その大半は神奈川、千葉等の関東県、そして東北〜北陸辺りに分布しており、西の方では殆ど見掛けられない為、東国…つまりは、源氏勢力圏であった関東を中心とする土地に伝えられている事が判ります。
白旗といえば、源平合戦時の源氏の旗色…源氏の象徴的存在を表すものの1つで御座いますね。
対す平家は赤旗――広島県福山市沼隈町平家谷(平家伝承地)に現存する赤旗神社では紙垂の色にも“赤”を基調に定められており、里全体が源氏の旗色を連想させる“白”い色を忌み嫌う風習が御座いました。
平家縁の神社として有名なのは、厳島神社や熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)。
いずれも平家が全盛であった頃に大いに信仰され栄えられていた霊場で御座いますが、壇ノ浦合戦で滅亡の後は源氏の世となって参りますので、仮に史実の裏で生存されていたといわれる各地の平家縁の方々がおられたとしても大っぴらに平家の方を御祀りして篤く信仰する事は、身の危険を自ら招き入れるような危険な事であったのかもしれません。
供養の為に塔を建立したり、小祠に御祀りされたり、または別の御祭神に隠して御祀りされたり…。
あくまでも表舞台では滅亡した“敗者”である以上は、ただ密やかに日々の平穏を祈りつつ御暮らしになられたと伝えられる平家落人伝承地は実際に多いように感じております。
東国で見掛けられる白旗神社のように、西の地域に“赤旗神社”を見る事が出来ないのは もしかするとそういった経緯もあったのやもしれません。

こちらは、鎌倉の源頼朝様墓所下に御座います 白旗神社。
鶴岡八幡宮の東、鎌倉幕府の中心であった大倉御所の北に御座います 大倉山中腹には、頼朝様の墓所が今に伝えられております。
その麓、墓所への御参道入口左手の場所に、御鎮座される御社で御座います。
藤沢の白旗神社の御祭神は義経様で御座いましたが、一般的には頼朝様を主祭神とされる白旗神社が多いようで御座います。
他にも、源氏の英雄 八幡太郎義家様であったり、源氏に仕えた武将であったり…源氏の氏神様である八幡神様を御祀りされている白旗神社も御座います。
□ 白旗神社(しらはたじんじゃ) □
所在地:神奈川県鎌倉市西御門
御創建:明治5(1872)年
御祭神:源頼朝公
白旗神社の御創建は明治5(1872)年の事で御座いますが、こちらは元々 頼朝様の持仏堂であったといわれ、石橋山の合戦の際には髻の中に大切に納めて持ち歩かれた髻観音像を御祀りされておりました。
頼朝様は敗走の際、隠れていた岩穴に この小さな銀の観音像を安置されたようで、手元から離されていたようで御座いますが、何の因果か 後に伊豆山の僧によって発見された観音像は再び頼朝様の御手元に戻って来られたそうで御座います。
これに感動された頼朝様は、御霊験に感謝して より大切にされ、更に篤く信仰されたといわれます。
そして、頼朝様は死後ここに葬られ、それから“法華堂”と呼ばれるようになったと伝えられております。
建暦三年五月二日
(中略)
酉尅、賊徒、遂圍幕府四面、靡旗飛箭。
相摸修理亮泰時、同次郎朝時、上総三郎義氏等、防戰盡兵略。
而朝夷名三郎義秀、敗惣門、亂入南庭、所籠之御家人等、剰縦火於御所、郭内室屋、不殘一宇焼亡。
依之、將軍家、入御于右大將軍家法華堂。
可遁火災御之故也。
(以下略)
建暦3年5月2日(1213年5月23日)、有力御家人 侍所別当の和田義盛様が北条氏の挑発によって謀反を起こされる事件が起こりました。
その際、政子様と実朝様の奥方様は北條義時様に促されて八幡宮へと避難をされておりますが、ギリギリまで御所に残られておられた実朝様は 火の手がまわる最中、亡き御父上の墓所でもある法華堂へと逃げ 隠れられております。
宝治元年6月5日(1247年7月8日)、北条、三浦氏が安達氏に敵対した宝治の乱の折、御館を攻められた三浦泰村様は一族の方々と共に、この法華堂に立て籠られました。
宝治元年六月五日
(中略)
折節北風變南之間、放火於泰村南鄰之人屋、風頻扇、煙覆彼舘、泰村并伴黨咽烟。
遁出舘。
參篭于故右大將軍法華堂。
舎弟能登守光村者、在永福寺総門内、從兵八十余騎張陣、遣使者於兄泰村之許云、當寺爲殊勝城郭。
於此一所、相共可被待討手<云云>。
泰村答云、縱雖有鉄壁城郭、定令不得遁歟。
同者於故將軍御影御前、欲取終。
早可來會此<云云>。
専使互雖爲一兩度、縡火急之間、光村出寺門、向法華堂。
於其途中、一時合戰、甲斐前司泰秀家人、并出羽前司行義、和泉前司行方等、依相支之也。
兩方從軍、多被疵<云云>。
光村終參伴堂、然後西阿泰村 光村 家村 資村、并大隅前司重隆美作前司時綱。
甲斐前司實章。
關左衛門尉政泰、以下、列候于繪像御影御前、或談徃事、或及最後述懐<云云>。
西阿者専修念佛者也。
勸請諸衆爲傾一佛淨土之因、行法事讃、廻向之。
光村爲調聲<云云>。
左親衛軍兵攻入寺門、竸登石橋、三浦壯士等。
防戰、竭弓釼之藝。
武藏太郎朝房責戰、有大功。
是爲父朝臣義絶身、一有情之無相從、僅駕疲馬許也。
不著甲冑之間、輙欲討取之處、被扶于金持次郎左衛門尉、<泰村方>全其命<云云>。
兩方挑戰者殆經三刻也。
敵陣箭窮。
力盡、而泰村以下爲宗之輩、二百七十六人、都合五百余人、自殺此中被聽幕府番帳之類、二百六十<云云>。
次壹岐前司泰綱、近江四郎左衛門尉氏信等承仰、爲追討平内左衛門尉景茂、行向彼長尾家。
作時聲之處、家主父子者、於法華堂。
自殺訖、敢無人于防戰仍各空廻轡。
但行逢子息四郎景忠。
生虜之、持參<云云>。
甲冑勇士等。
十餘騎塞壹岐前司之行路。
諍先登之間、泰綱雖問其名字。
敢不能返答、而景茂等。
依不所在、無合戰之儀、剰彼勇士乍名謁逐電<云云>。
(以下略 / 吾妻鏡による)
北条時頼様の軍勢に攻撃された後、泰村様、光村様、そして三浦一族と島津氏、毛利氏等を含める約500人もの方々が、こちらで自害をなさられております…。
宝治の乱については、またいずれ三浦氏の方々と共に詳しく記せたらと思っております。
長らく法華堂として、そして“白旗大明神”として信仰されてきた御堂で御座いましたが、明治5(1872)年 神仏分離令によって御堂から神社になられたようで御座います。
御祭神を頼朝様に定め、“白旗神社”と称されて現在に至ります。
白旗神社 由緒記
一.祭神 源 頼朝公
一.例祭 一月十三日
一.由緒
この地はもと源頼朝公居館(大蔵御所)の北隅で持仏堂があり、石橋山合戦にあたって髻の中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(一一九九)一月十三日頼朝公が亡くなると ここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧「相承院」が奉仕して祭祀を続け 明治維新に際し寺は白旗神社に改められ、源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和四十五年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。
持仏……守り本尊として、常に身近に置いて信仰する仏像。

