
私は都内でも神奈川寄りな地域に住んでおりますので、仕事の合間等にちょっとした空き時間等を見付けては、しょっちゅう鎌倉へ行っております。
天気の良い日は大抵カメラを持ち歩いておりますし、例え1時間程度しか動ける時間が無かったとしても、その僅かな時間に得られる何かに出逢いたくて…気が付いたら、電車に飛び乗ってしまっております。
そういえば、関西在住時は暇さえあれば京都へ行っていたなぁ…住む場所や生活環境が変わっても、人の行動パターンというのは根本的に変わるものでは無いのですね(苦笑)
最近、ようやっと鎌倉の史跡や神社等についても更新するようになって参りましたので(別に避けていた訳では無いのですが…)、何故かいちばん最初に書いていたようで実は書いていなかった(中途半端に画像を載せていたので、何かを自分で勘違いしていたようで御座います;)鶴岡八幡宮について、本日は改めて記しておきたいと思っております。
何だか、日中だったり夜だったり夏だったり冬だったり晴天だったり雨天だったり…と色々な写真が とりとめも無く混在しておりますが、余り深く考え無いでいただけますと幸いで御座います〜;;
* * * * * * * *
JRもしくは江の電 鎌倉駅から鶴岡八幡宮までは、徒歩で約10〜15分程度。
小町通りと呼ばれる御土産物屋さんや雑貨屋さん等の並ぶ賑やかな商店街を抜けて御宮近くの御参道に入るのが、現代では人気の観光ルートになっておりますが、御参道である若宮大路に築かれた段葛に沿って境内へと向かうのも、矢張り素敵で御座います。
御参道を只管直進して参りますと三の鳥居が見え、その先には石の丸橋と、奥には見事な御社殿を遠景で拝む事が出来ます。

↑えっと…この画像は何ぞや?という感じで御座いますが……(苦笑)
実は一昨日の夕方、小町通りを通って鶴岡八幡宮へ向かっておりましたら、丁度 鶴岡八幡の境内の真上に綺麗な弧を描いて大きな虹が、それも二重に架かっていたので御座います〜!
この日は ずっと天気が良かったのに、何故か私が鎌倉に着いた途端に雨が落ち始めてしまいました;
…晴女な私が雨に遭うだなんて、もしかして今日は歓迎されていないという事なのかしらと微妙に自己中心的な被害妄想を抱きかけておりましたら、突然 目の前の空に鮮やかな虹が浮かんでいるのが視界に飛び込んで参りまして。
それも、かなり大きな虹で御座いましたので何だか嬉しくなってしまいまして、思わず近くに居た人力車の御兄さんに「虹が架かってますね〜!」と声を掛けておりました(笑)
そうしましたら、付近を歩いておられた観光客の方々も空を見上げて「あら、本当!」「凄いわねー」という感じに盛り上がって参りまして…楽しかったです♪
三の鳥居付近では、数名のカメラマンの方々が虹の架かった八幡宮を撮影しようと三脚を立てておられました。
私も〜!と思ってシャッターを切ったは良いですが……わ、判り辛い……凹。。
夕暮時でも御座いましたので、夕日と薄い空色と それから雲も出ておりまして、こういう時はどう撮影すべきなのか…不勉強で御座いました///
最近、旅先で良く虹を見ます。
虹は今でこそ吉兆の表れのように捉えられておりますが、日本では古来より虹は不吉の前兆であると考えられておりました。
だからで御座いましょうか、綺麗だなぁと思う反面、何か良く無い事が起こる前触れだったりもするのかと つい気になってしまいます。

