日本史(主に平安〜鎌倉初期)&源平史跡、伝承地巡りの記録。 あくまでも自分の為の記録で御座います。

北の王者。
秀衡さま


□ 藤原秀衡(ふじわらのひでひら)

生  年:保元3(1122)年?
没年月日:文治3年10月29日(1187年11月30日)
  父   :藤原基衡
 母  :安倍宗任女
兄  弟:津軽秀栄
正  室:藤原基成女
  子  :国衡、泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡
別  称:藤原秀平
通  称:御館
官   位:嘉応2年5月25日(1170年7月10日)、従五位下、鎮守府将軍
     養和元年8月15日(1181年9月25日)、従五位上、陸奥守


藤原秀衡様は、奥州藤原氏3代目。
物語等では豪胆かつ器の大きな偉人として描かれる事の多い秀衡様は、“北の王者”と称されておられますね!

秀衡様が家督を相続されたのは、基衛様没後の保元2年3月(1157年4月)の事。
祖父 清衡様より代々受け継がれた浄土の国造りに対する想いから、仏教を篤く信仰されておられました。

弘安2(1167)年、秀衡様の御名は京の都で話題に上がります。
平清盛様が太政大臣に任じられ、まさに平家御一門が栄華を極められたこの年、朝廷の競馬にて勝馬に入った2頭の馬を献じられたのが 秀衡様であったので御座います。
“秀平鴾毛”と“御廚秀平栗毛駮”という2頭の貢献は、奥州藤原氏の存在を広く中央に印象付けました。

嘉応2年5月25日((1170年7月10日)、秀衡様は鎮守府将軍に任じられました。
地元豪族としては、清原武則様以来の任命であり、この異例の人選に、京の公卿達はどよめきを隠せませんでした。
右大臣 九条兼実様は、日記 玉葉に“奥州の夷秋秀平、鎮守府将軍に任ず、乱世の基なり”としるされておられます…;

承安4(1174)年、京を落ち平泉を目指された源義朝様の遺児である義経様を暖かく迎え、養育さられておられます。
義経様を迎え入れられた経緯は不詳で御座いますが、金売吉次の手引きによって奥州入りされたと物語等には伝えられます。
義経様が平泉で過ごされた時間は約6年間――この期間に、秀衡様と義経様はどのような日々を御過ごしでいらっしゃったので御座いましょう。
幼い時分より鞍馬寺に入られておられた義経様は 鞍馬にて修行に励まれていたとはいわれますが、だとしても それ故に一般的な武士としての心得や武芸の作法等に不足する部分はあった事と思われます。
そういった穴を埋められる御助力と、平泉の地に対する愛着を義経様に御教えになられたのが秀衡様だったのでは無いでしょうか。
治承4年8月(1180年9月)、源氏再興の志から挙兵なさった異母兄 源頼朝様に呼応する義経様を送り出される際、秀衡様は 佐藤継信忠信 兄弟を与えておられます。
大河ドラマ「義経」では、義経様を息子と思うとまで仰られて出陣の御支度を整えて下さっておりましたね〜。

養和元年8月15日(1181年9月25日)、平宗盛様等の意向から陸奥守に任じられます。
平家側からすれば、北の地を統べる奥州藤原氏の頭に官位官職を与える事で 少しでも平家方に有利に利用出来れば…と思われての事であったので御座いましょう。
これに焦った源氏方も色々と手段をとられておられますが、奥州は実質的に源平どちらにも加担しておらず、状況を傍観される状態のまま要領良く持領を護られておられます。

平家滅亡の後、鎌倉幕府が開かれ 時代は武家社会へと変わって参ります。
秀衡様は、朝廷へ貢納する品を 鎌倉に通すよう求められると、これを受認。
あくまでも敵対の姿勢を見せる事無く、穏やかに事を運ばれていたようで御座います。

そして、文治3年2月(1187年3月)…頼朝様との不和から敵対の道を歩まれる事となった義経様が平泉に辿り着かれますが、ここでも また暖かく迎えられたようで御座います。
実際は、鎌倉を敵に回す要因となりかねない厄介事であった事で御座いましょうが、それは 義経様がはじめて平泉へ迎えられた時も相手が平家だったというだけで同じ事と御考えになられたのかもしれません…。
状況を考えれば、押し返す事も充分に可能で御座いましたでしょうが、秀衡様は情を御忘れにならない御人柄だったので御座いますね。
また、そうまでしても義経様は護るべき価値のある御方であると御館は御判断なさったのかもしれません。
然し……その後間も無くして秀衡様は病にかかり、行く末を見届けられぬまま生涯を終えられたので御座いました。享年66歳。
秀衡様は、御遺言として 息子達に義経様を主君に立て、兄弟力を合わせて支えて 共に奥州の地を護っていくように、と御言葉を残されたのでは無いかともいわれております。

秀衡様の御遺体は、祖父 清衡様、父 基衡様の亡骸同様に、中尊寺金色堂内にて安置されております。
ミイラ化した御遺体の鑑定を行った所、血液型はAB型であったのだそうで…A型多しといわれる日本人の中にも、矢張りB型の血は古くから存在していたのね!と妙に心強さを感じてしまうB型な私なので御座いました(笑)

秀衡様に対しては 強く優しく暖かく、そして御厳しい一面も持たれる偉大な御方=奥州藤原氏という印象を持った偶像が脳裏に焼き付いて離れません。
決して他国の争いには介入せず…然し、護るべきものを護る為であれば、その御刀を振るわれる御覚悟を常に御持ちであられた…そんな風に描かれる奥州の御館 秀衡様に、魅力を感じない者がありましょうか。

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秀衡と義経
どうゝねさん、こんばんは。
秀衡様は本当に懐の広い方だという、感じがします。そして、義経のことは気に入ってたんでしょうね。

>息子達に義経様を主君に立て、兄弟力を合わせて支えて 共に奥州の地を護っていくように、と御言葉を残されたのでは無いかともいわれております。
私もそう思います!遺言どうりにしていたら、奥州はどうなっていたんでしょうね。

冬芽 | URL | 2007/11/26/Mon 22:55[EDIT]
>冬芽さん
こんばんは。
秀衡様は、理想の御父さん…というより、理想のおじいちゃんという感じが致します(笑)
こういうおじいちゃんが居たら格好良くて自慢ですし、尊敬しちゃいますよね〜。
義経様も、秀衡様の懐の広さに暖かさを感じておられたから、再び平泉を頼られたのだと思います。

もしも遺言通りに奥州藤原氏+義経様が頑張られていたら、もしかしたら奥州はもっと独立王国が続いたかもしれないですよねー。
そうなっていたら、平泉文化も また違った形に色々と変化していたのかも……歴史の一瞬一瞬が少しでも違ったら、現代の姿は大きく変わっていたかもしれないと思うと、本当にドキドキしちゃいます〜。。
どうゝね | URL | 2007/11/28/Wed 00:27[EDIT]
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