法華堂跡
堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ葬後其ノ廟所トナル
建保五年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時 将軍実朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ処ナリ
宝治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ迎ヘ刀折レ矢尽キテ一族郎党五百余人ト共ニ自刃シ満庭朱段ニ染メシ処トス
大正十三年三月建 鎌倉町青年団
以上は大正13年建立の史跡碑に刻まれる内容で御座いますが、何とも素敵な事に 清泉小学校 史跡委員会さんの手によって現代文に訳した文面も近くに掲示されております。
次の文は、右の石碑にきざまれた文を、現代文に直したものです。
清泉小学校 史跡委員会
宝治元年(一二四七)六月五日 三浦泰村は北条氏と戦い、ここで最後の一戦をまじえたが、力つきて一族五百余人と、もろともに自殺し、庭一面を血しおでまっ赤に染めたのであった。
法華堂あと(右の石段をのぼりつめた上)
この堂は、頼朝が日ごろ大事にしていた仏像をまつった所であったが、その死後は頼朝の霊をまつる場所となった。
建保五年(一二一七)五月に、和田義盛がそむき、幕府の建物に火をはなった時、将軍の実朝が避難したのはここである。
大蔵御所跡碑の直ぐ近くという事もあって、観光で散策される方が頼朝様墓所を訪れられる光景はしばしば目にしておりましたので、こんな風に誰にでも気軽に理解出来るように表示されておられるのは非常に素晴らしい事で御座いますね!
小学校の生徒さんによるものというのも、興味を抱かれる年代の幅を広げられて良いと思います。
“史跡委員会”っていいなぁ、羨ましいです…私の通っていた小学校にも そんな素敵な委員会があれば、絶対に率先して入ったのに!(笑)

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