
□ 源 実朝(みなもとのさねとも) □
生年月日:建久3年8月9日(1192年9月17日)
没年月日:建保7年1月27日(1219年2月13日)
父 :源頼朝
母 :北条政子
兄弟姉妹:千鶴丸、頼家(同母)、大姫(同母)、乙姫(同母)、貞暁
妻 :西八条禅尼(坊門信清女)
幼 名:千幡
戒 名:大慈寺殿正二位丞相公神儀
通 称:若公、鎌倉殿、鎌倉右大臣、将軍家、羽林、右府
官 歴:建仁3年9月7日(1203年10月20日)、従五位下、征夷大将軍宣下
建仁3年10月24日(1203年12月6日)、右兵衛佐
元久2年1月5日(1205年2月2日)、従五位上
元久2年1月29日(1205年2月26日)、右近衛権、加賀介
建永元年2月22日(1206年4月8日)、従四位下
承元元年1月5日(1207年2月10日)、従四位上
承元2年12月9日(1209年1月23日)、正四位下
承元3年4月10日(1209年5月22日)、従三位
承元3年5月26日(1209年7月6日)、右近衛中将
建暦元年1月5日(1211年1月28日)、正三位
建暦元年1月18日(1211年2月10日)、美作権守
建暦2年12月10日(1213年1月10日)、従二位
建保元年2月27日(1213年3月27日)、正二位
建保4年6月20日(1216年7月13日)、権中納言
建保4年7月21日(1216年9月11日)、左近衛中将
建保6年1月13日(1218年2月16日)、権大納言
建保6年3月6日(1218年4月9日)、左近衛大将、左馬寮御監
建保6年10月9日(1218年11月5日)、内大臣
建保6年12月2日(1218年12月28日)、右大臣
源実朝様は、建久3(1192)年8月9日巳の刻、頼朝様と政子様の間に生まれた末の御子様で御座います。
鎌倉幕府成立といわれる 頼朝様の征夷大将軍任命とほぼ同時期の御誕生で御座いましたので、実朝様と鎌倉幕府は同い年という事になりますね!
建久三年八月九日
九日 己酉、天晴風靜。
早旦以後、御臺所、御産氣。
御加持、宮法眼、驗者、義慶坊、大學房等、鶴岳相摸國神社佛寺、奉神馬、被修誦經。
所謂。
福田寺<酒勾> 平等寺<豊田> 範隆寺<平塚>
宗元寺<三浦> 常蘓寺<城所> 王福寺<坂本>
新樂寺<小礒> 高麗寺<大礒> 國分寺<一宮下>
彌勒寺<波多野> 五大堂<八幡、號大會御堂>寺務寺
觀音寺<金目> 大山寺 靈山寺<日向>
大筥根 惣社<柳田> 一宮<佐河大明神>
二宮<河勾大明神> 三宮<冠大明神> 四宮<前取大明神>
八幡宮 天滿宮 五頭宮
黒部宮〈平塚〉 賀茂<柳下> 新日吉<柳田>
先鶴岳、神馬二疋。<上下。>
千葉平次兵衛尉、三浦太郎等、相具之。
其外寺社、在所地頭、請取之。景季、義村等、爲奉行。
巳尅、男子御産也。
鳴弦、平山右衛門尉季重、上野九郎光範也。
和田左衛門尉義盛、候引目役。
小時江間四郎殿、三浦介義澄、佐原十郎左衛門尉義連、野三刑部烝成綱、藤九郎盛長、下妻四郎弘幹、<號悪權守>已上六人、献御護刀。
又因幡前司、小山左衛門尉、千葉介以下御家人、献御馬御劔等。
御加持、驗者等、給之。
八田兵衛尉朝重、野三左衛門尉義成、左近將監能直、引御馬。
加賀守俊隆、取別禄。<衣。>
次阿野上総妻室、<阿波局>爲御乳付參上。女房大貳局、上野局、下総局等、可爲御介惜也。
次有御名字定。
千萬君<云云>
頼朝様が将軍職に就かれた数日後という事もあってか、実朝様の御誕生には とても大勢の方々が御喜びになられたようで御座います。
御兄弟の中で、御誕生の日の事が これ程詳細に記録されている御方は他に居られません。
初授乳役、乳母に定められたのは、阿波局。
義経様の同母兄 全成様の妻で、政子様の妹に当たる御方で御座いますね。
いつの世も、末っ子は愛されるポジションのように長女な私には思えてしまいますが(笑)、その年の12月5日(1193年1月16日)、頼朝様は千幡様を御家人衆に見せて親馬鹿っぷりを御披露目なさっておられます。
建久三年十二月五日
五日 癸卯
依御堂供養事、令群參、未退散。
而今日、被召聚武藏守、信濃守、相摸守、伊豆守、上総介、千葉介、小山左衛門尉、下河邊庄司、小山七郎、三浦介、佐原左衛門尉、和田左衛門尉等、於濱御所。
各著北面十二間。
將軍家、自奉懐新誕若公、出御、此嬰兒鐘愛殊甚。
各一意。
