日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

嫡男にはなれずとも。
国衡さま


□ 藤原国衡(ふじわらのくにひら)

生  年:不詳
没年月日:文治5年8月10日(1189年9月21日)
  父  :藤原秀衡
  母  :女(蝦夷出身/側室)
兄  弟:泰衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡
  妻  :藤原基成女(秀衡後妻/泰衡母)
通  称:西木戸殿、西木戸太郎


藤原国衡様は、奥州藤原氏3代目 秀衡様の御長男で、4代目 泰衡様の異母兄様で御座います。

御館の御長男として御生まれになられてはおりますが、国衡様の御母様が蝦夷の御出身であられた側室であった事から、傍流の御子として御育ちになられました。

承安4(1174)年、鞍馬寺を抜け出された源義経様が奥州平泉の地へ辿り着かれました。
平家が栄華を誇る時分には災いの種である義経様を、父 秀衡様は暖かく迎え入れられます。
生年が不詳の為、この頃の国衡様が御幾つであられたのかは判りませんが、異母弟 泰衡様が20歳で御座いましたので、それよりは上の御年齢であった事と思われます。
国衡様がこの時にどのような御生活を送られており、未だ御若い義経様に対して どのような御見解を持たれていたかは伝わるところでは御座いませんが、御長男でありながら嫡子にもなれない御自身とは またかけ離れた存在である源氏の遺児を養育される御父様を器の大きな人物だと感じられていたか否かは想像の及ばない領域で御座います。

そして幾年かの月日を経て、義経様は鎌倉と敵対し、再び平泉の地を頼って来られる事となり、その際にも秀衡様は義経様を受け入れられておられます。
かつて築いた絆故の御決断であられたと存じますが、秀衡様は鎌倉の頼朝様勢力から奥州を護る為に、源平合戦において華々しい功績をあげられた義経様を1つの大きな“力”として迎え入れられたのかもしれません。
秀衡様以下の奥州藤原氏は、鎌倉からの義経様引渡の要求を頑として拒まれておられます。

然し、文治3年10月29日(1187年11月30日)――北の王者 秀衡様も御病気には敵わず、御隠れになられてしまわれたので御座います。

文治四年正月九日
乙巳、(中略)或人云、去年九十月之比、義顕在奥州、秀衡隠而置之、即十月廿九日秀衡死去之刻、為兄弟和融(兄他腹之嫡男也、弟当腹太郎云々)、以他腹嫡男令娶当時之妻云々、各不可有異心之由、令書祭文了、又義顕同令書祭文、以義顕為主君、両人可給仕之由有遺言、仍三人一味、廻可襲頼朝之籌策云々 (以下略/玉葉による)


玉葉によれば、秀衡様は死去直前の折に その御子息様方は異母兄弟間の融和を図って、秀衡様が先妻に産ませた御長男…つまりは国衡様に、その時 妻にしていた女性を娶らせたという事で御座います。
これによって、国衡様と4代目になられた泰衡様との御関係は 異母兄弟から義父子となった訳で御座いますね……現代的に考えると、微妙に複雑な関係で御座います(苦笑)
そして、各々方に遺言に異論を唱えない事を誓った起請文を書かせ、また 義経様にも同様に起請文を書かせたといいます。
以後は義経様を主君として、両人はこれに付き従うべし…という遺言を残して秀衡様が身罷られた後は 御三方が力を合わせ、志をひとつに頼朝様の計略に対策を練ったそうで御座います。
秀衡様にとっては どの御子様も、そして義経様も、大切な御子様であったので御座いましょう。
御亡くなりになられる間際に行われたこの取交しは、奥州の平和の為、御家の安定の為だけでは無いように思います。
戦わずに解決する道がある限り、身内同士の争いは避ける事…生まれ育った奥州の地と民、そして初代より受け継がれた地位を慎ましく守り継いでいく事……、御父様の願いは そういったものでは無かったのでは無いでしょうか。

御父様の遺命に従って、国衡様は忠衡様と共に義経様を保護されておられます。
然し状況は思わしく無い方向へ向かうばかりで…鎌倉に要請を受けた朝廷は、義経様追討の院宣を下される事となります。
そして、ついに1189年6月15日(文治5年閏4月30日) 泰衡様が衣川の義経様邸を襲撃……妻子と共に義経様は自刃なさる結果となられました。
亡き御父様の遺命に背いた事で、鎌倉に対する奥州の守りは大きく欠けてしまったと考えても過言では無いように思います。
続いて泰衡様は、義経様寄りな意見を持っておられた忠衡様を殺害…兄弟間での争いも、先代の御館は望まぬ現実であった事で御座いましょう。

