
□ 源 範頼(みなもとののりより) □
生 年:不詳(仁平2〜3年頃?)
没年月日:不詳(建久4年8月17日以降)
父 :源義朝
母 :池田宿遊女
兄 弟:義平、朝長、頼朝、義門、希義、全成、義円、義経
妻 :亀御前
官 位:三河守
戒 名:名巌大居士
通 称:蒲冠者、蒲殿、吉見御所
範頼様は、源義朝様の御子様で御座いますが、御母上様は遊女で御座いました。
遠江国蒲御廚にて出生なさった事から、蒲冠者、蒲殿と称されておられたようで御座います。
生年は伝えられておりませんが、義朝様の六番目の男子である事と 腹違いでは御座いますが その前後の兄弟の生年から考えると、仁平2〜3(1152〜1153)年頃の事では無いだろうかと思われます。
生い立ちも殆ど伝えられておらず、玉葉の記述に 藤原範季様に養育されたと記されております。
範季様は九条兼実様の家司で後白河法皇近臣でもあり、妻に平教盛様の娘 教子様を迎えられておりますので、平家とも縁の強い御方で御座いますが、どうやら源氏方…義朝様には特別な思い入れがあったので御座いましょうか…範頼様を実子と共に養育されている他、後年には追われる身の上となった義経様を匿われ、それが原因で解官されてしまっておられます。
義経様の件は、範季様は奥州藤原氏とも縁が御座いましたので、適任者として法皇様の命に従った事であったとも考えられております。
ですが、範季様自身 早くに父を亡くされて御兄様の養子となられておりますので、範頼様の他にも数名の方を養育なさっておられ、面倒見の良い優しい御方だったのでは無いかしらと思えます。
範頼様御元服の際にも、恐らくは烏帽子親として立ち合われたのでは無いかと…範頼様の“範”の一字は、範季様より受け継いだもので御座いましょう。
ちなみに…武蔵国石戸に伝わる伝承では、成長した範頼様は平家による追討を恐れて各地を転々とされた後、辿り着いた石戸にて亀御前と結婚し、穏やかな日々を送られていらっしゃったのだとか。
亀御前については、その存在に確証的なものが残されておらず、伝説上の女性ともいわれておりますが、安達盛長様の娘であるとか 範頼様御自身の姫御であられるとか…様々な説が伝えられております;
範頼様を史料上で伺う事が出来るのは、吾妻鏡 治承5年閏2月23日(1181年4月15日)の記事が一番最初で御座います。
治承五年閏二月二十三日
廿三日 己巳
義廣率三萬餘騎軍士、赴鎌倉方。
先相語足利又太郎忠綱。
忠綱本自背源家之間、成約諾。
亦小山與足利、雖有一流之好依爲一國之兩虎、爭權威之處、去年夏之比、可誅滅平相國一族之旨、高倉宮、被下令旨於諸國畢。
小山則承引、語忠綱、非其列太含欝憤、加平氏渡宇治河、敗入道三品頼政卿之軍陣、所奉射宮也。
異心未散、且以次爲亡小山、有此企<云云>。
次義廣、相觸可與之由於小山小四郎朝政。
朝政父、政光者
爲 皇居警衛、未在京。
郎從悉以相從之、仍雖爲無勢。
中心之所之、在武衛。
可誅取義廣之由群議。
老軍等云、早可令與同之趣、僞而先令領状之後、可度之也。
者則云遣其旨。
義廣、成喜悦之思。
來臨于朝政舘之邊。
先之、朝政、出本宅、令引篭于野木宮。
義廣、到于彼宮前之時、朝政、廻計義、而令人昇于登々呂木澤地獄谷等林之梢、令造時之聲。
其音響谷爲多勢之粧。
義廣、周章迷惑之處、朝政郎從、太田管五、 永代六次、和田、次郎、池二郎蔭澤次郎、并七郎朝光郎等。
保志黒三郎等、攻戰。
朝政、著火威甲、駕鹿毛馬、時年廿五。
勇力太盛、而懸四方、多亡凶徒也。
義廣所發之矢、中于朝政、雖令落馬、不死悶。
爰件馬、離主嘶于登々呂木澤。
而五郎宗政、<年廿>自鎌倉向小山之處、見此馬、合戰已敗北、存令朝政夭亡歟之由、馳駕向于義廣陣方。
義廣乳母子、多和山七太、揚鞭、隔于其中。
宗政、逢于弓手、射取七太訖。
宗政小舎人童、取七太之首。
其後義廣、聊引退、張陣於野木宮之坤方。
朝政、宗政、自東方襲攻。
于時暴風起於巽、揚焼野之塵。
人馬共失眼路、横行分散、多曝骸於地獄谷登々呂木澤。
又下河邊庄司行平、同弟四郎政義、固古我高野等渡、討止餘兵之遁走<云云>。
