、以前にも記しております通り、史実上に実在した人物であるという証拠は何ひとつ御座いません。
ただ、玉織姫…または“清照姫”“玉琴姫”にまつわる伝承は、京のくろ谷 金戒光明寺の塔頭 蓮池院に伝えられており、その関連として五條大橋傍に扇塚が御座います。
敦盛様の没後、蓮池院にて御出家された姫が、五条の御影堂に於いて扇を作られたという故事に基づく史跡で御座います。
蓮池院の伝承では、出家なさった敦盛様室を名乗られる御方は、大納言源資賢様の養女であったという事で御座います。
「小敦盛」等の作品に登場する敦盛様の室も、二条大納言按察使資賢卿の娘と御座います(蓮池院には御子様の伝承は御座いませんが…)
非常に長ー…い前置きになってしまいましたが、本日は玉織姫(敦盛様室)の養父と伝わる按察使大納言――源資賢様について記してみようかと思います。
* * * * * * * *

□ 源 資賢(みなもとのすけかた) □
生 年:永久元(1113)年
没 年:文治4年2月26日(1188年3月25日)
父 :源有賢
母 :高階為家女
兄 弟:頼任、宗賢、資長、女(藤原長輔室、藤原忠基の室)
妻 :藤原家成女、賀茂保文女
子 :通家、時賢、資長、資時、玉織姫(養女)?
通 称:按察使大納言
官 歴:宮内卿、修理大夫
保安4(1123)年、従五位下
久安5年3月18日(1149年4月27日)、上総介
応保元年正月(1161年1月)、従三位
仁安元年7月(1166年8月)、参議
安元元(1175)年、中納言
治承元(1177)年、正二位、権大納言
治承3年11月(1179年12月)、解官(※平清盛のクーデター)
養和元(1181)年、権大納言
源資賢様は、宇多源氏――宇多天皇の孫 源雅信様より続く音楽家家系の御生まれで、御父様 源有賢様も大変有名な笛、和琴、笙の名人であられました。
資賢様も詩歌管絃に通じ、郢曲、催馬楽に巧みであられたと伝えられます。
後白河法皇の今様の師ともいわれ、梁塵秘抄には資賢様がしばしば登場されております。
その他にも、玉葉等でも資賢様の御名前を拝見する事は出来ますが、矢張り 述べられた御意見等も纏められている梁塵秘抄がいちばん細かい部分まで資賢様を知る事が出来るように感じます。
資賢卿のいう、今様に釋迦佛修行くるしみを説いて云、“法華経はつかへしことはたきぎこりなつみ水くみつかへてぞえし”といふを、今様にうたひて、稽古も修行によるべしとその座ニしてうたはれき。
はれもつけて唱ひしとかや。 (梁塵秘抄による)
資賢様は、音楽好きには 堪らないカリスマ的存在な御方で御座います!
御稽古もその方法によるものである事を 今様に乗せて、即興で御謡いになられただなんて格好良すぎで御座います…!!(笑)
おりふし、御前には太政大臣妙音院、琵琶かきならし朗詠めでたうせさせ給ふ。
按察大納言資方卿拍子とて、風俗催馬楽うたはれけり。
右馬頭資時、四位侍従盛定和琴かきならし、今様とりどりにうたひ、玉の簾、錦の帳の中ざざめきあひ、誠に面白かりければ、法皇もつけ歌せさせおはします。
それに文覚が大音声いできて、調子もたがひ、拍子もみなみだれにけり。
平家物語巻第5の“文覚被流”冒頭でも、法皇の御前にて楽しくも素晴らしい時間が流れていた事を伺えます。
ここで資賢様は拍子をとって、風俗 催馬楽を謡われておりますが…他史料等の資賢様といえば “拍子”なので御座います。
拍子=主唱者の証
拍子は、笏を2つに割ったようなものを打ち鳴らして 歌唱者と伴奏者の調子を合わせるので御座いますけれど、曲の仕上がりは全て拍子方にかかっておりますので、いちばん難しく責任重大な役割で御座います。
今様を介して法皇の絶対的な信頼を得た資賢様は、院の近臣として出世されていかれました。
着々と昇進され、応保元(1161)年には従三位となられておりましたが、その翌年6月(1162年7月) 賀茂神社で二条天皇を呪詛した疑いがかけられ、その罪で信濃へと配流されておりますが、その才を惜しまれてか、2年後に召し返されて 仁安元(1166)年には参議に任じられております。
仁安2年7月26日(1167年8月12日)、御子息 通家様が死去。
通家様は二条天皇呪詛事件の際、父 資賢様と共に罪に問われ、伊豆国へと流刑に処されて、罪を許されて後も昇進を重ねておられました。