さてさて。
三の鳥居を潜って境内へ入りますと、先ず左右に見えるのが源平池で御座います。
寿永元(1182)年に源頼朝様の命によって造られたと記録に残されておりますが、北条政子様の御意思によるものであったとも伝えられます。
こちら側は、平家池…紅蓮を植えて平家の旗色を表したといわれており、浮かべられた4つの島には“四”=“死”=平家滅亡祈願の意味合いが含められていると伝えられておりますが、ここでは いつも鴨さん達がまったりと時間を過ごしており、穏やかな印象を抱いております。
以下は、史跡碑の碑文より。
平家池手前に御座います 御茶屋さんの入口付近に、さり気なく建立されております。
源平池
壽永元年(紀元千八百四十二年)四月源頼朝ノ命ニヨリ専光坊並ニ大庭平太景義等奉行シテ境内ニ池ヲ掘リシコト東鑑ニ見ユ
一説ニ夫人政子源家ノ興隆ヲ祈請シテ此ノ池ヲ營作セシメ東池ニ白蓮西池ニ紅蓮ヲ植ヱ源平ノ旗色ヲ表ハシタリト傳ヘラレ源平池ノ名アリ
昭和十二年 三月 鎌倉町青年団

そして、こちらは 平家池の向かいの源氏池。
朱塗橋を渡った中島には、先日記しました旗上弁天社が御座います。
勿論、こちら側にも鴨さん達はいらっしゃいます〜。
夜中に訪れた時、何となく 鴨さん達は夜どうしているのだろう…と思って、ストロボを発光させて池を写してみましたら、普通に直ぐ近くに群れておられたようで 私の発した光に大変驚かれておりました;
ご、ごめんなさい……。

御参道を真っ直ぐに進んで参りますと、本宮へと続く石段の手前に 舞殿が御座います。
“よしのやま みねのしらゆき ふみわけて
いりにしひとの あとぞこひしき”
“しづやしづ しづのおだまき くりかへし
むかしをいまに なすよしもがな”
吉野にて義経様を生き別れとなった後、捕えられ鎌倉へと護送された静様は、京一の白拍子。
文治2年4月8日(1186年4月28日)、鶴岡八幡宮にて舞を奉納する事となった静様は、頼朝様の御前にて堂々と義経様を慕い謡われたと伝えられます。
文治二年四月八日
八日 乙卯
二品、并御臺所、御參鶴岡宮、以次被召出靜女於廻廊。
是依可令施舞曲也。
此事去比、被仰處、申病痾由、不參。
於身不屑者、雖不能左右、爲豫州妾、忽出掲焉砌之条、頗耻辱之由、日來内々、雖澁申之。
彼既天下名仁也。
適參向歸洛在近、不見其藝者、無念由、御臺所、頻以令勸申給之間、被召之。
偏可備 大菩薩冥感之旨、被仰<云云>。
近日只有別緒之愁、更無舞曲之業由、臨座猶固辭。
然而貴命、及再三之間、憖廻白雪之袖、發黄竹之歌。
左衛門尉祐經鼓。
是生數代勇士之家、雖継楯戟之基、歴一臈上月之職、自携歌吹曲之故、候此役歟。
畠山二郎重忠、爲銅拍子。
靜、先吟出歌云、
吉野山 峯ノ白雪フミ分テ、入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ
次歌別物曲之後、又吟和歌云、
シヅヤシヅ シヅノヲダマキクリカヘシ、昔ヲ今ニナスヨシモガナ
誠是社壇之壯觀、梁塵殆可動。
上下皆催興感。
二品仰云、於八幡宮寳前、施藝之時、尤可祝關東萬歳之處、不憚所聞食慕反逆義經、歌別曲、奇恠<云云>。
御臺所、被報申云、君爲流人、坐豆州給之比、於吾雖有芳契。
北條殿、怖時宜、潜被引籠之。而猶和順君、迷暗夜、凌深雨、到君之所、亦出石橋戰場給之時、獨殘留伊豆山、不知君存亡、日夜消魂。論其愁者、如今靜之心。
忘豫州多年之好、不戀慕者非貞女之姿。
寄形外之風情、謝動中之露膽。
尤可謂幽玄。抂可賞翫給<云云>。
于時休御憤<云云>。
小時、押出於御衣<夘華重>於簾中。
被纒頭之<云云>
鎌倉の八幡宮へと捧げる唄で、今は敵となった者を恋うという行為に頼朝様は御怒りを覚えられたようで御座いますが、これを宥められたのは政子様で御座いました。
ひとりの男性を慕う女心は、同性から強い共感を得るものであったようで御座います。
京へと返されるまでの間、静様は 政子様、大姫様より手厚い加護を受けられていたようで御座います。
それでも、御子が男子であった為の結果だけは 避けられない運命であったので御座いましょう…。
静様が舞われたという舞台は、一般的にはこちら…という風に紹介される事が多いですが、当時 舞殿は建立されていなかったようで、若宮の御社殿で舞われてのでは無いかと推測されております。