足利七郎有綱、同嫡男、佐野太郎基綱、四男阿曽沼四郎廣綱、五男木村五郎信綱、及大田小權守行朝等、合陣于小手差原小堤等之所處合戰。
此外、八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎爲成、湊河庄司太郎景澄等、加朝政。
蒲冠者範頼、同所被馳来也。
彼朝政者、嚢祖秀郷朝臣、天慶年中、追討朝敵。<平将門>
兼任両國守。
令叙従四位下以降、傳勲功之跡、久護当國為門葉棟梁也。
今聞義廣之計謀、思忠軽命之故、臨戦場、得乗勝矣
前年 治承4(1180)年に挙兵した異母兄 頼朝様の元に馳せ参じた年月等は不詳で御座いますが、割と早々と駆け付けられたのでは無いかと思われます。
また、御出身である遠江国の甲斐源氏等と行末を同じくして行動なさっていたようにも見受けられます。
以降、対木曾戦、源平合戦では 異母弟 義経様と共に奮闘を繰り返し、功名をあげられてゆかれます。
寿永3年1月20日(1184年3月11日)、宇治川合戦に参戦された義経様軍は宇治を強襲、範頼様の大手軍は瀬田を襲撃の後、粟津にて木曾義仲様を討ち取っておられます。
寿永3年2月(1184年3月)には、一ノ谷合戦に参戦。
範頼様は搦手の義経様軍と共に挟撃作戦にて進軍、正面から平家軍を攻撃し、最終的には義経様の奇襲作戦によって平家軍は退散する事となり、また 多くの平家公達、平家方武将がこの一ノ谷にて討ち取られて御亡くなりになられました…。
この際の功績にて、範頼様は頼朝様に推挙されて三河守に任命されております。
同年8月(1184年9月)、範頼様は九州鎮圧の進軍を命じられ、その出発前日には頼朝様より酒宴に招かれておられます。
そこで 頼朝様の秘蔵の馬を与えられており、いずれ鎌倉幕府の主要な御家人となられる方々を従軍されておられる事から、とても重要な任務であった事が伺えます。
治承8年12月7日(1185年1月17日)、藤戸合戦にて平行盛様率いる平家軍に勝利。
長門国に至りますが、瀬戸内は平家の水軍が仕切っていた為に、兵糧不足等の問題が生じて進軍は停滞致します。
そして、兵糧、兵船の調達が成されたのは文治元年1月26日(1185年3月6日)の事。
豊後国の豪族 緒方惟栄氏の協力を得、周防国より豊後国へと渡る事が出来ました。
平氏方の原田種直軍を葦屋浦にて破り、それによって平家軍の後ろ楯を無くす事に成功致しました。
義経様は、彦島を出る訳にはいかなくなった平知盛様の居ない屋島の平家陣を攻め、勝利。
そして元暦2年3月24日(1185年5月2日)、壇ノ浦合戦での平家滅亡をもって、源平合戦は終結となったので御座います。
その後、範頼様は九州にて戦後処理を命じられ、約半年後に鎌倉へと帰還なさっておられます。
範頼様が鎌倉へ戻られた頃には、頼朝様と義経様との間には不和が生じており、範頼様は頼朝様より義経様の追討を命じられておりますが、これを辞退なさっておられます。
3人とも別腹による生まれでは御座いますが、御兄弟間でのこの諍いには矢張り心を痛められた事では無いかしらと思われます…。
範頼様最後の出陣と伝えられるのが、文治5(1189)年の奥州討伐で御座いました。
この時には、既に 異母弟 義経様は平泉にて自刃なさっておられます。
その後、建久元(1190)年の頼朝様上洛に従っておられ、鎌倉殿の元にて最期まで尽くされる御心は既に決まっていたように思われるので御座いますが……。
建久4年5月28日(1193年7月5日)の曽我兄弟の仇討ち事件後、鎌倉には誤った情報が政子様の耳に届いており、不安を抱える御台所を慰めようと“私が居りますから御案じなさいますな”と述べた事が謀反の疑いありとして頼朝様を怒らせる事となったといわれております。
これに対して、8月2日(1193年9月6日) 頼朝様に起請文を送られております。
建久四年八月二日
八月小 二日 丙申
参河守範頼書起請文、被就將軍。
是企叛逆之由、依聞食及、御尋之故也。
其状云、 敬立申 起請文事
右爲御代官、度々向戰場畢。