35歳という御若さで没された通家様に、資賢様は 催馬楽や歌謡、和琴等、様々な芸能を伝授されていたようで御座います。
将来有望な御長子であった事と思われます…さぞや、御辛い御別れであった事で御座いましょう。
ちなみに、この年は 清盛様が太政大臣に昇られた平家絶頂の時で御座います。
治承元(1177)年、正二位、権大納言に昇られました…が、2年後の治承3年11月(1179年12月)、清盛様のクーデターで解官されており、京から追放されてしまわれております。
按察大納言資方卿子息右近衛少将兼讃岐守源資時、両の官を留めらる。
参議皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経、蔵人左少弁兼中宮権大進藤原基親、三官共に留らる。
「按察大納言資方卿、子息右近衛少将、孫の右少将雅方、是三人をばやがて都の内を追出さるべし」
とて、上卿藤大納言実国、博士判官中原範貞に仰て、やがて其日都のうちを追出さる。
大納言の給けるは、
「三界広しといへ共、五尺の身をき所なし。一生程なしといへ共、一日暮しがたし」
とて、夜中に九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へぞおもむかれける。
彼大江山や、いく野の道にかかりつつ、丹波国村雲と云所にぞ、しばしはやすらひ
給ける。
其より遂には尋出されて、信濃国とぞ聞えし。 (平家物語 高野本による)
“三界広しといへ共、五尺の身をき所なし”…これは、名文で御座います〜。
その日の内に京から出て行けとは…尋常では御座いませんね;
養和元(1181)年、権大納言に還任されておりますが、年齢的な問題もあってか、翌年 寿永元年3月20日(1182年4月24日)に出家なさっておられます。
さて…ここで 仮に、玉織なる姫君がこの頃までに資賢様の養女となっておられたとして、冒頭に記しました庄原の民謡“敦盛さん”の歌詞を当て嵌めて考えてみる事に。
院の近臣であった資賢様が娘を平家の御方に嫁がせていたとしても余り不思議は無いように思えない事も無いような……あるような…(?)
経盛様の御子息との縁談ならば、考えられなくも無いようには思え…ます…でしょうか;
敦盛様の年齢を軸に察すると 御2人は寿永2(1183)年の7月までに出逢い、結婚なされたという事に……なりますで…しょう…か。
うぅん…でも、この歌詞の時の流れは史実通りでは無い部分も御座いますので、ちょっと一致させ難いようにも思いますね;
年頃になるにつれて時勢は傾きを隠せないものとなっていきますし、元服後 任官にも至らなかった敦盛様で御座います…こういってしまっては、玉織姫伝承を考える上では元も子も無くなってしまいますが、御結婚もされていなかったと考える事も十分出来るように思うので御座います…。。(べ…別に、私が敦盛様を好きだから、玉織姫の存在を認めたく無いとかいう事では無くて……
/すみません…苦笑)
挙句、根も葉も無い想像を繰り広げてしまう私で御座います。
妻…だったのでは無く、恋であったのでは無いかなぁ……とか。
寿永2年7月25日(1183年8月14日)、平家御一門は都落ち。
この時、平家の殆どの御方は妻子を都落ちに同行されておられますので、ここで同行なさっておられないという事は、矢張り 敦盛様と姫君が夫婦関係であった可能性は低くなるように思えます。
ただ、維盛様も妻子を置いて京を去られておりますので、100%有り得ないとは申せないところで御座いますね。
その後、一ノ谷、屋島、そして壇之浦の合戦で、平家御一門は終焉を迎えられる事となりました…。
文治4年2月26日(1188年3月25日)、資賢様は76年の人生を閉じられております。
御住まいは、左京の二条四坊十一町辺りであられたのだとか。
管弦歌謡だけで無く、詩歌漢文にも優れていたといわれる資賢様は、家集に入道大納言資賢卿集を残されておられ、実に多彩な御生涯を送られたようで御座います。

あくまでも伝承で御座いますので、史実として確かな記録が残されている訳では御座いませんし、平家物語や源平盛衰記等の諸本にも、その存在を伺う事は出来ません。
