平高望(高望王)様から、国香様、良兼様、良将(良持)様…と、ここ数日 清盛様以下の平家御一門の祖である桓武平氏の方々を辿っておりますが、正直 平安期の中で私が特に苦手なのが平将門公と その時代の戦乱だったり致します。
史実として確かな情報が少なく、それを補うどころか、上回ってひとり歩きをしているような勢いで各地に伝承が交差し、追求すれば追及する程に、混乱の一途で御座います。
折角 関東に住んでいるのだから、その辺りの史跡を巡ってみなくては、とも思っているので御座いますが、何故か 将門公関連の史跡はさり気無ーく避けてしまっておりまして……近くへ行く用事があっても、立寄らずにさっさと帰って来てしまいます;
とても興味はあるのに、何だか妙に大きな壁のようなものを感じて なかなか踏み出せない感じで…おかしな御話で御座いますね(苦笑)
千葉神社の記事でも少し触れておりますが、私が この頃の平氏の中で どうしても気になって気になって仕方の無い御方は、将門公とも大きく関わられたとされる御方で御座いました。
…本日は、その御方――平良文様について、記してみようかと思います。
* * * * * * * *

□ 平 良文(たいらのよしふみ、たいらのよしぶみ) □
生年月日:仁和2年3月18日(886年4月29日)
没年月日:天暦6年12月18日(953年1月11日)
父 :平高望(高望王)
母 :藤原範世女
兄 弟:国香、良兼、良将(良持?)、良正、良孫、良広、良茂?
妻 :平将門女?
子 :忠輔、忠頼(村岡二郎)、忠光(村岡小五郎)、忠通(鎌倉平太夫)、景久(長江太郎)
養 子:将門?、平将平男?
官 位:武蔵守?
天慶2(939)年、陸奥守? or 陸奥介?、鎮守府将軍
天慶3(940)年、上総介?、常陸介?
通 称:村岡五郎
法 名:夕顔観音大士
良文様は、高望様の御子様で御座います。
生年不詳の正室腹の御兄弟方の中で、脇腹生まれの良文様は 仁和2(886)年の御生まれであると伝えられており、寛平2(889)年の臣籍降下後に関東へ下る頃には御年4歳であった事が伺えます。
他の御兄弟方は父に従って東国へ行かれましたが、この時未だ幼かった良文様は、御生母である藤原範世様の娘と共に京に残られ、そのまま京の都にて御育ちになられたと伝わります。
この御母様は妙見大菩薩を厚く信仰しておられた御方といわれ、良文様もまた妙見様を深く信仰されておられました。
延長元(923)年 良文様は38歳の頃、勅命を受けて東下りをなさいました。
相模国高座郡村岡郷を拠点とし、相模国の平定を行ったといわれます。
“村岡五郎”と名乗られるようになったのは、この頃の事では無いかと思われますが、後に本拠とされる地も 武蔵国大里郡の村岡郷で御座いますので、ハッキリとは判っていないようで御座います。
年代は伝わりませんが 恐らくはそれと同時期に、良文様が 嵯峨源氏の源宛様と一騎討を行われた事が今昔物語集に記されております。
物語で御座いますので史実とは一致しない部分もあるかと思われますが、文中で良文様は宛様と並ぶ武芸の達人として描かれております。
ちなみに…宛様は、源頼光様の四天王の一人、渡辺綱様の御父様で御座いますね。
この後の良文様の御動向については、本当に謎が深く…伝えられる情報も史料によって様々な伝承となっております。
甥 将門公と戦ったというものや、それとは正反対に 将門公に加勢して国香様を始めとする方々と戦ったというもの、そして中立を護ったという説や居合わせなかったとする説等々……伝承によって、ここまで良文様のおられた御立場が違い過ぎると、もうどうしたら良いのやら…!(混乱/苦笑)
私が思うに、この辺りの事実は 時代の流れに伴って随分変化しているようで御座いますが、良文様の御子孫といわれる諸家々によって かなり手を加えられて伝わっているように感じます。
将門公とも、伝えられている逸話より もっと水面下での……とは思いますが、申し訳御座いません、これは何の根拠も無い私論で御座います///
どれにせよ、将門公とは何らかの形で関わられており、それが良文様の御生涯に大きく影響されているであろう事は十分に考えられます。
将門公との関係といえば、これも諸家の系図等によって随分と違うので御座いますが、千葉氏関連の系図には 良文様が将門公を養子に迎えていたり、逆に 将門公の元に養子に入っていたり…将門公の確かな生年が伝わっていないとはいえ、何とも謎の深まる御関係で御座います;
第十二の末子良文村岡の五郎、将門が為には伯父為りといへども、養子と成り、其の芸威を伝ふ。
