日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

義経様の御首を追って、
文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、奥州平泉高館にて 藤原泰衡様の襲撃を受け、自害にて果てられた源義経様の御首が 泰衡様の弟様 高衡様によって腰越へ届けられたのは、義経様絶命から43日後――文治5年6月13日(1189年7月27日)で御座いました。

文治五年六月十三日
十三日 辛丑
泰衡使者、新田冠者高平、持參豫州首於腰越浦、言上事由。
仍爲加實檢、遣和田太郎義盛、梶原平三景時等於彼所。
各著甲直垂、相具甲冑郎從二十騎、件首納黒漆櫃、浸美酒、高平僕從二人、荷擔之昔蘓公者、自擔其■、今高平者、令人荷彼首。
觀者皆拭雙涙、濕兩衫<云云>。
 (吾妻鏡による)


腰越浜にて行われた首実検の後、義経様の御首は そのまま海へと打ち捨てられてしまい、それが潮の流れで川を溯り、この地で拾い上げられ 里の方に葬られたと伝えられます。

義経様首洗井戸01


こちらは、神奈川県藤沢市藤沢の義経様首洗井戸と呼ばれる史跡。
陸に上げられた義経様の御首を綺麗に洗った際に使用した井戸の伝承地で御座います。
義経様の御首の行方については史料等に記録が残っておりませんので、あくまでも土地で語り継がれてきた伝説の史跡では御座います。

   伝 源義経首洗井戸

 「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(一一八九)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。
義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。
それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。

 ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。



義経様首洗井戸02


公園…というよりは、小さな広場のような場所の隅に井戸があり、その御参道の正中に向いた形で石碑、首塚が建てられております。

直ぐ奥には、挟み込むようにマンションが建てられており、なんだか違和感を感じさせられてしまう景観で御座いました。
恐らくは、時代の流れと共に変わる周囲に反して留まろうとする小空間の所為かもしれないなと思うのですけれど…。
大河ドラマ「義経」の放映に伴って、ここ数年に色々と整備されたようで御座いますので、以前はもっと寂しい雰囲気だったのかもしれませんね。

義経様首洗井戸03


案内板に“ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡ありました”と記されておりましたので、過去形…土地開発か何かでもう無くなってしまわれたのかしら?と思いましたら、直ぐ傍に御座いました(笑)
移動されてこられたので御座いましょう。

首塚の正面には“九郎判官源義経公之首塚”とあり、その右側には“武蔵坊弁慶弁慶之霊”、左側に “亀井坊 伊勢坊 片岡坊 駿河坊 各霊”と刻まれておりました。
亀井坊=亀井六郎重清様、伊勢坊=伊勢三郎義盛様、片岡坊=片岡八郎弘経、駿河坊=駿河次郎様の事で御座いますね。
“坊”とありますが、郎党の方々が皆出家をされていたという訳では無く……これは、もっと後の時代の芸能の演目 安宅の関等の題材となった際に修験者として描かれた事に基づくもので御座いましょう。
つまり、この首塚碑そのものは どんなに古くとも(そんなに古いものとは思えない外観で御座いますが)江戸期以降の建立という事になりますね。

江戸期に義経様四天王と称されるようになった郎党の御四方については、いずれまた詳しく記したいと思っております。


首塚の脇には、“九郎尊神”と刻まれた碑も建立されております。

義経様首洗井戸04


↑中を覗いてみましたらば、意外と浅井戸のようで……水も無い状態で枯れ葉が積もっておりました。

義経様首洗井戸05


義経様首洗井戸伝承地までは、藤沢本町駅から歩いて6〜7分程度で御座います。
本町白旗交番の横の細路を進めば直ぐで、案内もあちこちで伺う事が出来ます。

義経様首洗井戸06


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