然し、各地に僅かでは御座いますが 敦盛様室と伝わる女性の史跡等が伝えられているのも また事実で御座います。
室町時代以降、平家物語を基に創作されたと思われる作品等に敦盛様の妻、もしくは妻子が登場するようになるのは、幸若舞曲の「敦盛」が最初では無いかと思われます。
世阿弥作の謡曲「敦盛」には、敦盛様に妻や子が居た等という筋書きは御座いません。
室町時代、源頼朝様直系の御子孫は既に絶え、源氏と平家の争乱は、既に遠い昔の物語となっておりました。
この頃は、芸能の発展に乗じて源平合戦を題材とする作品が多く生み出され、世間で源平モノが流行り始めた時代でも御座います。
同時に、この頃から各地に源平合戦の史跡、伝承なるものが多く登場したともいわれております。
元々史跡として存在していたものも多く在った事とは思いますが、石碑や供養塔等がこの時代に多く建てられているのは確かな事で御座いましょう。
私の知る限り、敦盛様に妻や子が存在したという伝承も、それと同時期、もしくはそれ以降の発生では無いかと考えられているようで御座います。
悲しい運命によって御最期を迎えられた 若き公達に対する追悼の念、そこから生まれた過去への希望…とでも申しましょうか。
以前、広島県庄原市に伝わる敦盛様伝承を調べに伺った際、敦盛様の妻と伝わる“姫御さん(=玉織姫)”の伝承地に足を運ぶ事が出来ましたが、その御姫様の御出自について詳細な事は語られておりませんでした。
庄原には“敦盛さん”という民謡が伝えられており、その中に“姫君”についても謡われております。
敦盛さん
二条行殿大納言 すけかた公の姫君は
いつぞや三井寺お室の御所 月のうたげのありしその時に
敦盛卿は笛のやく その姫君は琴のやく
琴をだんずる そのすがた 一と目ごらんじ敦盛卿
敦盛卿は十五才 その姫君は十四才
十四でこしいれあそばされ あけて十五の春のころ
やよい桜のちるころに むほんのたくみめぐみして
ついに平家はうち破れ 一の谷にぞ落ち給ふ
あとに残りし姫君は 源氏のせんぎきびしさに
かしづきわずか供につれ 花の都をあとにして
心細くも落ちて行く 流れ流れて北の吉備
うきも永江の里近き 黒田が茶屋にかくれ住み
つもるなげきのやるせなく 敦盛卿のご最後を
とむろう唄を後の世に 唄い伝えて今もなお
永江の里のそのあたり 古きかたみののこりしは
あわれなりける次第なり
哀れなりけるしだいなり
これは、その時に現地にていただいた“敦盛さん”の歌詞なのですが、私が事前に調べて知っていた歌詞とは少し違う部分が御座いました。
民謡は口伝継承で御座いますし、明治期に歌詞を改められてもいるようで御座いますね。
これには“玉織姫”という御名前は登場致しませんが、“二条行殿大納言 すけかた公の姫君”と御座いますので、恐らくは古典芸能作品に“玉織姫”として登場する御姫様と同一の人物を指しておられるのであろうと思われます。
私の勝手な解釈で図々しいのですが、敢えて御名前を伏せられているのでは無いかなぁと想像致しております。
この“玉織姫”と呼ばれる御方で御座いますが、以前にも記しております通り、史実上に実在した人物であるという証拠は何ひとつ御座いません。
ただ、玉織姫…または“清照姫”“玉琴姫”にまつわる伝承は、京のくろ谷 金戒光明寺の塔頭 蓮池院に伝えられており、その関連として五條大橋傍に扇塚が御座います。
敦盛様の没後、蓮池院にて御出家された姫が、五条の御影堂に於いて扇を作られたという故事に基づく史跡で御座います。
蓮池院の伝承では、出家なさった敦盛様室を名乗られる御方は、大納言源資賢様の養女であったという事で御座います。
「小敦盛」等の作品に登場する敦盛様の室も、二条大納言按察使資賢卿の娘と御座います(蓮池院には御子様の伝承は御座いませんが…)
非常に長ー…い前置きになってしまいましたが、本日は玉織姫(敦盛様室)の養父と伝わる按察使大納言――源資賢様について記してみようかと思います。
* * * * * * * *

□ 源 資賢(みなもとのすけかた) □
生 年:永久元(1113)年
没 年:文治4年2月26日(1188年3月25日)
父 :源有賢
母 :高階為家女
兄 弟:頼任、宗賢、資長、女(藤原長輔室、藤原忠基の室)
妻 :藤原家成女、賀茂保文女
子 :通家、時賢、資長、資時、玉織姫(養女)?
