日本史(主に平安〜鎌倉初期)について。 あくまでも、独り言で御座います。

としをへて またたのむべき かんぜおん いのちなりけり よしだなかやま
黒谷01


洛東、黒谷――。
通称“くろ谷さん”で親しまれております 金戒光明寺は、平敦盛様亡き後の熊谷次郎直実様、そして玉織姫に関する史跡、伝承が残されております。

黒谷02


さてさて〜…黒谷といえば、黒谷本陣!と 先ず思い付いてしまうのは、幕末に浮気をしていた事がある証拠のような気も致しますが(よそ見)…ここ黒谷は 新選組好きには御馴染の場所。
江戸末期、京都守護職に就いた会津藩主 松平容保様が本陣を置かれた史跡でもあるので御座います。

黒谷の象徴のようでも御座います 大変立派な山門は、万延元(1860)年の建立。
この前に立つと、「よし、黒谷!!」と気合いが入ってしまいます(笑)

黒谷03


□ 金戒光明寺(きんかいこうみょうじ)

所在地:京都市左京区岡崎黒谷町
御創建:承安5(1175)年
御開祖:法然上人
御本尊:阿弥陀如来
山 号:紫雲山
宗 派:浄土宗
通 称:黒谷


金戒光明寺は、浄土宗七大本山の1つ。
山門、阿弥陀堂、御本堂、18の塔頭寺院が建ち並ぶ壮大な寺院さんで御座います。

承安5(1175)年、比叡山の黒谷を下りられた法然上人が初めて草庵を結ばれた事に始まる浄土宗最初の寺院で御座います。
法然様は、比叡山西塔の黒谷別所より白川へ移られたので、白河禅房と呼ばれた この地も黒谷と呼ばれるようになったようで御座います。

室町期までは繁栄されたようで御座いますが、こちらも矢張り 応仁の乱によって荒廃、堂宇は焼失致しました。
慶長10(1606)年には 豊臣秀頼様が阿弥陀堂を復興。

寛永10(1633)年、徳川2代将軍秀忠様供養の為に 文殊塔を建立。
御本尊である文殊菩薩像とその脇仏は、運慶様の作と伝わります。

そして、文久2年12月(1863年1〜2月)、京都守護職 会津藩主の松平容保様が本陣を構えられました。
この辺りの詳細を書いてしまうと妙に脱線して語ってしまうような気も致しますので、ここはサラリと…。

現在も非常に趣ある黒谷さん。
観音堂は、観音霊場としても有名で御座いますね。
また、春日局建立と伝わる徳川忠長様供養塔、崇源院様供養塔の他、春日局、八橋検校、会津藩士の方々の御墓もこちらに御座います。

   金戒光明寺

 紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷の名で親しまれている。
 寺伝によれば、承安五年(一一七五)、法然上人が浄土宗の確率のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土宗の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるに至った。
また、正長元年(一四二八)、後小松天皇より、上人が浄土宗土教の真実義を悟った由緒により「浄土真宗最初門」の勅願を賜った。
 御影堂脇壇には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(直實)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
 寺宝としては、山越阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文など数多くの文化財を蔵し、墓地には国学者山崎闇斎、茶人藤村庸軒、笙曲開祖八橋検校などの墓がある。
       京都市



   御影堂(大殿)

紫雲山黒谷金戒光明寺は法然上人ゆかりの地。
内陣正面には法然上人七十五歳三昧発得のお姿をお祀りしています。
以前の御影堂は昭和九年に火災にて全焼。
すぐさま再建に取りかかり、京都大学名誉教授天沼俊一博士の設計にてお堂の中が明るく、音が響くように木の一本一本に付いても吟味され、昭和十九年に落慶致しました。
昭和時代の代表的な木造建築と言われています。



黒谷04


御影堂の直ぐ右手には、直実様縁の松の木が御座います。
一ノ谷合戦にて、敗走する敦盛様を呼び戻し組み討たれた直実様は、自責の念から御出家なさったといわれております…が、史実的に考えますと 直実様出家の直接の原因が敦盛様を討った事に因るものか否かは微妙に悩ましい問題でも御座います;
いずれ、その件につきましても少し詳しく書きたいと思っております。

法然様を訪ねて出家された直実様は、その際 方丈裏(鎧池)にて鎧を洗い、御影堂横の松の木に鎧を掛けたといわれており、現在の松は2代目の松さんなのだそうで御座います。

   京都市指定 保存樹 クロマツ
       平成15年3月指定

まつ科 常緑高木
「源平の戦い」の後、熊谷次郎直実が出家する時、よろいを池の水で洗い、このクロマツにかけたという伝説にちなんで、「熊谷よろいかけ松」とよばれています。



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   極楽橋・蓮池(別名 兜之池)