将門は八箇国を随へ、弥凶悪の心を構へ、神慮にも憚らず、帝威にも恐れず、壇に仏物を侵し、飽くまで王財を奪ひしが故に、妙見大菩薩、将門が家を出でて、良文が許へ渡りたまふ。
此れに因つて良文、鎌倉の村岡に居住す。
五箇国を領じて、子孫繁昌す。 (源平闘諍録による)
↑源平闘諍録は、千葉氏関係者によって編まれた作品ともいわれておりますが、こちらでも養子の件が記されておりますね。
将門公との関連を考えるのであれば…と思って将門記にも目を通してみたので御座いますが、将門記文中には どうやら良文様の御名前は見られないようで御座いました……それも、それで非常に悩ましい事のように思えてしまいます;;
良文様、そして将門公には、それぞれ 共に妙見信仰に強い繋がりが伺えますので、その辺りも踏まえまして、今後 妙見信仰についても考えていきたいと思っているところで御座います。
良文様と将門公についての逸話等につきましても、また いずれ機会を改めて記せたら…と思っております。
天慶2年4月17日(939年5月8日)、奥羽で起こった反乱に際して鎮守府将軍に任じられた良文様は奥羽へと下向、鎮圧なさったようで御座います。
同じ年、将門公が常陸国府を攻撃し、承平の乱が勃発致しました。
この時の良文様についても、その所在から全て謎に包まれており、諸説が飛び交う事となっておりますが、恐らくは奥州に留まられておられたのでは無いかと思われます。
翌年 天慶3年2月14日(940年3月25日)、将門公が討死。
この年に良文様は将門公が領していた土地を賜っているようで御座います。
それが何を意味するのかは、定かでは御座いませんが…。
将門公亡き後、良文様は その娘を引き取って養育し、後に御子息 忠頼様の妻とされており、また 領内巡視の際に将門公の甥子を見付け、これも養育なさっておられるようで御座います。
良文様は晩年の頃、下総国海上郡大友を経て下総国阿玉郡へ移住。
そして 天暦6年12月18日(953年1月11日)、享年67歳にて御逝去なさったと千葉大系図に伝えられます。
仁和二年丙午三月十八日誕生。
母夢日輪入口中成懐孕。此母亦、封三五柱兎、有感生。
当家為武臣祖。
醍醐天皇延長元年癸未正月、依勅下向東州、討逆賊、顕龍驤鷹揚誉。
同九年辛卯、與同族有相戦。
此時有妙見擁護。
故裔孫世々尊崇、以為鎮守神也。
天慶二年巳犬、任陸奥守、補鎮守府将軍。
同三年康子五月、賜将門舊領、任下総上総常陸介、子孫繁栄于東州。
所謂千葉上総三浦土肥畠山大庭梶原長尾等八平氏也。
天暦六年壬子十二月十八日卒。
年六十七。
言于忠頼、子孫応割見夕顔。
即吾正體也。
言畢上天。
故不知其歿處。
彼夕顔変現観音小像。
後裔崇号夕顔観音大士。
裔孫断食夕顔矣。 (千葉大系図による)
良文様の御子孫には、源平合戦期には源氏方として活躍された千葉氏、三浦氏、梶原氏、畠山氏や、秩父氏、鎌倉氏、大掾氏、中村氏、長尾氏や、大庭氏、村岡氏、畠山氏、河越氏 等、末広がりに繋がっているといわれております。
特に有名なのが深い妙見信仰も受け継がれている千葉氏の系図で御座いますね。
* * * * * * * *
※イラストは、「十五夜」様の素材を使用させていただきました……→

史実として確かな情報が少なく、それを補うどころか、上回ってひとり歩きをしているような勢いで各地に伝承が交差し、追求すれば追及する程に、混乱の一途で御座います。
折角 関東に住んでいるのだから、その辺りの史跡を巡ってみなくては、とも思っているので御座いますが、何故か 将門公関連の史跡はさり気無ーく避けてしまっておりまして……近くへ行く用事があっても、立寄らずにさっさと帰って来てしまいます;
とても興味はあるのに、何だか妙に大きな壁のようなものを感じて なかなか踏み出せない感じで…おかしな御話で御座いますね(苦笑)
千葉神社の記事でも少し触れておりますが、私が この頃の平氏の中で どうしても気になって気になって仕方の無い御方は、将門公とも大きく関わられたとされる御方で御座いました。
…本日は、その御方――平良文様について、記してみようかと思います。
* * * * * * * *

□ 平 良文(たいらのよしふみ、たいらのよしぶみ) □
生年月日:仁和2年3月18日(886年4月29日)
没年月日:天暦6年12月18日(953年1月11日)
父 :平高望(高望王)
母 :藤原範世女
兄 弟:国香、良兼、良将(良持?)、良正、良孫、良広、良茂?
妻 :平将門女?
子 :忠輔、忠頼(村岡二郎)、忠光(村岡小五郎)、忠通(鎌倉平太夫)、景久(長江太郎)
養 子:将門?、平将平男?