通 称:按察使大納言
官 歴:宮内卿、修理大夫
保安4(1123)年、従五位下
久安5年3月18日(1149年4月27日)、上総介
応保元年正月(1161年1月)、従三位
仁安元年7月(1166年8月)、参議
安元元(1175)年、中納言
治承元(1177)年、正二位、権大納言
治承3年11月(1179年12月)、解官(※平清盛のクーデター)
養和元(1181)年、権大納言
源資賢様は、宇多源氏――宇多天皇の孫 源雅信様より続く音楽家家系の御生まれで、御父様 源有賢様も大変有名な笛、和琴、笙の名人であられました。
資賢様も詩歌管絃に通じ、郢曲、催馬楽に巧みであられたと伝えられます。
後白河法皇の今様の師ともいわれ、梁塵秘抄には資賢様がしばしば登場されております。
その他にも、玉葉等でも資賢様の御名前を拝見する事は出来ますが、矢張り 述べられた御意見等も纏められている梁塵秘抄がいちばん細かい部分まで資賢様を知る事が出来るように感じます。
資賢卿のいう、今様に釋迦佛修行くるしみを説いて云、“法華経はつかへしことはたきぎこりなつみ水くみつかへてぞえし”といふを、今様にうたひて、稽古も修行によるべしとその座ニしてうたはれき。
はれもつけて唱ひしとかや。 (梁塵秘抄による)
資賢様は、音楽好きには 堪らないカリスマ的存在な御方で御座います!
御稽古もその方法によるものである事を 今様に乗せて、即興で御謡いになられただなんて格好良すぎで御座います…!!(笑)
おりふし、御前には太政大臣妙音院、琵琶かきならし朗詠めでたうせさせ給ふ。
按察大納言資方卿拍子とて、風俗催馬楽うたはれけり。
右馬頭資時、四位侍従盛定和琴かきならし、今様とりどりにうたひ、玉の簾、錦の帳の中ざざめきあひ、誠に面白かりければ、法皇もつけ歌せさせおはします。
それに文覚が大音声いできて、調子もたがひ、拍子もみなみだれにけり。
平家物語巻第5の“文覚被流”冒頭でも、法皇の御前にて楽しくも素晴らしい時間が流れていた事を伺えます。
ここで資賢様は拍子をとって、風俗 催馬楽を謡われておりますが…他史料等の資賢様といえば “拍子”なので御座います。
拍子=主唱者の証

拍子は、笏を2つに割ったようなものを打ち鳴らして 歌唱者と伴奏者の調子を合わせるので御座いますけれど、曲の仕上がりは全て拍子方にかかっておりますので、いちばん難しく責任重大な役割で御座います。
今様を介して法皇の絶対的な信頼を得た資賢様は、院の近臣として出世されていかれました。
着々と昇進され、応保元(1161)年には従三位となられておりましたが、その翌年6月(1162年7月) 賀茂神社で二条天皇を呪詛した疑いがかけられ、その罪で信濃へと配流されておりますが、その才を惜しまれてか、2年後に召し返されて 仁安元(1166)年には参議に任じられております。
仁安2年7月26日(1167年8月12日)、御子息 通家様が死去。
通家様は二条天皇呪詛事件の際、父 資賢様と共に罪に問われ、伊豆国へと流刑に処されて、罪を許されて後も昇進を重ねておられました。
35歳という御若さで没された通家様に、資賢様は 催馬楽や歌謡、和琴等、様々な芸能を伝授されていたようで御座います。
将来有望な御長子であった事と思われます…さぞや、御辛い御別れであった事で御座いましょう。
ちなみに、この年は 清盛様が太政大臣に昇られた平家絶頂の時で御座います。
治承元(1177)年、正二位、権大納言に昇られました…が、2年後の治承3年11月(1179年12月)、清盛様のクーデターで解官されており、京から追放されてしまわれております。
按察大納言資方卿子息右近衛少将兼讃岐守源資時、両の官を留めらる。
参議皇太后宮権大夫兼右兵衛督藤原光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経、蔵人左少弁兼中宮権大進藤原基親、三官共に留らる。
「按察大納言資方卿、子息右近衛少将、孫の右少将雅方、是三人をばやがて都の内を追出さるべし」
とて、上卿藤大納言実国、博士判官中原範貞に仰て、やがて其日都のうちを追出さる。
大納言の給けるは、
「三界広しといへ共、五尺の身をき所なし。一生程なしといへ共、一日暮しがたし」
とて、夜中に九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の外へぞおもむかれける。
彼大江山や、いく野の道にかかりつつ、丹波国村雲と云所にぞ、しばしはやすらひ
給ける。
其より遂には尋出されて、信濃国とぞ聞えし。 (平家物語 高野本による)
“三界広しといへ共、五尺の身をき所なし”…これは、名文で御座います〜。
その日の内に京から出て行けとは…尋常では御座いませんね;
養和元(1181)年、権大納言に還任されておりますが、年齢的な問題もあってか、翌年 寿永元年3月20日(1182年4月24日)に出家なさっておられます。
さて…ここで 仮に、玉織なる姫君がこの頃までに資賢様の養女となっておられたとして、冒頭に記しました庄原の民謡“敦盛さん”の歌詞を当て嵌めて考えてみる事に。
院の近臣であった資賢様が娘を平家の御方に嫁がせていたとしても余り不思議は無いように思えない事も無いような……あるような…(?)