平朝敵盡忠以降、全無貳。
雖爲御子孫將來、又以可存貞節者也。
且又無御疑、叶御意之條、具見先々嚴札。
秘而蓄箱底。
而今更不誤、而預此御疑、不便次第也。
所詮云當時、云後代、不可挿不忠。
早以此趣、可誡置子孫者也。
萬之一<仁毛、>令違犯此文者上梵天帝釋、下界伊勢春日賀茂、別氏神正八幡大菩薩等之神罰於、可蒙源範頼身也。
仍謹慎以起請文如件
建久四年八月 參河守源範頼
此状付因幡守廣元、進覽之處。
殊被咎仰曰、載源字、若存一族之儀歟。
頗過分也。
是先、起請矢也。
可召仰使者。
廣元召參州使大夫屬重能、仰含此旨。
重能陳云、參州者、故左馬頭殿賢息也。
被存御舎弟儀之條、勿論也。
隨而去元暦元年秋之比、爲平氏征代御使、被上洛之時、以舎弟範頼、遣西海追討使之由、載御文、御奏聞之間、所被載其趣於官府也。
全非自由之儀<云云>。
其後無被仰出旨、重能退下告事由於參州。
參州周章<云云>
この起請文に、頼朝様は 範頼様が“源”を名乗られている事に激しく御怒りになられたといわれます。
そして極め付けは、その8日後。
頼朝様の寝込みを襲おうとした疑いで捕えた男の口から、範頼様による指示であったとの供述がなされました。
建久四年八月十日
十日 甲辰
寅尅、鎌倉中騒動壯士等、箸甲冑、馳參幕府。
然而無程令靜謐畢。
是參州家人、當麻太郎臥御寢所之下、將軍未令給寢、知食其氣、潜召結城七郎朝光、宇佐美三郎祐茂、梶原源太左衛門尉景季等、尋出當麻、依被召禁也。曙後被推問之處、申云、參州被遣起請文之後、一切無重仰旨、迷是非畢。
存知内々御氣色、可思定安否之由。
頻依被愁歎、若以自然之次、被仰出此事否、爲伺形勢、所參候也。
全非陰謀之企<云云>。
則被尋仰參州、被申不覺悟之由。
當麻陳謝、雖愚詞、所行企絶常篇之間、符合日來御疑殆、其上當麻者、參州殊被相馮之勇士、弓劔武藝、已得其名之者也。
心中旁有不審之由、被經沙汰、無寛宥之儀。
剰有同意結搆之類否、雖及數箇糺問、當麻屈氣、更不發一言<云云>
起請文を送られた直後に、よもや頼朝様を暗殺なさろうと御思いになられたとは考え難いところで御座います。
この事件については、頼朝様の御心中を伺う為に寝所に男を偲ばせてしまった事が 更に仇となってしまい…というのが、良く見る解釈で御座いますね。
最早、範頼様は鎌倉には置いておけぬ御人と判断されてしまったので御座いましょう…、1週間後の8月17日(1193年9月21日)、伊豆国修善寺に幽閉されてしまうので御座います。
建久四年八月十七日
十七日 辛亥
參河守範頼朝臣、被下向伊豆國、狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等、所預守護也。
歸參不可有其期、偏如配流。
當麻大郎、被遣薩摩國、忽可被誅之處、折節依姫君御不例、被緩其刑<云云>。
是陰謀之搆、逹上聞畢。
雖被進起請文。
當麻所行、依難被宥之、及此儀<云云> (吾妻鏡による)
その後の範頼様の消息については幾つかの説が御座いますので詳細は定かで御座いませんが、幽閉直後に修禅寺にて誅殺された、もしくは自害なさったと伝えられるものが通説となっているようで御座います。
また、修善寺から落ち延びられたという説も御座います。
頼朝様や義経様と比べると、些か地味な印象が付けられがちな範頼様では御座いますが、源氏の武士として尽くされた御心に 他の御兄弟との差があるようには思えません。
遊女の子として生まれ、それでも源氏武士として命の限りを生きられた範頼様。
本当に求めていらっしゃったものは、義経様と同じであったのでは無いかな…と私には思えて仕方が無いので御座います。
Comment
あまり、範頼を扱った文章を読んだことがなかったので、興味深く拝見させて頂きました。
範頼の謀反の証拠は、明かに言いがかりですよね。
源氏の血を引く者は頼朝以外いらないみたいな感じで、怖いです。
たしか、政子の妹の夫で頼朝の異母弟も殺されてますよね。
ところで、どうゝねさんのアップしていらっしゃる写真は毎回とても綺麗ですねv
大変癒されます!