官 位:武蔵守?
天慶2(939)年、陸奥守? or 陸奥介?、鎮守府将軍
天慶3(940)年、上総介?、常陸介?
通 称:村岡五郎
法 名:夕顔観音大士
良文様は、高望様の御子様で御座います。
生年不詳の正室腹の御兄弟方の中で、脇腹生まれの良文様は 仁和2(886)年の御生まれであると伝えられており、寛平2(889)年の臣籍降下後に関東へ下る頃には御年4歳であった事が伺えます。
他の御兄弟方は父に従って東国へ行かれましたが、この時未だ幼かった良文様は、御生母である藤原範世様の娘と共に京に残られ、そのまま京の都にて御育ちになられたと伝わります。
この御母様は妙見大菩薩を厚く信仰しておられた御方といわれ、良文様もまた妙見様を深く信仰されておられました。
延長元(923)年 良文様は38歳の頃、勅命を受けて東下りをなさいました。
相模国高座郡村岡郷を拠点とし、相模国の平定を行ったといわれます。
“村岡五郎”と名乗られるようになったのは、この頃の事では無いかと思われますが、後に本拠とされる地も 武蔵国大里郡の村岡郷で御座いますので、ハッキリとは判っていないようで御座います。
年代は伝わりませんが 恐らくはそれと同時期に、良文様が 嵯峨源氏の源宛様と一騎討を行われた事が今昔物語集に記されております。
物語で御座いますので史実とは一致しない部分もあるかと思われますが、文中で良文様は宛様と並ぶ武芸の達人として描かれております。
ちなみに…宛様は、源頼光様の四天王の一人、渡辺綱様の御父様で御座いますね。
この後の良文様の御動向については、本当に謎が深く…伝えられる情報も史料によって様々な伝承となっております。
甥 将門公と戦ったというものや、それとは正反対に 将門公に加勢して国香様を始めとする方々と戦ったというもの、そして中立を護ったという説や居合わせなかったとする説等々……伝承によって、ここまで良文様のおられた御立場が違い過ぎると、もうどうしたら良いのやら…!(混乱/苦笑)
私が思うに、この辺りの事実は 時代の流れに伴って随分変化しているようで御座いますが、良文様の御子孫といわれる諸家々によって かなり手を加えられて伝わっているように感じます。
将門公とも、伝えられている逸話より もっと水面下での……とは思いますが、申し訳御座いません、これは何の根拠も無い私論で御座います///
どれにせよ、将門公とは何らかの形で関わられており、それが良文様の御生涯に大きく影響されているであろう事は十分に考えられます。
将門公との関係といえば、これも諸家の系図等によって随分と違うので御座いますが、千葉氏関連の系図には 良文様が将門公を養子に迎えていたり、逆に 将門公の元に養子に入っていたり…将門公の確かな生年が伝わっていないとはいえ、何とも謎の深まる御関係で御座います;
第十二の末子良文村岡の五郎、将門が為には伯父為りといへども、養子と成り、其の芸威を伝ふ。
将門は八箇国を随へ、弥凶悪の心を構へ、神慮にも憚らず、帝威にも恐れず、壇に仏物を侵し、飽くまで王財を奪ひしが故に、妙見大菩薩、将門が家を出でて、良文が許へ渡りたまふ。
此れに因つて良文、鎌倉の村岡に居住す。
五箇国を領じて、子孫繁昌す。 (源平闘諍録による)
↑源平闘諍録は、千葉氏関係者によって編まれた作品ともいわれておりますが、こちらでも養子の件が記されておりますね。
将門公との関連を考えるのであれば…と思って将門記にも目を通してみたので御座いますが、将門記文中には どうやら良文様の御名前は見られないようで御座いました……それも、それで非常に悩ましい事のように思えてしまいます;;
良文様、そして将門公には、それぞれ 共に妙見信仰に強い繋がりが伺えますので、その辺りも踏まえまして、今後 妙見信仰についても考えていきたいと思っているところで御座います。
良文様と将門公についての逸話等につきましても、また いずれ機会を改めて記せたら…と思っております。
天慶2年4月17日(939年5月8日)、奥羽で起こった反乱に際して鎮守府将軍に任じられた良文様は奥羽へと下向、鎮圧なさったようで御座います。
同じ年、将門公が常陸国府を攻撃し、承平の乱が勃発致しました。
この時の良文様についても、その所在から全て謎に包まれており、諸説が飛び交う事となっておりますが、恐らくは奥州に留まられておられたのでは無いかと思われます。
翌年 天慶3年2月14日(940年3月25日)、将門公が討死。
この年に良文様は将門公が領していた土地を賜っているようで御座います。