経盛様の御子息との縁談ならば、考えられなくも無いようには思え…ます…でしょうか;
敦盛様の年齢を軸に察すると 御2人は寿永2(1183)年の7月までに出逢い、結婚なされたという事に……なりますで…しょう…か。
うぅん…でも、この歌詞の時の流れは史実通りでは無い部分も御座いますので、ちょっと一致させ難いようにも思いますね;
年頃になるにつれて時勢は傾きを隠せないものとなっていきますし、元服後 任官にも至らなかった敦盛様で御座います…こういってしまっては、玉織姫伝承を考える上では元も子も無くなってしまいますが、御結婚もされていなかったと考える事も十分出来るように思うので御座います…。。(べ…別に、私が敦盛様を好きだから、玉織姫の存在を認めたく無いとかいう事では無くて……
/すみません…苦笑)挙句、根も葉も無い想像を繰り広げてしまう私で御座います。
妻…だったのでは無く、恋であったのでは無いかなぁ……とか。
寿永2年7月25日(1183年8月14日)、平家御一門は都落ち。
この時、平家の殆どの御方は妻子を都落ちに同行されておられますので、ここで同行なさっておられないという事は、矢張り 敦盛様と姫君が夫婦関係であった可能性は低くなるように思えます。
ただ、維盛様も妻子を置いて京を去られておりますので、100%有り得ないとは申せないところで御座いますね。
その後、一ノ谷、屋島、そして壇之浦の合戦で、平家御一門は終焉を迎えられる事となりました…。
文治4年2月26日(1188年3月25日)、資賢様は76年の人生を閉じられております。
御住まいは、左京の二条四坊十一町辺りであられたのだとか。
管弦歌謡だけで無く、詩歌漢文にも優れていたといわれる資賢様は、家集に入道大納言資賢卿集を残されておられ、実に多彩な御生涯を送られたようで御座います。
Comment
史実ではないとはいえ、敦盛に妻がいたという伝承があるのですね…。
15という年齢を考えれば、結婚していてもおかしくはないですけど、しかも相手は院の近臣ならば。
でも、やっぱり敦盛様は独身がいいですよね(笑)。
源資賢という人物は初めて知ったのですが、なんと、今様狂いの後白河法皇の師匠だったのですね!
二人して、夜通し歌ったりしたのでしょうか^^
15という年齢を考えれば、結婚していてもおかしくはないですけど、しかも相手は院の近臣ならば。
でも、やっぱり敦盛様は独身がいいですよね(笑)。
源資賢という人物は初めて知ったのですが、なんと、今様狂いの後白河法皇の師匠だったのですね!