舞殿を過ぎると本宮へと続く61段の石段があり、その御参道脇には樹齢800年といわれる大銀杏の御神木さんが聳えておられます。
建保7年1月27日(1219年2月13日)、鎌倉幕府3代将軍 源実朝様が 右大臣昇任の鶴岡八幡宮拝賀の後に 公暁様によって殺められたのがこの辺りであるといわれております。
公暁様は実朝様暗殺の間際まで、この大銀杏さんの陰に潜んでおられたと伝えれておりますが、現在樹齢800年の銀杏さんで御座いますので、当時はもっと細い若木であられたのでは…と思ってしまいます;
もしかすると、当時は別の大銀杏さんが生えていらっしゃったのかもしれないですよね。
雪の降る寒い日には、石段の端にぎりぎりまで寄って大銀杏さんに近付いて、公暁様が抱かれていた想いやら その日の実朝様の御姿やらを思い浮かべてしまいます。
この冬は未だ初雪を拝んではおりませんが、年明け頃には 矢張り雪が降るので御座いましょうか。

鶴岡八幡の境内には、大銀杏さんの他にも素晴らしい木々が沢山いらっしゃいます。
大銀杏さんの直ぐ傍には槐の木、それから御参道の石段を挟んで反対側には熊野神社で御馴染みの梛の木さんもいらっしゃるので御座います〜。
この石段の途中や、登り切ってから眺める鎌倉の黄昏時の景色は、本当に見事で御座います。