而可令守護將來之由、被盡慇懃御詞、剰給盃酒。
女房大貳局<近衛局、>取杓持盃<云云>。
仍面々奉懐若公、献御引出物。<各腰刀云云。>
申謹承之由、退出<云云>
面々の方々に千幡様を抱かせて将来の守護を煽られており、頼朝様の御子様に対する愛情を露になさる親心と共に、簡単に殺める事の出来てしまう赤子を 各々方の腕に抱かせる事で 家臣の将軍家に対する忠誠心をさり気なく奮い立たせているようにも感じられます。
建久8(1197)年、姉 大姫様が死去。
この時、千幡様は僅か6歳で御座いました。
次いで、建久10(1199)年に 父 頼朝様死去。
将軍職は、兄 頼家様が継がれますが、建仁3年9月((1203年10月) 重病で危篤状態に陥った最中に起こった比企家の変によって、回復後 将軍職から外され、出家を経て伊豆修善寺に幽閉されてしまいます。
千幡様は、政子様の意向により従五位下と共に征夷大将軍の宣下を御受けになられました。
10月8日、元服、“実朝”の名は京より賜ったと愚管抄に御座います。
建仁三年九月十日
十日 乙亥
吹擧千幡君、被奉立將軍之間、有沙汰。
若君今日自尼御臺所、渡御遠州御亭。
被用御輿。
女房阿波局、參同輿、江馬太郎殿、三浦兵衛尉義村等、候御輿寄。
今日諸御家人等、所領如元、可領掌之由、多以被下遠州御書。
是危世上故也
建仁三年十月八日
八日 癸卯天霽
風静。
今日將軍家、<年十二>、御元服也。
戌剋於遠州名越亭有其儀。
前大膳大夫廣元朝臣、小山左衛門尉朝政、安達九郎左衛門尉景盛、和田左衛門尉義盛、中條左衛門尉家長已下、御家人等、百餘輩著侍座、江間四郎主、左近大夫將監親廣、持參雜具、時尅出御。
理髪遠州。
加冠前武藏守義信、次渡御休所後、進御前物。
江間親廣、爲陪膳役送結城七郎朝光、和田兵衛尉常盛、同三郎重茂、東太郎重胤、波多野次郎經朝、櫻井次郎光高等也<各近習小官中、被撰父母見存輩召之<云云>>次奉鎧御劒御馬佐々木左衛門尉廣綱、千葉平次兵衛尉常秀以下、役之
実朝様元服に際して、理髪は祖父である北条時政が行われました。
加冠役は、大内義信様。
大江広元様、小山朝政様、安達景盛様、和田義盛様、中條家長様をはじめとする百余名に渡る御家人の方々が立ち合われたようで御座います。
元久元年12月(1205年1月)、実朝様は京より坊門信清様の姫を正妻に迎えられております。
数ヶ月前に足利義兼様の娘を妻に、という話が出ておられたようで御座いますが、実朝様はこれを拒み、京に使いを出して妻に出来る貴族の姫君を探されております。
信清様の姉 藤原殖子(七条院)様は、後鳥羽上皇の生母で御座いますし、姫には上皇の後宮入りしている姉妹も居られる為、実朝様は京の上皇や貴族社会との絆を深める事で幕府の平安を保たれようと思われたのかもしれません。
修善寺にて前将軍である兄が殺されたのは、元久元年7月18日(1204年8月14日) の事……足利家との婚姻話が上がったのは、その翌月頃の事で御座います。
実朝様は御年13歳の御若さでは御座いますが、それ故に 考えられる思いも大きかった事と思われます。
1つの武家と縁を深める事で生じる周囲の状況を幼いながら客観視なされていたと考えるのは考え過ぎで御座いましょうか…。
和歌を愛し、風流を愛す鎌倉の貴公子と称される実朝様では御座いますが、個人的な私欲や思惑だけで決意と決めつけてしまうには、何か納得がいかないような……。
私が実朝様に憧れているからだと言われてしまえば、それまでの御話なのでは御座いますが…(苦笑)
元久2年閏7月19日(1205年9月11日)、北条時政様が妻 牧の方の思惑に乗って 御自身の御邸に御住まいになられていた実朝様殺害を目論みますが、密告を受けた事で事を察知した政子様によって実朝様は、義時様の御邸へと逃れられました。
これを受けた鎌倉武士達は、義時邸の実朝様の元へ馳せ参じ、将軍への忠誠心を示したといいます。
時政様の元に集う者は居なかったといわれ、時政様は出家の後に牧の方と共に伊豆へと追放される事となりました。
平家全盛期に生きた平家の者でありながら 源氏に与し、政子様と共に鎌倉幕府を背後から支えて来られ、孫の元服式にも立ち合われた御方で御座いましたのに、よもや この期に及んで若い妻の私欲に乗じて このような事件を起こされるだなんて…政子様も、さぞや心中裏切られた御心持だった事で御座いましょう…。
