日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな
八幡太郎義家さま


□ 源 義家(みなもとのよしいえ)

生  年:長暦3(1039)年
没年月日:嘉承元年7月4日(1106年8月4日)
  父  :源頼義
 母  :平直方女
兄 弟:義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)、快誉
  子  :義宗、義親、義国、義忠、義時、義隆、為義
幼  名:源太、不動
通  称:八幡太郎
官  歴:寛徳2(1045)年、左衛門尉、検非違使
     康平6年2月25日(1063年3月27日)、従五位下、出羽守
     承暦2(1078)年、下野守、鎮守府将軍、陸奥守
     承徳2年10月(1098年11月)、正四位下、院昇殿許可
     (※大正4年11月10日、贈正三位)


言わずとも知れた、清和源氏の有名人 源義家様は 頼義様の御嫡男。
頼朝様や範頼様、義経様等の御父様 義朝様の曾祖父様に当たる御方で御座いますね。

長暦3(1039)年、源平両氏の縁組により 河内源氏3代目として、河内源氏本拠地の河内国石川郡壷井香炉峰の御館にて御誕生なさっておられます。
2歳の時に院に謁見されたといわれ、その際に縅されたという鎧は“源太が産衣”と名付けられ、以降の源氏の宝物として受け継がれております。
寛徳2(1045)年には7歳という異例な御若さにて元服。
元服式は、京 男山の石清水八幡宮で行われた事から“八幡太郎”と称される事となります。

武士の長者ともいわれる義家様は、中右記に“天下第一武勇の士”と評されており、武門としての誉れ高い御方であったようで御座います。
また、千載和歌集には その御歌も収録されており、歌才にも長けておられた事が伺えます。
後の世まで、源氏一門の英雄のように語り継がれてきた理由の1つには、この文武を兼ね備えられた面も挙げられているようで、きっと以降の源氏の方々にとっては憧れの御先祖様であったので御座いましょう。

陸奥守、鎮守府将軍に任ぜられた父 頼義様が安倍氏と戦った前九年の役では、義家様も共に参戦、奮戦しておられます。
天喜5年11月(1057年12月)の黄海の合戦では阿部貞任様率いる阿部軍に大敗致しますが、この時に 退却する官軍を補助しようと義家様が射た矢は敗軍においても輝かしかったと伝えられております。

この前九年の役で有名な逸話が、源氏伝来の名刀 “髭切”の太刀の事で御座いますね。
生け捕りにした敵千人の御首を髭ごと断ったという刀は“髭切”と名付けられ、その対に“膝丸”という太刀もしくは大鎧、それから“源太が産衣”と合わせて河内源氏家宝として代々嫡子に伝えられたといわれております。
それを、後の平治の乱で頼朝様が用いられ、平家の捕虜となった際に清盛様の元へ渡ったとか渡らなかったとか……で、平家都落の後に 安達泰盛様によって鎌倉へ戻されたようで御座いますが、泰盛様は将軍家にそれを奏上されていなかったようで、弘安8(1285)年の霜月騒動の安達氏滅亡に際して、焼け跡から偶然発見された髭切は執権北条貞時様の手に渡り、そこで ようやっと亡き頼朝様の法華堂へと納められたという事で御座います。
その辺りまでは史料に記述が見られるものの、それ以降の髭切の行方は不明となっておりまして……恐らくは、鎌倉幕府滅亡の頃に焼失してしまったのでは無いかと思われます。。
…ですが、矢張り“髭切”については、とても謎が多く……良く良く考えれば(という程考えなくても…)、その髭切よりも もっと以前に有名な“髭切”が歴史上に伝えられておりますよね…。
茨城童子の片腕を斬り落とした事から“髭切”から“鬼切”へと呼び名が変えられた、あの頼光様の四天王 渡辺綱様が所持されていた頼光様の名刀も“髭切”で御座いました…。
頼光様の“髭切”と義家様の“髭切”は、別物という事にはなっておりますが、様々な史料や物語等で情報が混在しておりますし、時代の流れの中で次々と呼び名が変わったり戻ったりしておりますので、はっきりとした事は何も判っていないようで御座います;