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冬芽 | URL | 2007/11/05/Mon 19:17[EDIT]
そういえば、私も余り範頼様に関する本や特集等は見掛けないような気が致します…;
頼朝様や義経様と同じ御兄弟で、源平合戦でも奮闘されておられるのに、どちらかといえば義経様がジャンジャン目立っていかれるばかりで、何だか ちょっと損な役回りのようにも見えてしまいますよね(苦笑)
謀反の件も、矢張り 納得出来ず……。。
政子様の妹の夫で頼朝様の異母弟=阿野全成様で御座いますね。
源氏の全ての方が、身内同士の争いを望んだ訳では無かったのでしょうに……地位や権力の為に血縁の者をも失脚させる世というのは、誰も信じられなくなってしまいそうで 本当に怖いですよね;;
わ〜…写真、褒めて下さって有難う御座います〜///
写真を撮るのが大好きなので、そう言っていただけると とっても嬉しいです♪
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謀反の件も、矢張り 納得出来ず……。。
政子様の妹の夫で頼朝様の異母弟=阿野全成様で御座いますね。
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どうゝね | URL | 2007/11/06/Tue 01:29[EDIT]
はじめまして。こんばんは。
いつも にほんブログ村からこちらのブログを拝見させていただいております。
私も源平時代が大好きでそれが高じて自分もブログを立ち上げて色々と書かせていただいております。
こちらでは、縁の史跡とそれにまつわる色々な話が紹介されていて、
また、画面も大変美しいので毎回更新を楽しみにさせていただいております。
さて、今回確かにジミーな感がある範頼を取り上げて下さいましたので
うれしくなってコメントさせていただきました。
私は、どちらかというとマイナーな人物が好きなので
こうして取り上げていただくと大変うれしく思います。
今後もこちらのブログを楽しみに読ませていただきたいと存じます。
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はじめまして、コメント有難う御座います。
いつも御覧になって下さって、嬉しいです〜わぁぁ///
ジミー範頼様(笑)、私も好きで御座います。
マイナーじゃない筈なのに、何故かマイナーな御方で…源平物の作品等を見ていても、いつも惜しい役所のように思えて ついつい気になってしまいます…;
さがみ様のブログ、拝見させていただきました。
源平時代の小説を書かれていらっしゃるので御座いますね〜素敵です。
同じ時代が好きな方が私の周囲には居りませんので、とっても親近感が…!
源平物の作品を探して本屋さんや図書館へ入り浸る事も多いので、とても嬉しいです♪
また、じっくりと読みにいかせていただきます〜。
今後とも、どうぞよろしく御願い致します。
いつも御覧になって下さって、嬉しいです〜わぁぁ///
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マイナーじゃない筈なのに、何故かマイナーな御方で…源平物の作品等を見ていても、いつも惜しい役所のように思えて ついつい気になってしまいます…;
さがみ様のブログ、拝見させていただきました。
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今後とも、どうぞよろしく御願い致します。
どうゝね | URL | 2007/11/07/Wed 01:47[EDIT]
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