 平安末期の源平の戦いで有名な武将熊谷直実が、この地に庵を結んでいた法然上人を尋ね、出家を決意し兜を置き、弓の弦を切り池に架けた形が起源といわれる。
 近世においては、寛永五年(一六二八)に春日局が徳川二代将軍秀忠の正室お江与の御台墓を建立し参詣する為に、蓮池に木造の「極楽橋」を寄進した。
 その後、寛永十年に豊永堅斎が二代将軍秀忠公追善菩提の為に山上に三重塔を建立し同十八年(一六四一)に「極楽橋」を石橋に作り替えた。
江戸時代の『都花月名所』には蓮の名所と謳われている。
 この度、三百六十有余年の時を経て改修、擬宝珠・欄干を付け 極楽浄土の橋を再現した。
     平成十六年十二月



黒谷06


浄土宗金戒光明寺の門東に御座います、塔頭 蓮池院。
極楽橋を渡った先に御座います こちらは、52歳の時に出家なされた 直実様(法名は蓮生)の住坊跡で御座います。
直実様の像を安置している事から、“熊谷堂”といも呼ばれております。
御本堂には、法然様が師弟の証として 敦盛様の形見という母衣に御自身を鏡に映されて描いたといわれる“法然母衣絹御影”が納められているのだそうで御座います。
法然様と直実様、そして敦盛様の御霊を繋ぐ絆の証でも御座いますね…。

以前、五条大橋傍の扇塚について記した際、顕彰碑に“ここ五条大橋の畔は 時宗御影堂の遺蹟であり 平敦盛没後 その室 本寺祐寛上人によって得度し 蓮華院尼と稱し 寺僧と共に扇を作ったと言い傳えられている”とある旨を書きましたが、その 蓮華院尼は、敦盛様の妻と伝わる(あくまでも伝承で御座いますので、史実である確証は御座いません;) 玉織姫(※清照姫、玉琴姫という説もあり)の後の姿であると伝えられているようで御座います。
敦盛様亡き後、蓮池院にて御出家なされた姫は、五条の時宗御影堂に於いて扇を作られ始めたという事で御座いましょう。
蓮池院の伝承によりますと、敦盛様の妻と伝わる女性は大納言源資賢養女であり、子供は無いとの事。
こちらには、敦盛様の像と共に 敦盛様の最期を知って出家した女性といわれる如佛尼の像も安置されているそうで御座います。

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蓮池院から東に少し登った場所には、法然様の分骨を納め 祀られている廟所、勢至堂が御座います。
建暦2年正月25日(1212年3月7日)、東山大谷禅房にて遷化された法然様の御遺体は大谷にて埋葬。
それから15年経った後、山徒によって大谷廟破却の迫害が起こりましたが、かろうじて御無事であった法然様の御遺骸はその翌年に西山の信空上人により荼毘に付されたといいます。
信空上人亡き後、その弟子の方々の手によってこの地に納められる事となったそうで御座います。
その後の応仁の乱で荒廃してしまうものの、延宝4(1676)年に再建。

   御廟

 この廟には法然上人(園光大師)の遺骨が祀られています。
法然上人(一一三三〜一二一二)は、建暦二年正月二十五日に東山大谷禅房にて遷化され大谷の地に埋葬されました。
御年八十歳でした。
 しかし、十五年後の嘉禄三年六月に山徒によち大谷廟堂破却の迫害が起き、難を逃れた法然上人の遺骸は翌年に西山の粟生野で当山二世信空上人等によって荼毘に付されました。
信空上人は法然上人の遺骨(分骨)を生涯身につけて離されなかったが、信空上人の没後に弟子たちによってこの地に葬られました。
 応仁の乱で廟は荒廃しましたが、天正元年(一五七三)に当山二十一世法山上人と善香法師により五輪の塔が建立され その後、延宝四年(一六七六)に金屋友竹等によって堂宇が再建されました。
内部には中央厨子の下層が五輪塔を包み、上層には勢至菩薩を安置、脇壇に法然上人涅槃像を祀っています。



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法然様の御廟前には、直実様と敦盛様の供養塔が向かい合わせに建てられております。

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法然様のもとで出家し、仏門に入られた直実様…蓮生様は、敦盛様の菩提を弔われたと伝えられます。
出家の後は、諸国を巡りながら敦盛様の供養をされたといわれております。
須磨寺の敦盛様像も直実様の御手製と伝えられておりますね…。
そして晩年、熊谷郷の庵(現在の熊谷寺)にて往生されたと伝えられます。

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敦盛様の供養塔…傍には、可愛らしい萩の木が。
生田神社の あつもりの萩の逸話を彷彿させられて、何だか嬉しくなってしまいますね。
敦盛様の御好きな木で御座いましょう…?

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蓮池院、法然様御廟、直実様と敦盛様の供養塔の周りは墓地で御座いますので、沢山の御墓が御座います。
史跡巡りの一環とはいえ、故人を弔う為の霊地を訪れる際には、御花や和歌等を手向けて心静かに手を合わせ、色々と想いを巡らせるようにしております。
その気持ちは、きっと 擦れ違う御墓参りの方々と同じ物であって良いのだと私は思います。

黒谷12


↑こちらは、山門を潜った石段途中の左側にいらっしゃいます“せいしまるさま”の御像。
せいしまるさま=法然様の幼名“勢至丸様”で御座います。

※タイトルは、金戒光明寺の御詠歌で御座います。

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