この事件後、執権職は義時様が継がれております。
元久2年9月2日(1205年10月22日)、披露前の新古今和歌集が京より届けられます。
病弱で武芸が不得意であったといわれる実朝様が何より好まれたのが、和歌。
実朝様は、後鳥羽上皇が編纂を命じられている新古今和歌集に故 頼朝様の御歌も入集されると聞き、強く閲覧を希望されたそうで御座います。
承元2年2月(1208年2月)、実朝様は疱瘡をかかってしまわれます。
承元二年二月三日
二月小
三日 癸卯晴
鶴岳宮、御神樂如例。
將軍家依御疱瘡無御出、前大膳大夫廣元朝臣、爲御使神拜。
又御臺所、御參宮
承元二年二月十日
十日 庚戌
將軍家御疱瘡、頗令悩心神給。
依之近國御家人等、群參 (吾妻鏡による)
疱瘡にかかる以前は、度々 鶴岡八幡宮に参拝されていた実朝様で御座いますが、この後 暫くの間は参拝を控えておられます。
疱瘡の跡が残ってしまった事に酷く心を苛まれてしまわれたようで…17歳という男真盛り(?)な頃に、しかも将軍という御立場で…端から見れば乙女のような御悩みかもしれませんが、自身に置き換えて考えると、矢張り辛い出来事で御座います。
承元3年7月5日(1209年8月13日)、実朝様は藤原定家様に和歌三十首の添削を請われております。
そして、8月13日(1209年9月20日) 定家様より、歌論書 詠歌口伝一巻(=近代秀歌といわれております)を贈られております。
実朝様は、京の上皇や貴人方との遣り取りを好機に 民の為の政治を行ったという古の朝廷政治を学び、鎌倉を平和な国にしたいと願われるようになられたといわれております。
然し、将軍として政や事件に関わった者を裁く際には やや寛容と申しますか、武士としては大変御優しいとも思われる判断を下されておられたり、処罰等に際して詠まれた和歌に心を動かされていたりという事も幾つか見られ…武士の国の将軍として、というより 実朝様は矢張り歌人としての御方であったので御座いましょう。
東国の武士達には それが京の貴族の政を真似た道楽のように映ってしまったので御座いましょう…。
そして、将軍である御方が 父を尊敬し 幕府の長としての責任感を持つという事を 執権側は望んでいなかったので御座います。
建暦3年4月(1213年5月)、幕府の有力御家人であり侍所別当であった和田義盛様が謀反を企んでおられるとの噂が流れ始めます。
これは、義時様による数々の挑発、傍若無人ぶりを受けた上でのもので、実朝様に恨みがあっての挙兵準備では無いと事前に実朝様が送った使者に対して告げておられます。
また、この挙兵を知った実朝様近臣である義盛様の孫 朝盛様は、これを拒んで出家し京へ向かわれますが、秘密の漏洩を恐れた義盛様によって連れ戻されてしまわれております。
5月2日(1213年5月30日)、ついに 義盛様は挙兵。
義時様はそれを受けて 政子様と実朝様の奥方様を八幡宮へと避難させられました。
和田勢は御所に火をかけましたが、その最中 実朝様は頼朝様墓所である法華堂へと逃れ、隠れられておられます。
合戦は鎌倉市街地を戦場に変えて、その後3日に及び行われました。
3日目の朝には和田勢が優勢になっておりましたが、相模、伊豆の御家人の軍勢が現れた為に敵味方の判別に悩む幕府軍に対して、大江広元様が実朝様の御名で作成した御教書を送った事で御家人衆は直ちに幕府方に付き、形勢は一気に逆転致しました。
鎌倉市中を巻き込んだ この合戦は、和田一族の滅亡をもって集結。
建保元年11月23日(1214年1月12日)、藤原定家様より相伝の万葉集が届けられました。
実朝様は、これに過ぎる重宝は無いと感無量の御様子で御座います。
実朝様の御歌の教科書は万葉集、師と仰がれたのは定家様…実朝様の、和歌に対する姿勢は、遺された御歌から大いに汲み取る事が出来ます。
実朝様の私家集 金槐和歌集は、この頃に纏められたものと考えられております。
金槐和歌集は、私の大好きな歌集の1つで御座います〜。
建保4年6月15日(1216年7月8日)、鎌倉に入った陳和卿と面会。
陳和卿は、東大寺の大仏再建を行った宋の僧で御座いますが、実朝様と対面した陳和卿は、実朝様を三度拝んで泣いたという事で御座います;