阿部氏を滅ぼした事で奥州平定を遂げた頼義様、義家様親子は都へ帰京。
義家様は、朝廷に歯向かう賊や僧兵の鎮圧に熱を注ぎ、中央の忠実なる番犬として御勤めに励まれました。

永保3(1083)年、清原氏の内紛(=後三年の役)が勃発すると、陸奥守、鎮守府将軍に任命された義家様はこれを平定。
この戦での義家様には、女子供に対しても容赦無い非情ささえ感じられます…。
清原氏の身内同士の争いに介入された義家様は藤原清衡様に加担し、勝利をおさめられておられます。
清衡様は、奥州藤原氏の初代で御座いますね〜。

この内紛平定に対して、朝廷は私闘と見なして報奨を与えられませんでした。
その為、義家様は自らの私財を投じて 部下に報奨を与えられたといいます。
これによって、諸武家からの信頼を得た義家様は、次第に 東国武士の棟梁としての地盤を築かれていったのでは無いでしょうか。
義家様を慕い親しまれた百姓衆から土地を寄進される事もあったようで御座いますし、周囲の人々が見られていた義家様の御人柄を、逆光の最中にでも感じ取る事が出来るような印象で御座いますが、これは朝廷側からすれば要注意人物として見なすべき事柄でも御座いました。

そして、これ以降の義家様は同族同士の紛争に悩まされる事となってしまうので御座います。
寛治5年6月(1091年6月)、郎党同士の争いが原因して弟 義綱様と対立。
危うく洛中で戦を起こしそうになり、関白藤原師実様が調停に入られたり致しております。
義家様に警戒を抱いていた朝廷は、この機に乗じて 寛治6年5月(1092年6月)、義家様への土地寄進を禁じ、荘園の構立を阻止致しました。

承徳2(1098)年、義家様は院の昇殿を許可されますが、これは貴族の方々は快く思われていなかったようで御座います。

康和3(1101)年、九州を横行し人民を殺め略奪を働いたとして 従五位下左兵衛尉、対馬守であった御嫡男 義親様が大江匡房様に訴えられ、追討の論議が行われる事となりました。
義家様は、義親様を呼び戻そうと 郎党 藤原資道様を派遣致しますが、その資道様までもが義親様の元で官吏を殺害…義親様は翌年 隠岐国へと配流が決定されますが、配所に赴かずに出雲国に入り 目代を殺して更なる略奪を働いた為、とうとう義家様は御自ら 御嫡子の追討へと赴かねばならぬ状況となってしまわれました……。
が、そんな渦中の嘉承元(1106)年 義家様は義忠様に家督を譲って出家し、7月4日(1106年8月4日)に病没されたと伝えられております。享年68。


後の源氏代々の方々からは、誇り高き御名として 皆様”八幡太郎義家“様を崇められておりますが、武勇に長け華々しい御生涯を御送りになられたのかと思いきや、晩年は纏まらないどころか 同族同士の争いに随分と悩み苦しまれ、そんな最中での御最期を迎えられたようで御座います…。


※タイトルは、千載集より義家様の和歌。
 詞書は“陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花のちりければよめる

 『なかれ』の関なのだから、吹く風にも来るなかれと思っているのに、道を埋め尽くしそうな程に山桜が散っているなぁ…

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Comment

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やったあ!
頼義、義家親子だー!!!
ありがとう〜!
もしかして、私が質問したから??とか思ったらずうずうしいかな(笑)

髭切について、ここまで考えたことなかったよ。。
勉強になるねー!
モチヅキ | URL | 2007/11/17/Sat 23:18[EDIT]
>モチヅキさん
あはは…そんな、図々しいなんて事無いですよ〜。
というか、むしろ嬉しいです♪
いつも有難う御座います。

髭切について…なかなか難しいですよね;
一応、別モノであろうと推測されてはおりますが 片方は現存しておりませんし;
どうゝね | URL | 2007/11/19/Mon 00:55[EDIT]
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