□ 鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう) □
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下
御創祀:康平6年8月(1063年9月)
御祭神:應神天皇、比売神、神功皇后
鶴岡八幡宮は 康平6年8月(1063年9月)、奥州平定の後に鎌倉に戻った源頼義様が前九年の役に際して戦勝祈願された京の石清水八幡宮護国寺(壺井八幡宮とも)を由比郷鶴岡に勧請し、鶴岡若宮とした事に始まります。
その後、永保元年2月(1081年4月)に息子である八幡太郎義家様によって修復され、それから約100年の時が過ぎた平安末期に、頼義様、義家様にとっては子孫に当たる源頼朝様が、平家追討の旗を挙げられた後 鎌倉へと入られる事となりました。
治承4年10月12日(1180年11月1日)、頼朝様は御宮を小林郷北山――現在の御鎮座地に御遷しになられました。
建久2(1191)年に御社殿が焼失してしまった為、上宮として本宮を、下宮として若宮の御社殿を建立される事となり、その際 本宮には改めて石清水八幡宮より御神霊を御迎えになられておられます。
それ以後は源氏の氏神社として 御宮を中心とした武士の国が形創られてゆく事となり、そして 翌建久3(1192)年 頼朝様は征夷大将軍に任命され、ここに事実上の鎌倉時代が始まるので御座います。
建久三年七月二十六日
廿五日 丙申
勅使廳官肥後介中原景良、同康定等參著所持參征夷大將軍除書也。
兩人<各着衣冠>任例列立于鶴岳廟庭、以使者可進除書之由申之。
被遣三浦義澄々々相具比企左衛門尉能員、和田三郎宗實、并郎從十人、<各甲冑>詣宮寺、請取彼状景良等、問名字之處、介除書、未到之間、三浦次郎之由、名謁畢則歸參。
幕下<御束帯>豫出御西廊義澄捧持除書膝行而進之。
千萬人中、義澄應此役。
面目絶妙也。
亡父義明、献命於將軍訖。
其勲功雖剪鬚、難酬于沒後。
仍被抽賞子葉<云云>
除書云
右少史三善仲康 内舎人橘實俊
中宮權少進平知家 宮内少烝藤原定頼
大膳進源兼元 大和守大中臣宣長
河内守小槻廣房<辞左大吏> 尾張守藤原忠明<元伯耆>
遠江守藤原朝房<元陸奥> 近江守平棟範
陸奥守源師信 伯耆守藤原宗信<元近江>
加賀守源雅家 若狹守藤原保家<元安房>
石見守藤原經成 長門守藤原信定
對馬守源高行 左近將監源俊實
左衛門少志惟宗景弘 右馬允宮道式俊
建久三年七月十二日 征夷使大將軍源頼朝
從五位下源信友左衛門督<通親>參陣、參議兼忠卿書之將軍事、本自雖被懸御意于今不令達之給。
而 法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰、被任之間故以及 勅使<云云>。
又爲知家沙汰、點武藏守亭、招 勅使、經營<云云> (吾妻鏡による)
頼朝様は征夷大将軍任命に当たって、除書拝受を鶴岡八幡宮で行われております。
これは、京の宮廷の例に倣っての事で、実朝様もそれを倣われておられます。
承元2(1208)年には神宮寺も創建され、八幡宮は鎌倉幕府と共に大きく栄えられる事となりました。
吾妻鏡の中には、幾度と無く鶴岡八幡宮の御社名が登場しております。
鎌倉幕府の政に鶴岡八幡宮は欠かす事の出来ない存在。
それは、頼朝様から実朝様まで続いた源氏嫡流が途絶えた後も変わらぬ風習となっておりましたので、鶴岡八幡宮は源氏の氏神としてだけでなく、鎌倉幕府にとっても大切な守神様であった事が伺えます。
鎌倉時代と呼ばれる期が過ぎ去った後、僧坊の減少と共に御社は衰退の色を見せておりましたが、江戸時代には徳川幕府の庇護を受けた事で一気に勢力を盛り返す事となりました。
吾妻鏡の御蔭で御座いましょうか…家康様のバイブルなのですよね(笑)
江戸期には、かなり多くの堂塔等が建立されたようで御座います。
文政11(1828)年には、江戸幕府第11代将軍 徳川家斉様によって 現在の御本殿が造営されております。
そして明治期…神仏分離令によって、仏堂、仏像、仏具、什宝、経典等、多くの貴重な遺産を失う事となりました。
次いで、大正12年の帝都大地震(関東大震災)では大きな被害が出たようで、全ての復旧が完了するまでに7年の歳月をかけておられます。
800年以上の歴史と武士の文化を今に伝える鶴岡八幡宮は、山と海の間に建つ景勝地でも御座います。
これだけ魅力的な要素が揃った御社が、現代でも観光名所として人を集めるのは自然な事なのかもしれませんね。
本宮は、石段頂上の楼門を潜った内側に御座います。
楼門から先は撮影禁止の聖域となっております。

丸山稲荷社は、本宮の近く…上宮から鎌倉文庫、境外社である今宮へと向かう路の入口付近にの更に小高い丘の上に御鎮座されて御座います。
こちらは、鶴岡八幡宮でいちばん古い室町期の建造物。
本宮の御鎮座以前より御祀りされていたといわれる地主社で、今も多くの方に崇敬されている御稲荷様で御座います。

下宮である若宮は、本宮の御祭神 応神天皇の御子である仁徳天皇と応神天皇の后 仲媛命、それから応神天皇の第4皇子である 仁徳天皇の第1皇子 履中天皇と仁徳天皇の妃 磐之媛命の4柱を御祀りされている御社で御座います。
母子関係で結ばれた御祭神がそれぞれ御祀りされているので御座いますね。