実朝様が不審がられるのに対して、陳和卿は“貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。”と述べ、実朝様はいつか夢に現れたという高僧が同じ事を述べており、それを他言した事が無かったのに言い当てられてしまった事に運命を感じられました。
11月24日(1217年1月10日)、前世の自分が居た場所である宋の国の医王山を詣でる事を強く望み、実朝様は渡宋の意思を告げて陳和卿に唐船の建造を命じられます。
義時様、広元様は、将軍が日本を出られるとはあるまじき事であると再三諌められましたが、宋へ想いを馳せる実朝様は一切許容されなかったという事で御座います。
そして建保5年4月17日(1217年5月30日)、遂に完成した唐船の入水式が由比ヶ浜で執り行われましたが、どんなに曳いても船は海に浮かぶ事は無かったようで御座います。
何と申しましょうか……しばしば物語等で大層滑稽に描かれている この故事が、実朝様の生涯で最も不評とされているように思うので御座いますが、私はそのようには…。
将軍としての器を疑問視される御意見は御尤もなのかもしれませんが、実朝様を将軍としてでは無く、1人の御人として考えた時 なんて素敵な方だろうかと思わせられるのは、矢張り この故事による部分が強いのだと私は思えてならないのです。。
6月20日(1217年8月1日)、亡き兄 頼家様の遺児であり、園城寺に入っていた公暁様が鎌倉入りをなされ、政子様の命によって鶴岡八幡宮の別当職に就かれました。
建保6(1218)年の実朝様は、驚く程 昇進を重ねられておられます。
2月には、右大将任官を求めて使者を出されましたが、父 頼朝様が右大将であられた事から 何としても左大将を求めよとの命に切り替えられておられます。
10月に内大臣に、12月には なんと藤原良輔様逝去の後に右大臣へ転じておられます。
武士としては前例のない右大臣就任――。
こうもトントン拍子に官位が上がっていくのは不審であると考える者も周囲には居られ、建保4年9月18日(1216年11月6日)の時点で、義時様と広元様は密談にて この異例な昇進を考えられておられます。
そして、その2日後に広元様は実朝様へ注意を促しておられますが、源氏の正統が絶えようとする中、家名を上げようと考えられている意思をもって これを聞き入れられませんでした。
実朝様の右大臣昇任の鶴岡八幡宮拝賀の為に、京の上皇より贈り物が届き、そして迎えたのが 建保7年1月27日(1219年2月20日)。
二尺程積もった雪の八幡宮にて行われた拝賀の後、参拝を終えて退出なされている最中に、暗殺。享年28。
ここで、鎌倉幕府において 初代将軍 頼朝様の血を引く正統男子の血筋は途絶えたので御座います。
御墓は、政子様と同じく寿福寺に御座います。
庭の梅を見て詠まれ、辞世の御歌となってしまった和歌、
“出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな”は、禁忌の御歌として吾妻鏡に記録されております。
実朝様の殺害された場所は、鶴岡八幡宮の石段で、あの大銀杏(?)に公暁様が隠れておられたとも伝えられておりますが、定かでは無い為、他にも説があるようで御座います。
御首は見付かっておらず、死の間際 記念にと与えられていた髪を入棺されたという事で御座います。
また、殺害犯は公暁様であるといわれております。
また、公暁様は実朝様に次いで太刀持ちの御役を務められていた 源仲章様を切り殺されており…これは、当初 太刀持ちの役であった義時様が体調不良の為に仲章様に譲った御役目であったようで御座いますので、本当ならば狙いは義時様であったのでは無いかと考えられております。
この辺りについては謎が多く、様々な説が流れておりまして 確かな事は解っておりません…。
ちなみに、公暁様も直後に殺されて御亡くなりになっておられます。
※タイトルは、新古今和歌集巻第十八“雜歌(下)”より、頼朝様の詠まれた御歌。
詞書は“前大僧正慈圓書にては思ふ程の事も申し盡しがたきよし申し遣はして侍りけるかへりごとに”
実朝様が、何よりも望まれた父の御形見で御座いますね…。
幼い頃に父を亡くされた実朝様は、周囲から偉大な御方であった御父上の事を しばしば聞かされていたので御座いましょう。
末っ子であるが故に、姉兄の中で最も薄い 父の記憶。
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