二人して、夜通し歌ったりしたのでしょうか^^
無官とはいえ、15歳…時代背景を言い訳にしたい気持ちもありますが(笑)、結婚されていても全然おかしくない年齢ですよねー。
ただ、清盛様も御亡くなりになられて少し経ったこの時期に、院の近臣が 平家と親族になるような行動をするかなぁ…という気もしたりして;
梁塵秘抄によると、資賢様と後白河院のやりとりは実に芸術的に感じられます。
音楽に対する姿勢が素晴らしいといいますか…。
院の熊野御幸にも同行されておられますが、一緒にハッスルされておられたり(!?)面白いです…(笑)
ただ、清盛様も御亡くなりになられて少し経ったこの時期に、院の近臣が 平家と親族になるような行動をするかなぁ…という気もしたりして;
梁塵秘抄によると、資賢様と後白河院のやりとりは実に芸術的に感じられます。
音楽に対する姿勢が素晴らしいといいますか…。
院の熊野御幸にも同行されておられますが、一緒にハッスルされておられたり(!?)面白いです…(笑)
広島県在住のシンガーソングライターです。庄原市に伝わる玉織姫の話をまとめた冊子を見たのが2年ほど前。平家に関心があるわけではなかったのですが自分でもいぶかるほど妙に心にヒットしました。ほどなくして歌が生まれました。「永江の里〜玉織姫伝説」と名づけました。専門家の方に伺いましたらそのような史実はないとのことではありましたが、当時そのような悲話が数知れずあっただろうと思えば、平和の世をと願いながら散った方々への鎮魂の歌としてひっそりと歌ってきました。
さまざまな縁により、その後平家関連の歌ができました。平成20年春にCD化。高知県越知町の町おこしにと町をあげて応援いただくに至りました。CD化に至る一連の動きは、まるで何かに動かされて・・・というよりほかはない不思議な体験でした。そして、一門の誇りを未だ忘れずに現代に生きる子孫の方々の並々ならぬ熱意を感じて、源平が遠い過去のことではないと感じています。源氏も平家もない真に平和な世をと願う今日この頃です。
さまざまな縁により、その後平家関連の歌ができました。平成20年春にCD化。高知県越知町の町おこしにと町をあげて応援いただくに至りました。CD化に至る一連の動きは、まるで何かに動かされて・・・というよりほかはない不思議な体験でした。そして、一門の誇りを未だ忘れずに現代に生きる子孫の方々の並々ならぬ熱意を感じて、源平が遠い過去のことではないと感じています。源氏も平家もない真に平和な世をと願う今日この頃です。
こんにちは、返信が遅くなってしまいまして誠に申し訳御座いません。
メールもいただきまして、有難う御座いました。
もう少し遅くなってしまうとは思いますが、必ず返信させていただきますので、もう少し御時間をいただければと思います。
新屋様は、シンガーソングライターさんなのですね。
平家関連の御歌を歌われていらっしゃるとの事で…す、素敵で御座います!
是非拝聴したく存じます。
確かに、庄原の玉織姫に関する言い伝えはあくまでも伝承で御座いますが、私は そこに問うべきは史実の真偽では無いと思っております。
その土地に、そのような謂れが生じて今日まで語り継がれたという時点で、ひとつの大切な文化であり歴史であると思います。
玉織姫(と思われる女性)に関する伝承は他にも幾つか御座いますが、当時の女性は御本名や出自等、余り語られるものでは御座いませんでしたので、正直分からないことだらけなのですけれど、それは逆に何処までも浪漫を追求出来て楽しい事だなとも感じております。
現代に生きる、平家御一門の誇りや絆、繋がりといったようなものを、私も屡々感じさせていただく機会が御座います。
常に心が平安末期の私にとって、源平の争乱は歴史上の出来事というよりも、もっと身近で真剣に考えたい問題で御座いまして…。
良く、歴史は繰り返すと申しますが、同じ過ちや悲しみの連鎖を繰り返さない為に語られる歴史というのもあると思います。
ヒロシマも…歴史に括るには早過ぎますが、そういった意味では絶対に風化させてはいけない記憶ですよね。
メールもいただきまして、有難う御座いました。
もう少し遅くなってしまうとは思いますが、必ず返信させていただきますので、もう少し御時間をいただければと思います。
新屋様は、シンガーソングライターさんなのですね。
平家関連の御歌を歌われていらっしゃるとの事で…す、素敵で御座います!
是非拝聴したく存じます。
確かに、庄原の玉織姫に関する言い伝えはあくまでも伝承で御座いますが、私は そこに問うべきは史実の真偽では無いと思っております。
その土地に、そのような謂れが生じて今日まで語り継がれたという時点で、ひとつの大切な文化であり歴史であると思います。
玉織姫(と思われる女性)に関する伝承は他にも幾つか御座いますが、当時の女性は御本名や出自等、余り語られるものでは御座いませんでしたので、正直分からないことだらけなのですけれど、それは逆に何処までも浪漫を追求出来て楽しい事だなとも感じております。
現代に生きる、平家御一門の誇りや絆、繋がりといったようなものを、私も屡々感じさせていただく機会が御座います。
常に心が平安末期の私にとって、源平の争乱は歴史上の出来事というよりも、もっと身近で真剣に考えたい問題で御座いまして…。
良く、歴史は繰り返すと申しますが、同じ過ちや悲しみの連鎖を繰り返さない為に語られる歴史というのもあると思います。
ヒロシマも…歴史に括るには早過ぎますが、そういった意味では絶対に風化させてはいけない記憶ですよね。
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