若宮前を少しばかり奥へと進みますと、路の途中に由比若宮の遥拝所が御座います。
八幡宮の元宮である由比若宮は材木座に御鎮座されておりますが、これを鶴岡八幡宮境内より参拝する為の拝所として設置されたもので御座いましょう。
そして、その直ぐ隣には鶴亀石という縁起の良い御石が…。
水で洗うと鶴亀のような輝きを出す名石といわれております。

若宮の御社殿前から由比若宮遥拝所、鶴亀石を経由して進みますと、一昨日の記事でも記しました境内社 白旗神社が御座います。

白旗神社の御参道を遡るように進みますと、鎌倉国宝館が御座います。
こちらは神仏集合時代の鎌倉の寺院等に伝わる遺産を数多く所蔵されており、鶴岡八幡宮縁の御宝物も多く拝む事が出来ます〜。
旗上弁天社が弁天堂であった頃に安置されていたという弁才天坐像もこちらの所蔵品で御座います。

その他 画像には御座いませんが(すみません…)、境内には祖霊社、宝物殿、県立近代美術館、鶴岡幼稚園、実朝様歌碑等も御座います。
京の厳かかつ緩やかな古社の持つ空気とは また趣の違う鎌倉の古社。
その風情に心慰められる事もあれば、厳しさを教えられる事も御座います。
それが、武士と共に歩まれた御宮ならではの魅力なので御座いましょう。

若宮大路は昼夜を問わず車の通りが激しいので少し怖いです;
夜の鎌倉は色々な場所でライトアップが行われており、大変綺麗で御座います。
古いものを文明の利器と組み合わせて楽しめるのは、現代人ならではの特権で御座いますね〜。
Comment
どうゝねさん、こんばんはv
虹って日本では不吉とされてたんですね〜。私なんか、ついラッキー♪とか思っちゃうんですが^^
八幡宮の舞殿も、昔に比べてずいぶん綺麗になりましたよね。
静御前が舞った頃の舞殿はどんな感じだったんでしょうね。
虹って日本では不吉とされてたんですね〜。私なんか、ついラッキー♪とか思っちゃうんですが^^
八幡宮の舞殿も、昔に比べてずいぶん綺麗になりましたよね。
静御前が舞った頃の舞殿はどんな感じだったんでしょうね。
虹って上手に撮れなくて難しいなぁと思います…;;
普段は余り見られないだけに、発見すると おぉ〜!と感動しちゃうんですが、何故か途中で「日常に無い事が起こるなんて不吉なのでは…」とマイナス思考になってしまって;
そういえば、流れ星とかもそうですよね!
現代的にはロマンチックな感じですが、星が流れるのも不吉な兆しだったりで…流星群の時とかは大変だったようですし(苦笑)
八幡宮の舞殿、本当にキラキラしてますよね〜。
平安末期には未だ舞殿は無かったようなので、静様が舞った場所は もしかしたら御本殿の回廊辺りだったのかも?と勝手に想像してるのですが、それもそれで綺麗そうだなぁと思います。
白拍子の舞、見てみたいなぁー…。
普段は余り見られないだけに、発見すると おぉ〜!と感動しちゃうんですが、何故か途中で「日常に無い事が起こるなんて不吉なのでは…」とマイナス思考になってしまって;
そういえば、流れ星とかもそうですよね!
現代的にはロマンチックな感じですが、星が流れるのも不吉な兆しだったりで…流星群の時とかは大変だったようですし(苦笑)
八幡宮の舞殿、本当にキラキラしてますよね〜。
平安末期には未だ舞殿は無かったようなので、静様が舞った場所は もしかしたら御本殿の回廊辺りだったのかも?と勝手に想像してるのですが、それもそれで綺麗そうだなぁと思います。
白拍子の舞、見てみたいなぁー…。
どうゝね | URL | 2007/12/23/Sun 02:33[EDIT]
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