それが何を意味するのかは、定かでは御座いませんが…。
将門公亡き後、良文様は その娘を引き取って養育し、後に御子息 忠頼様の妻とされており、また 領内巡視の際に将門公の甥子を見付け、これも養育なさっておられるようで御座います。
良文様は晩年の頃、下総国海上郡大友を経て下総国阿玉郡へ移住。
そして 天暦6年12月18日(953年1月11日)、享年67歳にて御逝去なさったと千葉大系図に伝えられます。
仁和二年丙午三月十八日誕生。
母夢日輪入口中成懐孕。此母亦、封三五柱兎、有感生。
当家為武臣祖。
醍醐天皇延長元年癸未正月、依勅下向東州、討逆賊、顕龍驤鷹揚誉。
同九年辛卯、與同族有相戦。
此時有妙見擁護。
故裔孫世々尊崇、以為鎮守神也。
天慶二年巳犬、任陸奥守、補鎮守府将軍。
同三年康子五月、賜将門舊領、任下総上総常陸介、子孫繁栄于東州。
所謂千葉上総三浦土肥畠山大庭梶原長尾等八平氏也。
天暦六年壬子十二月十八日卒。
年六十七。
言于忠頼、子孫応割見夕顔。
即吾正體也。
言畢上天。
故不知其歿處。
彼夕顔変現観音小像。
後裔崇号夕顔観音大士。
裔孫断食夕顔矣。 (千葉大系図による)
良文様の御子孫には、源平合戦期には源氏方として活躍された千葉氏、三浦氏、梶原氏、畠山氏や、秩父氏、鎌倉氏、大掾氏、中村氏、長尾氏や、大庭氏、村岡氏、畠山氏、河越氏 等、末広がりに繋がっているといわれております。
特に有名なのが深い妙見信仰も受け継がれている千葉氏の系図で御座いますね。
* * * * * * * *
※イラストは、「十五夜」様の素材を使用させていただきました……→

Comment
通りがかりのものですが、良文さんの奥さんは将門公の娘ではなく、次男の忠頼さんの奥さんが、将門公の娘といわれているようです(千葉氏の伝承ですが)。おそらく良文さんの将門公養子説はここから由来しているのではないかと・・。封建制度が確立するまでは、坂東でも婿入りの風習があり、夫の名跡を妻が引き継ぐことは多々あったため、本当に次男の嫁が将門公女なら、良文さんが将門公の名跡をついでも不思議はないようです。なお、忠頼さんと将門公娘の間にできたといわれる、平忠常は、のちに平貞盛の弟と孫との間との間にいざこざを起こし、長元の乱を引き起こすのですが・・。
なお、坂東八平氏は良文さんの子孫ですが、三浦氏や長尾氏が時々平良兼子孫説もあったりもしますが、こちらも両方正解だったりします。良兼さんの息子公雅の娘が、平良文三男に嫁いだので、その名跡を継いだと解釈すれば成り立つようです。坂東八平氏の子孫がのちに鎌倉方に付いたのは、ひょっとすると将門公の乱からの因縁なのかもしれませんが・・。
長文失礼いたします。サイトはとても楽しませていただきました。
なお、坂東八平氏は良文さんの子孫ですが、三浦氏や長尾氏が時々平良兼子孫説もあったりもしますが、こちらも両方正解だったりします。良兼さんの息子公雅の娘が、平良文三男に嫁いだので、その名跡を継いだと解釈すれば成り立つようです。坂東八平氏の子孫がのちに鎌倉方に付いたのは、ひょっとすると将門公の乱からの因縁なのかもしれませんが・・。
長文失礼いたします。サイトはとても楽しませていただきました。
みずき | URL | 2008/04/21/Mon 22:27[EDIT]
こんにちは、初めまして。
レスが遅くなってしまって申し訳御座いません。。
良文様と将門公の関係については本当に謎な事ばかりで…色々と御教え下さいまして有難う御座います。
坂東八平氏の子孫が鎌倉方に付いた事が将門公の乱からの因縁というのは、何と無く感じられるようにも思っております。
史実として伝わる部分が殆ど無い為、伝承を繋ぎ合わせて考えなければならないのが、もどかしく…それが楽しくもあるのですが(苦笑)
良文様の伝承に関しては、今後も追及していきたいと思っております。
有難う御座いました。
レスが遅くなってしまって申し訳御座いません。。
良文様と将門公の関係については本当に謎な事ばかりで…色々と御教え下さいまして有難う御座います。
坂東八平氏の子孫が鎌倉方に付いた事が将門公の乱からの因縁というのは、何と無く感じられるようにも思っております。
史実として伝わる部分が殆ど無い為、伝承を繋ぎ合わせて考えなければならないのが、もどかしく…それが楽しくもあるのですが(苦笑)
良文様の伝承に関しては、今後も追及していきたいと思っております。
有難う御座いました。
Track Back
| TB*URL |
| ホーム |