そして始まったのが、約1千の兵を引き連れ奥州討伐へと向かわれた頼朝様率いる鎌倉軍との奥州合戦で御座います。
文治5年8月7日(1189年9月18日)、陸奥国伊達郡国見へ至った鎌倉軍が、この戦で真っ先に対峙なさった御相手が大将軍 国衡様の軍勢なので御座いました。
国衡様の軍勢は約2万。
阿津賀志山に城壁を築いて阿武隈川の水を使った堀を設けておられました。
夜になって鎌倉軍からの攻撃を受け、鋤鍬で掘を埋められてしまいます。
そして翌日、畠山重忠様、小山朝光様、加藤景廉様、工藤行光様等によって攻め入れられ、城は破られてしまいます。

そして10日(1189年9月21日)、阿津賀志山を越えて来た鎌倉軍の本軍が国衡様の護る大木戸を攻め、更に搦手軍による奇襲を受けて敗北…国衡様は逃走なさっておられます。

文治五年八月十日
十日 丁酉
 卯尅、二品已越阿津賀志山給。
大軍攻近于木戸口、建戈傳箭。
然而國衡輙難敗傾、重忠朝政朝光義盛行平成廣義澄義連景廉清近等、振武威、弃身命、其闘戰之聲、響山谷、動郷村。
爰去夜小山七郎朝光、並宇都宮左衛門尉朝經郎從、紀權守、波賀次郎、大友已下七人、以安藤次、爲山案内者、面々負甲疋馬、密々出御舘、自伊達郡藤田宿、向會津之方、越于土湯之嵩鳥取越等、攀登于大木戸上國衡後陣之山、發時聲飛箭。
此間城中大騷動、稱搦手襲來由。
國平已下邊將、無益于搆塞、失力于廻謀。
忽以逃亡。
于時雖天曙、被霧隔、秋山影暗、朝路跡滑、不分兩方之間、國衡郎從等、漏網之魚類多之其中金剛別當子息、下須房太郎秀方、<年十三>殘留防戰。
駕黒駮馬額白髦、陣其氣色、掲焉也。
工藤小次郎行光、欲馳並之尅、行光郎從藤五男、相隔而取合于秀方。
此見顔色幼稚也。
雖問姓名、敢不發詞、然而一人留之條、稱有子細誅之畢。
強力之甚不似若少、相爭之處、對揚良久<云云>。
又小山七郎朝光討金剛別當。
其後退散歩兵等、馳向于泰衡陣、阿津賀志志山陣、大敗之由告之。
泰衡周章失度逃亡、赴奥方。
國衡亦逐電。
二品令追其後給。
扈從軍士之中、和田小太郎義盛、馳抜于先陣、及昏黒到于芝田郡大高宮邊。
西木戸太郎國衡者、經出羽道、欲越大關山。
而今馳過彼宮前路右手田畔、義盛追懸之、稱可返合之由。
國衡令名謁廻駕之間、互相逢于弓手。
國衡挾十四束箭。
義盛飛十三束箭。
其矢國衡未引弓前、射融國衡之甲射向袖中膊之間、國衡者痛疵、開退。
義盛者又依射殊大將軍、廻思慮、搆二箭、相開。
于時重忠率大軍、門客大串次郎、相逢國衡。
々々所駕之馬者、奥州第一駿馬<九寸>號高楯黒也。
大肥滿國衡駕之、毎日必三箇度、雖馳登平泉高山、不降汗之馬也。
而國衡怖義盛之二箭、驚重忠之大軍、閣道路、打入深田之間、雖加數度鞭、馬敢不能上陸。
大串等於得理、梟首。
大遮也。
亦泰衡郎從等、以金十郎、勾當八、赤田次郎、爲大將軍、根無無藤邊、搆城郭之間、三澤安藤四郎、飯冨源内已下猶追奔攻戰。
凶徒更無雌伏之氣。
彌結鳥合之群、於根無藤與四方坂之中間、兩方進退七箇度。
然金十郎討亡之後、皆敗績。
勾當八、赤田次郎已下、生虜卅人也。
此所合戰、無爲者、偏三澤安藤四郎兵略者也
 今日於鎌倉御臺所、以御所中女房數輩。
有鶴岳百度詣。
是奥州追罰御祈精也。
 (吾妻鏡による)


阿津賀志山の合戦と呼ばれるこの戦いで、国衡様は戦死なさいました。
和田義盛様の矢に射られて深田に倒れたところを、畠山重忠様の家臣 大串次郎様に討ち取られておられます。
生年が伝わらない為、享年も不詳。


国衡様は、どのような国で、どのように生きられる御自身の姿を理想として抱かれておられたので御座いましょうか…。
兄として、また義父として、泰衡様の事をどのように見られておられたので御座いましょう。
史料に殆ど残されていない真実に、非常に興味をそそられます。

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